第1話 【記憶喪失】
僕は自分が誰なのか分からない。いわゆる記憶喪失という奴だ。
自分を自分たらしめているもの、それは記憶だ。僕はそれを失くしてしまった。
これまでの自分を定義するものがない今、僕は一体誰なのだろうか。
これからの自分を忘れない為に、そして願わくば過去の自分を思い出す一助として、僕は今日から備忘録を残すことにした。
"記憶喪失"という言葉はさほど珍しくもないが、実際に経験する人は稀だろう。
まずはじめに、記憶喪失状態で送る生活の中で気付いたことをいくつか挙げておこう。
僕が失った記憶は自分の過去や名前、年齢、家族の有無や住所などといった"自分に紐付けされているデータ"に関するものだ。面白いことに日本語の読み書きや、好きだったテレビ番組、料理などといった日本文化、生活習慣や社会制度、勉強で覚えたことや国名・地名などは結構覚えている。もちろん箸の持ち方や用便の仕方、簡単な料理などの作業も問題なく行えるので、現時点で"生活すること"だけを見れば全く支障はない。
"僕"という一人称が自然に出てきたのも、記憶を失う前に自分を僕と呼んでいたことを体のどこかで覚えているからだろう。
記憶喪失とは、生まれて此の方、脳に蓄積されてきた全ての記憶がまっさらになってしまうものではないらしい。
では何故僕が"覚えている"ことに気付いたか。
それは今僕が存在している世界がどうやら僕が"覚えている"世界とは根底から違う世界だからだ。
いや、見かけは似ている。
日本人に似た人種が日本語を話している。しかしここは日本ではない。それどころか地球ですらないと思われる。
そう思うに至った経緯を以下に書いていこう。
僕は倒壊した瓦礫の中で倒れている所を発見されて、この施設まで連れて来られたらしい。
施設で目覚めてすぐに50歳くらいの中年男性がやって来た。身長は僕より少し高く180cm強といったところか。
飄々とした風貌の彼は旗田と名乗った。
名前や住所など色々と尋ねられたが、自分のことは一切覚えていないので答えようがなかった。
旗田さんの話す言葉が日本語だったため、自然とここは日本のどこかだと思っていた。ところが話している内に、そうではないことに気付いた。
地名や組織名などの固有名詞は馴染みのないものばかりで、着ている服も現代日本の物とは違う。まるで着物と洋服が混在している昭和初期の頃のような古臭さがある。日本語での意志疎通に全く支障はない。日本語を母語とするのは日本だけだ。しかし僕の知らない国。ここは一体どこなのか。
聞くとここは『十紀』という国だそうだ。十紀なんて国名は過去の地名・国名としても聞いたことがない。
ここは僕の知っている世界ではない。タイムスリップのようなものでもなく、同じ太陽系に属するかすら怪しいと思えた。
旗田さんは暫くここで療養しろと言った。
なんでも最近"竜災害"という自然災害が起こって、近くの都市で多数の死傷者や行方不明者が出たのだそうだ。僕もその犠牲者の一人で、恐らく一時的に記憶が混乱しているのだろうとのことだった。
旗田さんが当たり前のように語る"竜災害"について尋ねた。
驚いたことに、この世界には竜が実在するらしい。いや竜をはじめとする魔物と呼ばれる諸々の敵性生物や、有翼人や獣人と呼ばれる亜人種も存在するのだそうだ。
魔物は元来この世界に存在するものではなく、歪と呼ばれる自然現象によりこの世界に入り込んでくる。歪とは突如どこかの空間に亀裂が入り、異世界との通路が開ける現象を指し、竜災害の前兆現象として必ず発生する。
通常規模の竜災害で現れる魔物は一匹や二匹、多くても五匹程度だ。発見次第、十紀政府から軍隊が派遣され、一~二日で鎮圧されるが、数十年に一度の周期で強力な力を持った竜や魔物が集団で出現することがある。
今回の竜災害はそれに当たり、中規模の都市が丸ごと破壊され尽くしたという、稀に見る大惨事だったらしい。完全に鎮圧されるまで一週間程度かかったそうだ。
竜、魔物、亜人に歪……何が起こってもおかしくない世界。どうして僕はこんなところに来てしまったのだろう。
しかしなんだかんだ言っても、元いた日本に戻る術は分からず、しばらくはここで暮らすことになる。まずはこの世界を把握することから始めよう。