名前
「・・・・・これは。っていうか、この場所・・・。」
地図に示されていた場所は、言ってしまえば都心だった。というか、県庁所在地だった。
N駅から徒歩7分、少し裏通りに面してその場所は書いてあった。いや、書いてあるのはそれだけだった。下に小さく5時集合!時間厳守!と書いてあったが、殆ど豆粒の様な字だ。
「いいでしょ?地下鉄、JR、何もかもが通っていて便利が良い、尚且つ中心部だから宣伝しやすい。そこで空いてる土地探すの苦労したのよねー。まあ運よくさびれた洋館みたいなのがあってね、持ち主と交渉して譲ってもらったの。それなりの値段で手に入れれたからよかったわー。」
「・・・・・ちなみに、広さは?」
「えっと、貴方が働いていた喫茶店より少し広い位?駐車場とお庭もあるから・・・100坪あるのかしら?きちんと図って無いからまだわからないけど。」
「・・・・。」
確か、都心部のマンション借りると10万は超えると聞いた事がある。こっちの方だと田舎なら5万で1LDK借りれるところだってあるので、基本皆田舎の方で電車やバスがそれなりに通っているところを選ぶ人が多い。都会に住めるのはよほどのお金持ちだけだよ、と友人達と話していた記憶がある。
それが、一等地、100坪・・・・一体いくらで譲ってもらったんだろうか。
・・・・いいや、気にしないでおこう。
「まあ、分かりました。土曜に行けばいいんですね?」
「ありがと。そこで、他に誘った従業員達も来るから顔が知れて丁度いいかもね。」
「・・・どんな人達なんですか?」
「私好み。」
・・・・何となく嫌な予感しかしないが、もうそれは置いておこう。
私は飲んでいたカフェモカを一気に飲み干した。既に少し冷めてしまっていた為、飲みやすくなっていた。
見れば、四ノ宮さんもいつの間にやら食べきっていた。あれだけしゃべっていて一体いつの間にあの量を食べ尽くしたんだろうか。お互い空のトレイを見て、席を立つ。
「じゃあ、私はまだ仕事があるから行くわね。ごめんねー仕事で疲れてる中来てもらっちゃって。」
「いえ・・・むしろ、有難うございました、四ノ宮さん。」
そう言うと、四ノ宮さんはちょっと笑ってから「んー・・・。」と悩んだような顔をした。
何だろう、何か悪い事を言ってしまっただろうか。
「・・・・水月でいいわ。」
「え。」
「名字で呼ばれるの、好きじゃないのよ。だから、水月って呼んでくれる?ほら、私もう貴方の事弥生ちゃんって呼んでるし。」
それなりに自覚はあったんだな、この人。
けど・・・名前か。男の人を下の名前で呼んだ事は、無い。一度も。小学生、中学生とまあ男の人と接する機会はあったけれど基本は名字呼び、高校は女子高だった為、同じ歳の男子と話す機会は全くなかった。男の先生はいたが、年齢差があったし。
・・・・・だからだろうか。物凄く抵抗と恥ずかしさがある。けれど、この人は名字で呼ばれるのは嫌だと言ったし、下の名前で呼ばなければ・・・何だろう。むくれてしまうんじゃないかと思う。
・・・勇気を振り絞るしかない。
「・・・・・・み、」
「ん?」
「み・・、み・・・水月、さん・・・。」
顔が熱い。おそらく真っ赤になっているだろう。相手の目も見れないくらい恥ずかしい。そこで水月、さん(やっぱり何か抵抗がある。)が何か言ってくれればいいのに、何も言わない。暫く無言が続く。
私は頑張って顔を上げ、相手を見る。そこには、あっけにとられたような顔をした水月さんの姿があった。
「・・・・・。」
「・・・・・・あ、あの・・・。」
「・・・・・あ、ああ。ごめんね。そんなに真っ赤な可愛い顔されたから、ちょっとびっくりしちゃって。」
「かわ・・・!?」
赤くなった顔が更に赤くなりそうだった。可愛い、なんて小さい頃は言われた事はあったけれど。それは小さい子特有の可愛らしさなだけで、赤ん坊や子供は「赤ん坊」や「子供」だけで可愛いのだ。段々と大人になっていくにつれて、それは次第に本当に可愛い子にしか言われなくなってくる。私は人見知りも激しかったので、むしろ「可愛くない子」と言われる方が多かった。
なので、急にそんな事を言われてしまったら、どう反応していいかわからなかった。
「・・・・あ、あの、あんまりそういう事は言わないで頂けると助かるんですが・・・。」
「ええ?だって可愛い子にはそう言っちゃうし・・・。」
「そ、それを止めてほしいんです!金輪際!私に対して!言うの禁止で!」
興奮してしまいつい大きな声でそう言ってしまった。肩で息をしている私に対して、水月さんはしぶしぶといった顔で「しょうがないわねー。」と納得してくれた。
何だろう、もうここまで来たら水月さんと名前で呼ぶ事に恥ずかしさが全く無くなった。可愛いと言われるより、だいぶましだと思う。
その状態に店員さんも何事かとこっちに視線が向いてくるので、私と水月さんは急いでその場を立ち去った。
駐車場に水月さんの車が止まっているので、そこまで同行する形になった。近くで見ても、やっぱり高級感がある。真っ赤なポルシェは汚れ一つない、新車の状態だった。
「これでも3年は乗ってるんだけどね。毎回手入れしてもらえば、綺麗な状態を保つ事は出来るのよ。」
毎回手入れ、まあ、車好きはするだろうが・・・この人は今「してもらう」と言った。やっぱりお金持ちは違うなあと改めて実感する。
「なんなら送っていくけど・・・乗ってく?」
「いえ、大丈夫です。近所なので。」
私の家はここから歩いて10分ほどで着く。わざわざ高級車で送ってもらうほどの距離じゃない。
それでは、と帰ろうとした。ら、今度は腕を掴まれた。
何だろう、まだ何かあるのだろうかと振り返ろうとした瞬間、思い切り腕を引っ張られ。
抱きしめられた。ぎゅう、と水月さんの体で私を体を包むように。
突然の事に驚いた。けどここで周りに知り合いはいないだろうか、どうか目撃者がいませんようにと願う冷静な自分がいるのにも驚いた。
「・・・・あ、あの・・・。」
「・・・・。」
「、水月、さん?」
「・・・・・うん、わかった。」
一体何が「わかった」のだろうか。そう思ったら水月さんからようやく解放された。私は急いで辺りを見渡す。よし、殆ど人はいない。マックの中の店員やら客には気付かれているかもしれないが、さっきお店を出るとき知り合いはいなかったから大丈夫だ。ほっと胸を撫で下ろす。
「突然ごめんねー。じゃあ、今度こそばいばいね。また土曜日、会いましょ。」
「え、ちょ。」
さっきのは一体何だったんですか、と質問する前に、水月さんは車に乗って発進させてしまった。さすがに車は追えないし、追ってまで聞く事では・・・おそらくないのだろう。
残された私は、いつまでも駐車場にいるわけにもいかないので、家の方へと歩き出す。
・・・・それにしても。あの人の行動は全く持って理解が出来ない。とゆうか、急に抱きしめるとか。
けど、まあ、そういう経験は初めてな訳で。意外にも細いと思っていた水月さんの胸とかかっちりしてたなとか、やっぱり男の人だから力強いなとか、全然嫌な匂いじゃない、凄くいい香水の匂いがしたな、とか。
「・・・・・って、変態か、私・・・・!」
再び顔が真っ赤になってくる。私はその熱を消すべく、家まで全速力で走る事にした。
結果はまあ・・・余計真っ赤になるだけで終わってしまったけれど。