仕立て屋
*若干ですが性的な描写があります。ご注意ください。
ウラヌス通りにある仕立て屋『森の葉っぱ』は城下町でも評判の仕立て屋だった。
丁寧でしっかりした縫製に、流行に左右されない、しかも華やかなデザイン。肌触りのよい布地には定評があり、さぞ高級な糸を使用しているのだろうと思われたが、その割には安価で庶民から貴族まで広く愛されていた。
現在の評判を作ったのは、ひとえに腕のよい職人たちのおかげだと、仕立て屋の若き女主人マリスはいう。
けれども、誰が語らずともみんな知っていた。
この若き女主人の類まれな商才なしでは、仕立て屋『森の葉っぱ』の繁栄はあり得なかったことを。
だが、そんなマリスはいま、苦悩していた。
栄光と没落、ふたつの選択肢があった。
どちらを選ぶべきかなど、考える余地もないくらい決まっているはずなのに、マリスは迷っていた。
間違えたのは、いつだったのか。
マリスはひとり考える。
いつ間違えたかなんて、そんなのわかりきっている。あの男を助けたことがそもそもの間違いだったのだ。
つまり、マリスはかれこれ十年以上間違え続けていたのだ。
マリスはあたたかな暖炉の炎の前で毛布をかぶってうずくまり、雪で白くぼやけた窓を眺め、過去へと思いを馳せた。
いまから十余年あまり昔、まだマリスは十を数えるかどうかの年齢だった。
商家の三人姉妹の長女ということで、マリスは厳しく育てられた。生まれは庶民だったが貴族の子弟なみの教育を両親は施した。マリスもまた、熱心な両親の期待に応えるように勉学に励んだ。
その教育の一環として入学した城下の学問所。同年代の子女と机を並べて学ぶことは純粋に面白かった。同時に、人間関係の複雑さも学んだ。
学問所にいたのは頭の回る「ずる賢いこ」が大半だった。おとなたちに気に入られるように「いいこ」の仮面をかぶり、こどもたちだけの時間になると我先に「おうさま」になり、場を掌握しようと勤しんだ。もちろん、マリスもそのひとりだった。気に入らない人間には平気で唾を吐いたし、裏で工作だってした。逆にされることもあった。どう切り抜けるのか、それすら腕の見せどころだと思い楽しんだ。
そんな生活を送っていたからだろうか。妙に気にかかる「いいこ」の少年がいた。
彼はけして目立つわけではなかった。はじめて見たときは、とても綺麗な金髪をしていたので思わず見とれてしまったが、容姿なんてすぐに見慣れる。
彼は無口ではなかったが、どこか存在が稀薄だった。ふらっと現れては、ふらりとどこかに消えていく。まるで猫のようだった。
そんな彼とマリスの間に自然と関わりができることもなく、ただ、見かければ、いるな、と思ったし、姿が見えなくなったら、またかと思っていた。
だが、秋も深まったある日、学問所の帰り道でマリスは三、四人の少年たちに囲まれた彼を見かけた。
もし彼を囲んでいた少年たちの中に、ひときわ背の高い赤毛の少年が混じっていなければ、マリスは見てみぬふりをしてさっさと通り過ぎていただろう。
「あんたたち、なにしてるの?」
「男同士の友情を深めてるんだよ。小猿女はひっこんでろ」
赤毛の少年はマリスを見て小ばかにしたように笑った。それがなんとも癪に障る。この少年はことあるごとにマリスを敵視してちょっかいをかけてくるため、マリスは彼のことが心底嫌いだった。
「ふーん。どうみても、おともだちっていったかんじじゃないけどねぇ。ねぇ、そこのあなた、本当にこんなクズみたいなやつ等とおともだちなの?」
金髪の少年に尋ねてみた。彼はびっくりしたような、きょとんっとした表情でマリスを見つめていた。
そしてすぐに、ふわりと笑みを浮かべた。この険悪な場には非常に不釣合いなきれいな笑顔だった。
「リュークがそういうなら、そうなんじゃないかな」
「ほーら、ざまぁみろ、小猿女。俺らとこいつはおともだちなの。邪魔者はおまえ。さっさとどっかいけよ」
畳み掛けるようにいって赤毛の少年、リュークはマリスの肩を乱暴に押しのけた。存外に強い力で、マリスはしりもちをついてしまった。
きっと睨みあげると、にやにやといやらしい笑みを浮かべるリュークがいた。完全に見下されている。とにかく腹が立った。
「なにするのよ!女の子に乱暴するなんてサイテー」
「女の子?そんなもんどこにいるんだ?どこにもいねぇじゃねぇか」
「いるでしょ、目の前に!」
「え、おまえ、女だったの?うわー。悪い悪い、猿にも性別があったなんて、こりゃ失礼しましたーっと」
完全に馬鹿にされている。
泣きたくなんかないのに、思わず悔し涙がこぼれた。それが余計に腹立たしくて、情けなくて、ますます涙がとまらない。
さすがのリュークもまずいと思ったのか、急に落ち着かなく周囲をきょろきょろと見回すと、連れの少年たちと一緒に脱兎のごとく逃げていった。
あとに残されたマリスは、よりによって嫌いなリュークの前で泣いてしまったことを後悔していた。絶対、また、これをネタにして馬鹿にされるに違いない。そのことを考えるともっと泣きたくなった。
「ごめんね」
ふいに、ぽんぽんと頭をなでられた。顔を上げると、マリスの癖のある赤毛とは違う、柔らかそうな金髪がさらりと揺れた。
「あっ……あいつら、ひっ、ろくなやつらじゃないでしょ。な、なにされてたの?」
しゃくりあげながらも、マリスは気丈に振舞った。
「ん?うん、お金がないから、貸してほしいって」
「ちょっと!それってカツアゲよ!立派な犯罪じゃないの!」
憤懣を露わにするマリスとは対照的に、少年はいまひとつ歯切れの悪い様子だ。
「……ちょっとは選びなさいよ、ともだち」
「うーん、そうだね。考えるよ」
なんだか本当に、少年たちにとってマリスは邪魔者だったのかもしれない。ときどき男の子はマリスにはとうてい理解できないような遊び方をする。傍目には不穏な雰囲気でも仲間内のじゃれあいだったということはおおいにありえる。
「ありがとう」
だから、少年の言葉は意外に響いた。
「ぼくのために、そんな風にいってくれるひとって、いなかったから。うれしかった。だから、ありがとう」
白いハンカチをポケットから取り出して、少年はマリスの涙のあとをぬぐった。その行為はとても優しかったが、マリスはいたたまれなくなり後ろにのけぞった。
少年は苦笑して、ハンカチをマリスに手渡した。
「えっと、名前、教えてもらってもいい?」
「マリス」
「マリス、マリスか……かわいらしい名前だね」
それは、かわいくないマリスに似合わないほどかわいらしい名前という意味だろうか。リュークに小猿とばかにされたあとで、マリスは卑屈になっていた。
どうも微妙な顔をしていたらしい。慰めるようにもういちど頭をなでられた。
「ぼくはルゥ。忘れないでね」
この日以来、金髪の少年ルゥはなにかとマリスにかまうようになった。
マリスも拒絶はしなかったので、一緒にいる時間が自然と増えた。一緒にいる時間が増えると、お互いのよいところもわるいところもわかるようになった。
たとえばマリスは、とにかくけんかっぱやい。口と同時に手がでるなんて日常茶飯事だった。生意気そうなくりっとした緑の目を猛烈につりあげて、学問所の上級生に噛み付くは同級生の男の子をひっぱたくは、傍目には問題児だ。
けれどなぜか、彼女はおとな受けがよかった。
「喧嘩はやっていいの。でも、いやがらせはだめ。仲なおりできないもん」
要領がよかったこともあるが、正当な理由もなく彼女が怒ることはなかったからだ。強きをくじき、弱きを助ける。それが彼女のモットーだった。
そんな彼女とは対照的に、ルゥはとてものんびりとしていた。面倒ごと頼まれても、笑顔で引き受けもくもくとこなす。誰かが困っていれば、みさかいなく手を貸して助けていた。誇張でもなんでもなく、みさかいなく手を貸すので、ひどいめにあったり騙されたりすることもあった。そのたびにマリスはルゥを諭すのだが、彼は嘆くでも憤るでもなく、いつもどおりの笑顔を浮かべるだけだった。
「困ってるひとがいたら助けるのはあたりまえだよ。それに、ぼくにも役に立てることがあるの、うれしいから」
手痛い目にあっても、ひとを疑うことを学習しないルゥにマリスは苛立ちを覚えていた。
こんなことがあった。
晴れたある日の午後のことだった。学問所からの帰り道、マリスとルゥはふたりで並び、たわいもない話でもりあがっていた。
町の中心にある公園と広場の間には小さな川があり、その上には橋が架けられていた。
その上をふたりが通りかかったとき、小さな声があがった。
こどもが、リボンを川に落としたらしい。お気に入りのものであったようで、大きな声で泣きはじめた。
「とってー。リボン、とってー」
かわいそうに思ったマリスは、こどもに駆け寄り頭をなでてやった。それが普通の対応だ。だが、ルゥは違った。
彼はとつぜん、橋の上から飛び降りた。悲鳴が上がった。あたりまえだ。橋の高さは低いものではない。
当然、ルゥは大怪我をした。
河原は血に染まり、ちょっとした騒動だった。あとから理由を聞くと、リボンをとってあげたかったらしい。もう少し考えてから行動しろと怒鳴ってやった。
あの血に染まった姿を、マリスは一生忘れられないだろう。
ルゥは怖い。ひとの優しい心を怖いと思ったのははじめてだった。彼のそれは、度を越している。献身的なんてなまやさしいものではない。一種の病気だ。
なんとかして自分がこの少年を、まともな一人前にさせなければ、という気持ちでいっぱいになっていた。もともとマリスには年の離れた妹が二人いるため、大きな弟が増えたような気分だった。
そんな風にして、ふたりの関係は緩やかに続いた。
小さな姉に大きな弟。
ふたりに変化が訪れたのは、忘れもしない五年前の冬だった。
いや、正確には、マリスにとっては、忘れたくても、忘れてはならない五年前の冬。
マリスの両親が、事故により急逝した夜。
マリスは処女を奪われた。
その年の冬は、寒かった。城下町全体がまっしろに染まっていた。めったにないことに町のこどもたちは喜んだが、おとなたちは頭を悩ませた。
冬の雪に慣れない町のひとびとは、出歩くこともままならず、大半は家に引きこもった。それでも、町では雪による事故が多発した。マリスの両親は、不幸にもそのような事故に巻き込まれてしまったのだった。
事故の報せをうけたのは、夕方だった。父の右腕として重宝されていた青年が、動揺も隠さずに真っ青になってマリスたちの館に飛び込んできた。慣れない雪道で転んだのだろう、服も髪もぐっしょりと濡れていて、まず彼の姿にマリスは驚いた。
父を守る忠実な番犬のような、堂々とした威風の彼が、泣いていた。
「ど、どうしたの。レオン、なにがあったの?」
かけよるマリスの華奢な身体にすがりつくようにして、青年はおおきな身体を震わせた。
「だんな様と、奥様が……」
館に運び込まれた両親の遺体をみて、最初に大泣きしたのはマリスより五つ下の妹だった。大きな目からぽろぽろと涙をこぼして、並んで眠る両親にすがり付いていた。
一番下の妹は、まだ死を理解している風な年頃ではなかったが、この場にただならぬ気配を感じたようだった。よたよたと両親のもとにかけより、つられたように泣きはじめた。
死の報せをもってきた青年、レオンはさきほどまでのあれほど取り乱していたというのに、そのようなことを微塵も感じさせない淡々とした様子で葬式の段取りを町の神官に相談しているようだった。
マリスは、妹たちのように泣きもせず、かといってレオンのように場を仕切ることもできず、ただ呆然としていた。
頭では、まだ小さな妹を慰めて、これからのことをレオンや店のひとと相談しないとと考えているのに、体が動いてくれなかった。
両親が死んだ。それも、突然の事故で。
今日は遅くなるけれど、心配しないで。そう母は言った。小さな妹たちのことを頼んだよ。そう父は言った。ふたりとも、マリスのもとに戻ってくるはずのひとだった。
それが、なぜ。
マリスは混乱し、心を閉ざした。気丈に振舞わなければ。マリスにはまだ守るべきものがある。理性では理解しているのに、嵐のような感情が胸に渦巻き、マリスを苦しめた。
「マリス」
声が聞こえた。耳に馴染んだ、やさしい声だった。
両親でもない、妹たちでもない、なのに肉親のようないたわりをもってマリスを呼ぶ。
「ごめん、遅れた」
さらりとした金髪は雪で濡れていた。穏やかな湖面を思わせる瞳はまっすぐにマリスを見つめていた。ルゥだった。
ルゥはマリスの頭を優しくなでてから、立ち上がり、両親の傍で泣きじゃくる妹たちを同じように慰めているようだった。彼と親しく付き合うようになってから、マリスはルゥを何度か家に呼んだことがあった。妹たちも彼には気を許しているようだった。
遺体は館から運び出され、神殿に保管されることになった。夜遅かったが、レオンが遺体の搬出を請負ってくれた。
マリスは遺体の搬出に付き添った。葬式は一日置いて、明後日に行う段取りになっていた。神殿の冷たい床に、両親をおろしたレオンの、きれいな遺体でよかったという呟きに同じ気持ちをマリスは抱いた。
暗い夜道をレオンに送ってもらい、マリスは館の扉をあけた。ひんやりとした玄関をぬけて、客間にはいると、ぱちぱちと炎のはぜる音が耳についた。暖炉に火がはいってた。
机をはさんで、向かい合う大きめの赤いソファにはへこみがあり、つい先ほどまで誰かがいた気配があった。
「あ、帰ってきたんだ」
「……まだ、いたの」
家族部屋へと続く扉を開けて客間に入ってきたのはルゥだった。
硬質な声音のマリスを意に介した様子もなく、彼は赤いソファに身を沈めると、長い手足をだらりと伸ばした。
「うん。ついさっき、やっと眠ってくれて。泣きつかれたんだろうね、ふたり仲良くベッドに並べてきたよ。部屋、間違えてたらごめんね」
「別にいいのよ。妹たちの面倒、みてくれて、ありがとう。本当はあたしがやらなくちゃいけないのに、ごめん、余裕がなくて……言い訳でしかないけど」
お姉ちゃんとしてはゼロ点だ。いまさら、傷ついた妹たちにもっといたわりをもって慰めてやればよかったとマリスは後悔していた。
「そんなの、当然だよ。マリス、君だって、あのこたちと同じなんだから」
ルゥの言葉の意味をはかりかね、マリスは彼にうろんな目をむけた。そんなマリスの手を引いて、ルゥは自分の隣に彼女を座らせた。
「ねぇ、マリス。君、ちゃんと泣いた?」
「え」
「我慢はよくないよ。とくに、かなしいことがあっても溜め込んでしまうのはよくない」
突拍子もない彼の言葉に、マリスは瞬いた。
「こどもじゃないもの。そりゃ、すごく悲しいけど、あたしの分まで妹たちが泣いてくれたわ。それに、これからすごく忙しくなるもの。あのこたちを養っていかないと。泣いてる暇なんてないわ」
「それでもだよ、マリス。泣くのは悪いことじゃない。弱いことでもない。君は泣いていいんだよ、だってとても悲しいことがあったんだから」
一瞬だった。
ぐいと強い力に引き寄せられたと思ったときには、マリスはルゥの腕の中だった。
こうなってはじめて、マリスは彼は友人であっても、年の近い男性で、彼に近づきすぎていたことに気がついた。
「……離して。ルゥ、変よ。あなた、こんなことするひとじゃない」
「マリスが泣かないから」
その言い訳はもっと変でおかしい。
そう思ったのに、マリスの意に反して、彼女の唇からは純粋な寂しさが零れ落ちた。
「傍にいて、お願い」
言葉にしてから、マリスは自らの失言に気がついた。
かわらで血にそまったルゥの幼いからだ。彼は怖い。彼は簡単に自分以外を優先させる。
しかし、こぼれた言葉は取り消せない。
マリスを慰めるように、背中をなでる大きな手。まずいと思った。隙間を埋めるように、首元に寄せられた頬。ぬくもりがいとしかった。肌に触れる生暖かい吐息。抗えなかった。彼のぬくもりに身を任せながら、マリスは彼の肩越しに、窓のむこうで夜の上をすべるようにちらちらと降る白い雪を見ていた。
仕立て屋の事業を引き継ぐことは、マリスにとって、思っていた以上に大変なことだった。
いっそのこと手放してしまってはどうかと勧められたこともあったが、両親が大事に育ててきた店だ。従業員もそれなりにいる。簡単にあきらめる気にはなれなかった。
それに、マリスはひとりではなかった。父の右腕であった青年レオンがいた。彼から経営や仕立てにまつわるさまざまなことを学び、マリスは仕立て屋の女主人としての立場を固めようとしていた。
学問所は、すっぱりと辞めた。代わりにとばかりに、マリスは下の妹たちを学問所に放り込んだ。
「私も、お姉さまを手伝います。だって、もう十歳だもの。なにかできることがあるはずです!」
「あたしも!あたしも!」
妹たちは自分たちも働くといって聞かなかったが、マリスは断じて許さなかった。
「自分ができることがなんなのか、それがはっきりと分かってから手伝ってちょうだい。それが分からないまま働きにこられても、迷惑なの。あなたたちはそれを学ばなくてはならない年頃よ。」
仕立て屋を継ぐのはひとりで十分だ。妹たちには自分の思うように生きてほしかった。マリスは、彼女たちが安心して飛び立てる、時には戻ってきて羽を休めることができるような故郷を作ってやろうと考えていた。
そう考えると、不思議と気力がわいてきた。
「張り切るのはいいですけど、たまには俺にも休みをくださいよ」
夕暮れ色に染まる城下町を、ふたりで歩いているときに、ふとレオンが愚痴をこぼした。
大きな商談がまとまってご機嫌な様子のマリスは明るい調子で返した。
「ごめんね、レオン。最近、店の調子がいいから、つい、この勢いで!って思ってしまって……。いつも尻拭いばかりさせて、悪いと思ってるのよ」
口ではそういいながらも、マリスの表情にはまったく悪びれた様子がない。
マリスがやる気を出してあちこち奔走すると、必ず、レオンにもとばっちりがいっていた。仕立て屋の新しい主人は、考えなしにつっこむので傍でみているレオンはいつもはらはらする。そのくせ、きちんと商談はまとめてくるので、この女主人は本当に侮れない。
「もう、父さんたちが死んで、三年くらいかな。レオン、あなたには本当に感謝してるの。たくさん助けられたし、いまもずっと助けられてる。ありがとう」
「どうしたんです。あらたまって」
「なんとなく。ありがとうっていえるうちにいっとこうと思って」
レオンは優秀な男だった。彼なしでは、とてもじゃないがマリスがまともに仕立て屋を継ぐことはできなかった。
ときどき、マリスは、父が彼を後継者にしようと考えていたのではないだろうかと思うときがある。たぶんそれは間違ってはいないだろう。
「と、はい。無事家に送り届けましたよ、お嬢さん。それじゃ、俺はここで」
マリスの住む館の前でふたりは立ち止まった。今夜はシチューだろうか。いい匂いが扉の外まで漂っていた。
「ねぇ、レオン。久しぶりにあがっていかない?今夜はシチューかな」
「え。あー……いや、遠慮しときます」
「どうして?いつも送ってもらってるし、なんだか悪いわ」
「いいんです。だんな様にお嬢さんを頼むっていっつも言われてたし、その延長線ってことで。気にしないでください」
すげなく断られて、マリスは少々不満に思った。夕暮れ色の向こうに彼の姿が消えるまで見送って、マリスはため息をつく。
マリスとしては、レオンに相当親しみを抱いているのだが、彼はそうではないのだろうか。小さなころから父のもとで働いていた彼は、マリスにとっては近しい存在だった。
落胆しながらマリスが館の扉を開くと、生白い腕が二本にゅっと伸びてきて、マリスの腰のあたりをぐっと引き寄せた。悲鳴を上げそうになりながらも、すんでのところでマリスは声を飲み込んだ。こんな子どもじみた悪戯をするにんげんは、館にひとりしかいない。
「おかえり、マリス」
案の定、マリスが予想していたとおりの金の髪。楽しげに細められた、穏やかな湖面を思わせる瞳を思い切りにらみつけながらマリスは言った。
「……ただいま、ルゥ」
あの夜を境に、ルゥはマリスにまとわりつくようになった。
心に傷を負った少女たちの身の回りの世話を甲斐甲斐しく行う少年の姿は、いっとき近所でもいい意味で評判だったが、まさかこんなに長く続くとは誰も考えてはいなかっただろう。
「おはよう、マリス。ごはんできてるよ。妹さんたちはもう起きてる」
大体、マリスの一日はこの言葉から始まる。
寝ぼけまなこのマリスが食堂にいくと、テーブルの上には焼きたてのパンにスープ、サラダ、それから卵焼き。妹たちと朝の挨拶を交わして、朝食を摂る。
仕立て屋に出かけようと玄関に向かうと、ルゥに呼び止められて口付けを強要される。一度、洗い物をする彼の背中をこっそり通り過ぎて出かけようとしたが、ばれたあげく泣かれたのでおとなしく口付けを受けることにしている。
昼は忙しい。場合によっては家に帰れない日もある。
「おかえり、マリス。ごはんにする?おふろにする?」
へとへとになって帰ってくるマリスを出迎えるのは、ルゥの役目だった。
マリスの気分によっていろいろなことは省略されたが、必ず夕飯を食べることを強要された。ルゥは変なところでおしが強かった。
さて、寝ようとマリスが寝室に向かうと、大体ベッドの上にはルゥがいた。天使のような笑みを浮かべて、疲れて横たわるマリスの傍ににじりよると。
「疲れてる?うーん、肩、こってるかも。ほぐしてあげるね」
といって、余計なところまでほぐしてくれる。
そしてまた朝がくる。念のため、避妊薬を口に含んで起き上がるとパンを焼くいい匂いが漂ってくる。
未婚の娘にあるまじき生活だった。
仕立て屋事業を引き継いだマリスは、正直にいって忙しい。
そんな彼女が家に割ける時間は少なかった。なので、家の中のことから妹たちの面倒までみてくれる彼の存在はありがたい。ありがたいが、複雑だった。
一応、ルゥは学問所の卒業証書を手にしたらしい。そのようなことを以前言っていた。しかし、学問所を出てからはずっとマリスの家に入り浸りで、社会に出るようなそぶりはまったくない。
ずっと家にいるのも退屈だろうと思い、マリスの仕立て屋で働くことを勧めたこともあるが、彼は気のない返事をするばかりだった。
「そういえば、ご両親は平気なの?その、私の家にずっといてくれるけど」
「うん。ぼく、いないほうがうまくいくみたいだから」
それっきり、彼の両親についてマリスは尋ねたことがない。
長く彼と付き合っているが、きっと、たぶん、肝心なことはなにも話し合えていないのだろう。そう考えると、いいようのないやるせなさがマリスを襲った。
マリスの叔母が、マリスに見合いの話をもってきたのは、冬が訪れた寒い日だった。
仕立て屋事業も軌道にのり、マリスも仕事が楽しくなってきていた。マリスは職人ではないので、取引先との交渉や物品の仕入れ仕出しが主な仕事だった。仕立てたものが評判になると、自然、取引相手も裕福な層が増えてくる。中には高貴な身分の方からの依頼もくるようになっていた。
「マリス、あなたの商才はすばらしいと思うわ。けれど、未婚の女性であるあなたが商売を仕切っていくのはそろそろ難しいのではないのかしら」
久しぶりに顔を合わせた叔母の目は、記憶の中よりも優しかった。
郊外にひっそりと佇む田舎風の叔母の家に招かれたときから、面倒な予感はしていた。マリスは居心地悪そうに身を竦めて、目を伏せた。
「取引相手は男性が多いでしょう。このままではあらぬ噂を立てられることも出てくるのではないかしら。もしそうなったら、あなたは不利な立場に立たされるわ。兄が遺してくれたあなたたち姉妹が、不幸な目にあうのは私も忍びないの」
善良な女性はあたたかなまなざしで、包み込むようにマリスを見つめる。
叔母の言い分も、分からないではなかった。彼女はこういいたいのだ。『取引相手である男性を誘惑して仕事を獲得している』と思われないために、マリスの身の潔白を証明してくれる相手が必要だと。
マリス自身は、取引先と会うときは必ずレオンを連れているし、もし彼が不在のときは信頼のおける職人を伴うようにしている。身の潔白はレオンたちが証明してくれるので十分だと考えていたが、世間はそうはいかないらしい。
「もし、あなたを守ってくれる男性が既にいるというのなら、いいの。でも、いないのなら……。ねぇ、マリス。あなた、いいひとはいるの?」
短いのに、寝起きでも乱れが見られないさらさらの金髪。穏やかな光を湛えた水面のような瞳。すっと通った高い鼻梁に、薄い唇。ほっそりとした顎のライン、意外とたくましい胸板。ふだんは優しい耳障りのよい声音だが、ときどきひどくあまったれた声でマリスにまとわりついてくる、日に焼けない長い腕と大きな手。
恐らく一般的には格好いい部類にはいるだろう腐れ縁の男を思い浮かべて、反射的にマリスは打ち消した。
あれは、ない。断じて、ない。ありえない。
たしかに彼とは、長い付き合いだし、体の関係すらある。けれども。マリスは胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
ルゥの赤く染まった幼い姿がふいに浮かんだ。彼は、考えなしだ。
「どうなの?」
叔母の問いに、マリスは答えた。
「いません。いたら、よかったんですけど」
叔母は嬉々とした様子で、マリスに封書を手渡してきた。ちょうど脇に抱えられるくらいの少し大きめの封書には、見合い相手の姿絵が入っているらしい。捨てるわけにもいかず、結局持って帰るはめになった。
相手は、貴族の男らしい。成り上がりの商人の娘をあてがおうと考えるあたり、おそらく金銭的に逼迫した下級貴族あたりだろう。後妻かと尋ねると、叔母は否定した。意外だった。
マリスにとって今日は久しぶりの休日だったが、気の滅入る叔母の話に付き合ったためあまり休んだ気になれなかった。
憂鬱な気持ちで帰途につき、館の扉を開ける。玄関で靴を脱いだあたりで、ぱたぱたとせわしない足音が聞こえて、能天気な顔をした男がマリスを出迎えた。
マリスの腰に腕をまわして、男は場所もかまわず彼女の頬にちゅっと口付けた。
「おかえり。今日は早かったね。まだ夕飯の用意、すんでないんだ。ごめんね」
「ううん。それより、教育に悪いから離して」
「そうかな。ぼく、マリスと仲良くしたいだけなんだけどな。それに、妹さんたち、まだ学問所だよ」
しぶしぶといった風にルゥはマリスから身を離した。ほっと息をつくのもつかの間、今度は手を握られてそのまま客間に連れて行かれる。
客間に並ぶ赤いソファの上に座るように促され、マリスはソファに身を沈めた。この部屋はよく家族の団欒に使っていたな、ととりとめのないことを考えた。疲れていた。
ルゥはソファに座ったマリスのひざの上にまたがり、真正面から彼女の瞳を覗き込んだ。翡翠の双眸にうつるルゥは、真剣な表情をしていた。
マリスを閉じ込めるようにして、ルゥはソファの背に両腕をついた。そのまま噛み付くような口付けをされた。抗う気も起こらず、マリスはルゥの好きにさせることにする。
何度も何度も、深く絡みつき吸い付いてくる舌先に、知らずマリスも応えていた。背中からぞわりと押し上がってくる快楽に耐えかねて、息が上がる。調子付いた彼の右手が、彼女のやわらかい双丘をもみしだいたのはさすがにマリスも許せず、眉を寄せ瞳で抗議した。
ルゥは、はっとしたように身を引くと、急にしおらしく肩をおとした。先ほどまでの強引さが嘘のようだった。
「ごめん。けど、なにかあったの。帰ってきたときから、ずっと沈んだ顔してる」
「気づいてたなら、こんなことする前に聞いてほしかったわ」
ルゥの胸を押して、マリスは彼に自分から降りるように促す。彼はすなおに従い、彼女の隣に行儀よく腰掛けた。
そのとき、ふたりの戯れて少しひしゃげてしまった封筒にルゥが目をとめた。
「あちゃ。ごめん、それ、大事な書類だった?」
マリスはあいまいな表情を浮かべて、その質問を流した。大事といえば大事だし、くだらないといえばくだらない。なんとなく、後ろめたさも伴ってマリスはさっとその封筒を隠すように脇によけた。
「マリス?」
ルゥはばかではない。ひとの気持ちの機微に敏いほうだ。それを忌々しく思う心をマリスはため息にかえて吐き出した。
「……疲れてるの」
「みたいだね。先におふろにする?ここでゆっくりくつろいでもいいし。ぼくは、非常に名残惜しいけど、夕飯の準備があるから食堂にいくよ」
飛び跳ねるようにソファから立ち上がったルゥは、身をかがめるとすばやくマリスに触れるだけの口付けをした。
こういう戯れは、嫌いじゃない。マリスはそう思い、そして、離れていく彼の背中に向かって、彼の名を呼んだ。
「ルゥ」
「ん。なぁに?」
「私たち、いつまでも、こんな関係つづけてはいけないわね」
一瞬の空白。
彼がそのとき、どんな表情を浮かべていたかはマリスにはうかがい知れなかった。
ただ、ふりむいた彼は薄く笑みを浮かべていた。
「え。それって、プロポーズ?どきどきしちゃうな」
「どこをどうとったらそうなるの」
茶化すルゥに、内心苛立ちを覚えながら、半ばやけっぱちでマリスは続けた。
「叔母さんに、見合いを勧められたの」
「ふーん。そっか。会うの?」
「……うん」
しばし迷ったが、マリスは正直に答えた。
叔母の顔を立てる意味でも、会うだけは会うつもりだった。受けるかどうかは分からないが、叔母は相当期待しているようだった。
なんとなく罪悪感めいた感情を抱えたマリスとはうらはらに、ルゥは飄々としたものだった。彼はおおげさに肩をおとして、おおきく首を振って嘆いてみせる。
「じゃあ、ぼくはそろそろお役ごめんってところかな。ぼくはマリスを支える力も持ってないし、ああ、でも、さみしいなぁ」
「……そうね」
「それじゃ、夕飯の用意をしてくるね」
そういって、彼は手をひらひらと振って食堂へ消えていった。
少しくらい、マリスをなじったり、腹を立ててくれたら、マリスも救われたはずだった。なのにルゥときたら、まったくいつもどおりの態度を崩さなかった。
そのことは、わずかにマリスを失望させた。
そして、はたと気づく。
なぜ、自分は失望だとしているのだろう。こんなの、当然の話だ。マリスとルゥは恋人でもなんでもない。ただの、友人、あるいはヒモと飼い主。
その証拠に、彼は一度だって、睦みあっているときでさえ、マリスを好きだといったことはなかったし、マリスもそれは承知しているはずだった。このあいまいな関係を承知できているはずだった。
なのにマリスはすごく泣きたくなった。
きっと、彼は望んでいない。望んでくれない。マリスが望めば、ルゥは彼女の願うところを快く引き受けてはくれるだろう。彼はそういうモノなのだ。
ひとの期待に応えようとする、けなげな生き物。
だからこそ、マリスから望んではいけない。マリスに縛り付けてはいけない。
いい機会かもしれない。
マリスは考えた。
そろそろ潮時だったのだ。きっとこれは彼を解放するいい機会になるだろう。
「お嬢さん?」
突然の声に、マリスはびくりと肩を震わせた。驚いて玄関へ続く扉をみると、レオンが立っていた。
「いつから……というか、なんで」
「ついさっき。一応お邪魔しますとは声かけたんですけど、誰も出てこないし、とりあえず客間にあがらせてもらいました。今日はお嬢さん休みだったでしょ。だから、一応今日一日の報告にあがったしだいです。俺は別に翌日でもいいと思うんですけどね、お嬢さんまじめだからその日に報告が聞きたいっていってたし」
そういえば、そうだった。所在なさげに肩をすくめるレオンをみて、マリスはあわてて向かいのソファを勧めた。レオンは遠慮なくソファに座ると、てきとうに書類を広げて本日の報告を淡々とマリスに伝えた。
新作のデザイン、特注品の進捗状況、仕入先の値段にイベントの予定。重要な情報がめまぐるしく与えられるが、とてもじゃないが今のマリスに吸収しきれるわけがなかった。
「それで……お嬢さん」
「ん?」
「ぜんぜん聞いてませんよね」
「ばれた?なんか、ちょっと、疲れてるみたい。わざわざ呼びたてたのに悪いわね」
優秀な部下は肩をすくめてみせた。
つづけて書類を手早く片付けると、ふいに、レオンは世間話を始めるかのような気軽さで話をはじめた。
「お嬢さん、見合いするんですね」
「っ。な、なんでそれを……。……。あなた、聞いてたわね。どこから聞いてたの!」
思わず声をはりあげて、マリスはレオンにつめよった。
「空気を読んで、入るタイミングをうかがってたら、つい」
「さいあくだわ……」
羞恥から耳まで真っ赤に染め上げて、マリスはつっぷした。レオンはにやにやとなんともいえない笑みを浮かべてマリスを見つめていたが、ふいに、その表情が引き締められる。
そして、レオンは言った。いままで、彼女の私生活に対していっさい口を挟まなかった男が、はじめて彼女と向き合った。
「お嬢さん。家のために生きるのは、もう十分じゃないですか。妹さんたちも、もう分別のつく年頃になりましたよ。だんな様に、俺、頼まれてるんです。お嬢さんがたがみんな幸せになるようにしてくれって」
「それって、見合いとめようとしてるの?」
「はい。あなたはあなたをないがしろにしすぎるきらいがあると、前から俺は思ってましたよ。結婚なんて、好きなもの同士ですればいいんです。上級階級じゃどうかしりませんがね、俺たちは幸いにもただの庶民なんですから。商売なんて、腕ひとつです。そして、お嬢さんは腕に恵まれてる。なにせ、この俺がいるんですから」
口角をあげて、にやりとレオンは笑って見せた。
つられたように、マリスも笑った。鬱々と沈んでいた胸の奥にじわりと、暖かなぬくもりがひろがるようだった。
「頼もしいわね」
「でしょう?なんなら、俺にしておいてもいいですよ。お嬢さん」
「ばかね。心にもないこといっちゃって」
マリスの浮かべた笑みは弱弱しかったが、前をむいていた。レオンは満足そうにうなずくと、ごく自然なうごきで彼女を引き寄せた。マリスも拒みはしなかった。レオンのような男にも、労わるような、ふんわりとしたこんな抱擁ができるのだとマリスは驚いた。
ふいに、風がうごいた。
客間の扉が開かれたのだ。視界の端に金色をみとめて、マリスはぎくりとした。
扉の向こうに、眉をひそめたルゥと、ひどく動揺した様子の下の妹が立っていた。
あわてて身を離そうとするマリスを、レオンは逃がさない。それどころか、ことさら見せ付けるようにレオンは腕に力をこめた。
「夕飯、できたよ。冷めないうちに食べてほしいな」
最初に響いたのは、のんきそうなルゥの声だった。一瞬視界にうつった険しい表情は既に消えていて、ルゥの様子は平和そのものだった。
「ほら、リーズちゃん。君もおなかすいてるでしょ。いこっか。レオンさんもよかったらどうですか?」
平然と下の妹に話しかけて、ルゥは今夜の夕飯の献立をつらつらと話し始めた。そして、そんなルゥの態度に、マリスは落胆した。
マリスがほかの男の腕の中に、抵抗もせずに収まっているこの状況は、彼にとっては、夕飯の献立以下のとるにたらない事象なのだと改めてつきつけられた。
結局彼は、マリスが望むからここにとどまっていたにすぎない。
そして彼は、自身以外を優先できるひとだ。怖いくらいに。
マリスを慰めるように、レオンは彼女の背中をなでた。
まるでそれに後押しされるように、マリスは口を開いた。
「ルゥ」
「ん?」
「いままで、ありがとう。傍にいてくれて、ありがとう。もう、私は大丈夫よ。へいき」
レオンの腕を静かにはずして、マリスはルゥに向き合った。
「あの夜。父と母が死んだ日、私がお願いしたことを、律儀に守ってくれてたのよね。本当、あなたっておひとよし。でも、もういいよ。私はへいき。だから、さようならしようか」
「マリス……ぼくは」
ルゥの言葉をさえぎって、マリスはとうとうと述べた。自分自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと。
「大丈夫。私たちはもとに戻るだけ。こどものころみたいに、頻繁には会えないかもしれないけど、あなたは私のいい友人だわ。いままで私の家の事情に縛り付けてしまって、ごめんなさい」
「……マリスが、そう、望むなら。さようならだね」
ぱたんと、扉が閉じられた。
「あの、お嬢さん」
「なに」
「いえ、なんでもありません」
その日のうちに、ルゥはマリスの館から姿を消した。
着の身着のまま居ついたので、彼自身の私物はほとんどなかった。気まぐれでなついていた野良猫が、急に姿を見せなくなったような、寂しさがあった。
妹たちは彼の不在になかなか慣れなかったが、愚図ることはなかった。女の子の勘で、マリスとルゥの間になにかしら秘密めいたことがあったことは気づいていたようだった。
ルゥが姿を見せなくなってから、ぽっかりとあいた館の穴を埋めるようにレオンが訪れることが多くなった。マリスと一緒で多忙な彼だが、休日にするまとめ買いや、大掃除などを手伝ってくれた。彼にはお世話になりっぱなしで、マリスは彼に頭があがる気がしなかった。
結局、見合いの話は断ることにマリスは決めた。
心に痛手を負ったばかりで、気がのらなかったし、やはり貴族のような堅苦しい身分のところに嫁ぐのは性に合わないと思ったのだった。マリスの叔母は非常に残念がったが、最後には納得してくれたようだった。しかし、彼女は懲りない性格のようで、その後も何件か見合い話をもってきては、やんわりと断わられることを繰り返している。
風の噂で、ルゥは神殿で働いているらしいことを聞いた。
おだやかな彼の性格に合ういい場所だと、マリスは思った。誰よりも献身的な彼なら、水を得た魚のように活躍しているに違いない。活躍しすぎて、またやっかいごとに巻き込まれていなければいいけれど。
離れても、彼の身を案じる自分を発見してマリスはひとり苦笑した。まぁ、友人なら心配してもいいだろう。そう思うことにした。
ルゥとの甘い記憶は、わずかに心を震わせたが、思い出に変わりつつあったそんなとき、マリスはプロポーズされた。
相手は、マリスより十ほど年上の、取引先の主人だった。実直そうなまじめな青年で、周囲の評判も上々。レオンの古い知り合いらしく、彼に紹介される形で親しくなった。早くに妻に先立たれ、寂しい男やもめを長く続けていたそうだ。
「悪い男ではありませんよ。少しまじめすぎるきらいがありますが、お嬢さんは少し奔放なところがあるから、ちょうどいいんじゃないですか」
レオンがひとをほめるのは珍しかった。それくらい、彼は魅力的だった。
マリスの気持ちは、彼のプロポーズを受けるほうに傾いていた。何度かその気持ちを伝えようと試みたが、そのたびに、脳裏にさらりとした金髪がよぎる。結局、なにも伝えられないまま、デートの回数だけが積み重ねられていった。
「私は気の長いほうだから、気にせずゆっくり考えてみてほしい」
そんな彼の言葉に甘えて、マリスは恋人ごっこを楽しんでいた。
いづれ、このごっこ遊びは本物に変わるだろう。その変化をマリスは受け入れようとしていた。
秋も深まり、冬の気配が近づいていた。
冬はマリスにとってあまり好ましい季節ではなかった。
例の取引先の主人とのデートの帰り道。はらはらと散る木の葉の中をふたり並んで歩いた。白い息をつきながら、たわいもない話をかわす。ふたりでいるときは、極力仕事の話はなしにしようと言い出したのは彼のほうだった。
まっすぐに伸びた並木道の終着点、ふたまたに別れた道の前でふたりは立ち止まり、向かい合った。
「今日は家まで送れずにすまない。これから急な打ち合わせがはいってしまって」
「気にしないで。それより、遅れないように気をつけてね」
「ああ。ありがとう。また、会ってくれるかい?」
「もちろん。楽しみにしてる」
軽い抱擁を交わして、マリスは彼の姿が見えなくなるまで見送った。
空を見上げて、息をはく。白い。今日は一段と寒いなと思った。いやな季節だ。冬は、マリスからいろいろなものを奪い去る季節だった。
彼を見送った道とは反対の道を、マリスは歩きはじめた。
ふと、道の向こうからこどもたちの楽しげな声が聞こえてきた。どんなに寒くても、こどもたちは元気だ。あんな時代がマリス自身にもあったことが、いまでは信じられない。
「……あ」
こどもたちに引っ張られるように、頼りなげにふらふらと道を歩く青年の姿をみとめて、マリスは息を呑んだ。間違えようもない、ルゥだった。
同じ町に住んでいるのだ。噂も聞くし、遠目から姿をみかけたこともあった。しかし、このようにまともにすれ違うようなことは今までなかった。
ルゥもマリスに気づいたらしかった。一瞬、彼は呆けたような顔をした。
「マリス。こんにちは」
「……こんにちは」
軽く言葉を交わす。ただの挨拶だというのに、マリスはひどく緊張していた。
そんな彼女にはお構いなしに、ルゥにまとわりつくようにしてマリスを伺っていたこどもたちは、一斉に口を開いた。
「ルゥの彼女?」
「いや、それはないな!こんなおっかなそーなねーちゃんをルゥ兄が乗りこなせるとはおもえない!」
「えー。でもあやしいと思うなぁ」
口達者なこどもたちだ。
ルゥはのんきに笑って、あいまいに答えるだけだった。
「元気そうで安心したわ。それじゃ」
「あ。待って、マリス」
立ち去ろうとしたマリスをルゥは引き止めた。こどもたちになにごとか告げると、こどもたちは笑いながらルゥから離れていった。じゃれあいながら道をいくかれらを見送って、ルゥはマリスと向かい合った。
「いいの?」
「うん。ぼくより、しっかりしてるよ。あのこたち」
しばしの沈黙。
ルゥは、少し髪が伸びていた。背も、少し高くなっただろうか。けれど、瞳は変わらずに穏やかな優しい光を宿しているように思えた。
「久しぶり。会いたかった」
「調子のいいこといって」
「あはは。本当なんだけど。マリス、仕事、順調みたいだね。神殿のおんなのひとたちが、マリスの仕立て屋をほめてるのを最近よく聞く」
「ありがと。職人たちの腕がいいからね。ルゥは……」
「ぼくは、神殿にごやっかいになってるんだ。もともと、卒業したら、神官になるようにすすめられてたから。最初はいまいち気がのらなかったけど、厳しいけどけっこうのんびりしてて楽しいよ」
あどけない笑顔をうかべてルゥはいう。
彼は自然な動作でマリスを道端の芝生まで導くと、首に巻いていたスカーフを芝生の上に広げて、そこに彼女を座らせる。
「んっ」
唐突に唇を奪うと、ルゥは熱っぽい目でマリスを見つめた。
「……ねぇ、マリス。ぼくのものになってよ」
「なに、とつぜんばかなことを言ってるの。こんな、道の往来で……正気?」
「うん。すごく」
昔からわけのわからないところがルゥにはあったが、いまの彼はマリスの理解の範疇を超えていた。
マリスは濡れた唇を押さえながら、ため息混じりにルゥをおしやった。
「悪いけど、私にはいまお付き合いしてるひとがいるの」
「好きだよ、マリス。きみにすごく会いたかった」
だがルゥはこたえない。遠慮のない所作で彼女の赤い髪に口付けると、にっこりと笑みを浮かべた。
マリスは急に腹がたった。彼女がいちばん欲していたときには与えなかった言葉を、いま簡単に口にする彼のことが憎らしく、どうしようもない感情が渦巻いてうまく舌がまわらなかった。
「なんで。いまさら。こんな。遅いよ。遅すぎる。私。どうして」
「今夜、君に会いに行くよ。そこで話そう」
ちゅうっと音を立てて、彼女の頬にすいつくと、ルゥはさっと立ち上がった。
毅然とした態度で断らなくては。
そう思うのに、こんなに胸がどきどきして、うれしい気持ちでいっぱいなのはどうしてだろう。
マリスにとって、ルゥへの思いは過去のものにしたはずだった。
遅すぎたのだ。彼は。
どうして、いままで会いにきてくれなかったのだろう。
いまさら。なぜ。
混乱した頭ではうまく考えることができず、去り行く彼の背中をマリスは静かに見送るしかなかった。
ぱちりっと暖炉の火がはじけた。
今夜はことさら冷えて、気がつけば雪が降り出していた。窓から見える景色は、うっすらと白に覆われていた。
栄光と没落、ふたつの選択肢があった。
どちらを選ぶべきかなど、考える余地もないくらい決まっているはずなのに、マリスは迷っていた。
かちゃりと、客間の扉が開かれた。
「ほんとは、マリス、きみがぼくに会いにきてくれるのを期待してたんだ。ずっと」
ひんやりとした冷気があたたかな客間に吹き込んできた。ルゥに鍵を渡したままだったことを、マリスは分かっていた。分かっていて、鍵を変えたり、彼に返してもらうように迫ることはなかった。
「きみがぼくを見つけてくれたときのように。ずっと待ってた」
暖炉の火に照らされた彼は、きれいだった。見た目はずっとおとなびた青年になっていたけれど、心根は昔と変わりないように思えた。
「でも待ちきれなくて、来てしまった」
対して、マリスはどうだろう。マリスは自分自身に問いかける。
彼に昔と変わらない思いを抱いているのだろうか。
すぐさま否定する。
マリスは変わってしまった。変わるに足る時間が経っていた。
ゆっくりと歩み寄り、マリスの傍らにひざまずいたルゥから、マリスは思わず逃げるようにあとずさる。
ほんの少し、ルゥは傷ついたように目を伏せた。そんな彼をみると、マリスも心苦しかった。
「理解できないわ、ルゥ。それに、あなたは間違ってる。あなたは優しい人だから、私の願いをかなえてくれようとしてるんだろうけど、私、そんなのじゃやっぱり満足できない」
「マリス」
「だってルゥは、いつだって誰かのために、なんでもしてきたじゃない。私だけは、そうならないようにしようって思ってたのに。なのに」
「勘違いしてるよ。ぼくは、好きな女性以外にこんなことしない」
逃げようとするマリスを引き寄せて、ルゥは彼女の耳元でささやいた。
懐かしい体温に、安堵する。
「じゃあ、どうして、そういってくれなかったの?ずっと昔、別れる前に」
「……ごめん。ぼく、自信がなかったんだ。ぼくにできるのは家事くらいで、忙しい君をいつも困らせてた。そんなぼくが……。でも離れて痛感したよ。ぼくには君が必要だって。自分勝手でごめん。愛してる」
マリスはとうとう観念した。どう抗ったって、恋の炎に勝てるわけがないのだ。マリスだって望んでいる。
マリスは変わってしまった。昔よりもずっと、彼に入れ込んでしまっている。
彼に触れられるだけで、胸が高鳴る。どうにかなってしまいそうだった。
「どうしよう。いろんなひとに迷惑かけちゃう」
「いいよ。ぼく、謝るから。それ以外のことだって。マリスを手に入れるためなら、なんだってする」
「あなたがそういうと、本当にしそうで怖いわ」
そしてマリスはルゥに口付けた。
暖炉の炎に照らされて、ゆらゆらと、ふたつの影が重なった。
ウラヌス通りにある仕立て屋『森の葉っぱ』は城下町でも評判の仕立て屋だった。
丁寧でしっかりした縫製に、流行に左右されない、しかも華やかなデザイン。肌触りのよい布地には定評があり、さぞ高級な糸を使用しているのだろうと思われたが、その割には安価で庶民から貴族まで広く愛されていた。
現在の評判を作ったのは、ひとえに腕のよい職人たちのおかげだと、仕立て屋の若き女主人マリスはいう。
けれども、誰が語らずともみんな知っていた。
この若き女主人の類まれな商才なしでは、仕立て屋『森の葉っぱ』の繁栄はあり得なかったことを。
けれども、彼女を生涯支えた男のことをしるものは少ない。
男は笑っていうだろう。それでいいと。
完結させることを第一に書きました。
もう少し狂気めいた話にしたかったのですが、力量不足でした。
ここまで読んでくださってありがとうございました。