『君の説明は必要ない』と婚約破棄された記録係ですが、冷徹監察官だけは私の話を聞いてくれました
「エリシア・ベルフォード。君との婚約は、本日をもって破棄する」
王宮の審問室で、婚約者のアルベルトはそう告げた。
私は返事もできず、彼を見つめていた。
三か月後には結婚式を控えていた。先週は新居に置く家具について話し合い、私が選んだ大きな書棚を見て、彼は呆れたように笑っていた。
『結婚してまで仕事の書類を持ち込むつもりかい?』
あのとき、私も笑って答えたはずだ。仕事の書類ではなく、好きな本を並べるのだと。
そんな他愛のない会話さえ、今は遠い昔のことのように感じられた。
「それだけではない」
アルベルトは評議官たちに向き直った。
「彼女には、王立救護院へ支給されるはずだった金貨三百枚を横領した疑いがあります。私は王宮財務官として、正式に告発いたします」
金貨三百枚。
確かに覚えのある数字だった。昨日、私が支出記録の不審な記載に気づき、調査を始めた金額だ。
「お待ちください。私は、その件について昨日あなたに照会状を――」
「君の説明は必要ない」
静かな声だった。
怒鳴られるよりも、その落ち着きが恐ろしかった。
「証人が三人いる。君が書庫で問題の記録を調べ、金貨三百枚について書類を作成し、私に秘密の書状を送ったことは確認されているんだ」
審問室の長机には、三通の証言書が並べられていた。
中央には年配の評議長、左右に二人の評議官が座っている。壁際では記録官が筆を走らせ、扉のそばには王宮衛兵が控えていた。
私は王宮の記録係として四年間、書類の作成と整理に携わってきた。自分が作った記録に疑義が生じれば、調査に協力するのは当然だ。今朝、審問への出頭を命じられたときも、問題の送金について事情を聞かれるのだと思っていた。
ところが、執務室へ着くと私の机は封印されていた。上司は目を合わせず、衛兵が審問室まで同行した。
その理由が、ようやく分かった。
私は被告発者なのだ。
「ベルフォード嬢」
評議長が書類から顔を上げた。
「本審問は、あなたの職務停止と、横領容疑を正式な司法手続きへ送致するかどうかを審議するものです。告発内容について、申し開きはありますか」
「私は、公金を横領しておりません」
それだけは、はっきりと言えた。
「金貨三百枚が救護院とは関係のない商会へ送られていたことに気づき、原因を調べようとしました。書庫を利用したのも、書類を作成したのも、そのためです」
「しかし、正式な報告は受けておりませんな」
右側の評議官が、手元の書類を指で叩いた。
「不正な支出を発見したのであれば、監察院へ報告するのが規則でしょう。なぜ、あなたはそれをしなかったのですか」
私は言葉に詰まった。
答えは分かっている。
けれど、それを口にすれば、私は別の過失を認めることになる。
「やはり、説明できないようですな」
評議官は小さく息を吐いた。
「ヴァイス財務官からは詳細な告発書が提出されています。証人も三人いる。これは単なる記録上の誤りでは済まないでしょう」
左側の評議官も、険しい顔で証言書を読み直していた。
伯爵家の娘である私が王宮で働くことを、父は最後まで心配していた。
貴族の令嬢がそこまで仕事に打ち込む必要はない。結婚すれば、続けるのも難しくなるだろう。それでも私が記録係を志したのは、帳簿の向こうに人々の暮らしがあると知ったからだった。
支援金の記載を一つ間違えれば、必要な物資が届かなくなることもある。記録の訂正が遅れれば、正しく働いた人が疑われることさえある。
だから、正確に記すことを何より大切にしてきた。
その私が、記録を不正に扱ったと疑われている。
「これ以上の弁明は不要でしょう」
アルベルトが評議長に告げた。
「彼女は問題の支出を扱う立場にあり、記録を調べた後、私へ不審な連絡まで行っています。職務停止だけでも、速やかにご決定いただきたい」
彼は一度だけ私を見た。
その目には、私が知っていた婚約者の面影がなかった。
私は膝の上で両手を握った。爪が掌に食い込んでいるのに、痛みはほとんど感じなかった。
「評議長。発言をよろしいでしょうか」
審問室の左手から、低い声が聞こえた。
顔を向けると、黒い制服を着た男性が立ち上がっていた。
レオンハルト・アシュフォード。
王宮監察院に所属する監察官であり、公爵家の次男でもある。銀灰色の髪を整え、いつも必要以上の言葉を口にしないことから、王宮では『氷の監察官』と呼ばれていた。
以前、王立救護院への支援物資に関する調査で、彼と仕事をしたことがある。
そのときも、彼は厳しい人だった。
納入業者の説明を鵜呑みにせず、救護院の職員にも遠慮なく質問し、私が用意した記録さえ一枚ずつ確認した。
けれど、毛布の不足が判明すると、責任の所在を調べるのと並行して、子どもたちへ必要な枚数が届くよう手配してくれた。
その後も私は何度か仕事で彼と顔を合わせた。厳格な態度は変わらなかったが、提出した記録について質問を受ける時間を、以前ほど苦痛に感じなくなっていた。
「アシュフォード監察官。何か問題でも?」
「本日の審問について、確認があります」
レオンハルトは評議長に向き直った。
「告発者の提出した証言書をもとに、被告発者への処分を検討していると理解しています。しかし、証人本人への確認はまだ行われていません」
「書面での証言は揃っておりますぞ」
「承知しています。ですが、証言書に書かれた事実と、告発者がそこから導いた結論が、同じものであるとは限りません」
アルベルトが眉をひそめた。
「証人たちが虚偽の証言をしたとでも?」
「そのようなことは申し上げていません。証人が何を見聞きしたのか、直接確認する必要があると言っているのです」
評議長が顎に手を当てた。
「確かに、職務停止だけでなく司法手続きへの送致まで検討する以上、証言の確認はしておくべきでしょうな」
「しかし、これ以上時間をかければ、彼女に証拠を隠す機会を与えることになります」
「執務室は封印され、本人も審問中です。現時点でその危険はありません」
アルベルトの反論に、レオンハルトは即座に答えた。
私は二人を交互に見た。
レオンハルトは、私を庇う言葉を一度も口にしていない。
私が無実だとも、信じているとも言わなかった。
それでも、評議長は三人の証人を順番に呼ぶことを決めた。
「ベルフォード嬢」
レオンハルトが私に視線を向けた。
「あなたにも質問する機会が与えられます。ただし、事実と異なる説明をすれば、その責任はあなた自身が負うことになります」
「……承知しております」
私は立ち上がり、礼をした。
彼の声は、いつもと変わらず厳しかった。
けれど、その厳しさを向けられても、私は不思議と恐ろしくなかった。
少なくとも、この人は私の代わりに結論を決めようとはしていない。
私が何をしたのか、自分の言葉で説明する機会を与えてくれている。
その機会を、無駄にするわけにはいかなかった。
◇
最初の証人は、王宮書庫の管理人だった。
六十歳を過ぎた男性で、私が見習いだった頃から書庫を任されている。仕事で顔を合わせるたび、閲覧簿の記入を忘れないよう注意してくれた人だ。
彼は証人席に着くと、落ち着かなさそうに帽子を膝の上で握った。
「昨日、ベルフォード嬢が書庫を利用したことに間違いはありませんか」
「はい。午前十一時二十分頃です。王立救護院に関する支出記録を閲覧したいと申請されました」
「その後の行動は?」
「所定の閲覧台をご案内しました。私は受付に戻りましたので、ずっと見ていたわけではありません」
アルベルトが提出した証言書を持ち上げた。
「管理人殿。彼女は問題の支出記録が保管されている棚を指定したのでしたね」
「はい。そのとおりです」
「しかも、通常の閲覧よりも時間をかけて調べていた」
「そうですな。十五分ほどだったと思います」
「十五分ですか」
「ええ。普段のベルフォード嬢なら、必要な記録を確かめれば、すぐにお帰りになります。昨日は同じ冊子を何度もめくっておられました」
評議官たちが顔を見合わせた。
私は昨日のことを思い出していた。
確かに、普段より時間をかけた。
救護院への支援金は、月ごとに支出予定と実際の送金結果を照合する。ところが昨日、金貨三百枚の送金先だけが、見覚えのない商会になっていた。
転記の誤りかもしれないと思い、過去の支出記録まで確認したのだ。
「ベルフォード嬢」
アルベルトが私に向き直った。
「問題の記録に接触したことは認めるね」
「はい」
「それだけの時間があれば、記録に手を加えることもできたはずだ」
私はすぐに反論しなかった。
彼の言うとおり、記録に接触する機会はあった。
ただし、機会があったことと、実際に行ったことは違う。
「質問してもよろしいでしょうか」
評議長の許可を得て、管理人に向き直った。
「昨日、私が閲覧した記録は、退室後に確認していただけましたか」
「ええ。いつもどおり、綴じ紐と紙の枚数を確認しました」
「異常はありましたか」
「紙が抜かれたり、増やされたりした形跡はありませんでした。ただし、書き込みまでなかったと断言はできません」
「ありがとうございます。もう一つ、教えてください」
私は管理人の膝に置かれた帽子を見た。彼は縁を握り直し、こちらへ顔を向けた。
「問題の支出記録は、私が閲覧する前に書庫へ届いていたのですね」
「はい。午前十時頃でした」
「閲覧した冊子を、私が持ち込んだわけではありませんね」
「もちろんです。書庫に保管されているものをご覧になりました」
私は頷いた。
管理人が確認できるのは、書庫への入室と、記録の保管状態だけだ。
記録を改竄していないと証明してもらうことはできない。けれど、私が問題の冊子を持ち込んだわけではないことは、これで明らかになった。
「ありがとうございました」
アルベルトが口を開いた。
「だからといって、彼女が不正に関与していなかった証明にはならないでしょう。事前に計画し、後から記録を確認した可能性もあります」
「はい。その可能性まで、管理人様の証言で否定することはできません」
私が認めると、アルベルトは一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「ただ、管理人様が確認されたのは、私が書庫へ入り、問題の記録を閲覧したことです。改竄を行ったところをご覧になったわけではありません」
右側の評議官が腕を組んだ。
「しかし、閲覧した理由については、あなた自身の説明を信用するしかないでしょう」
「現時点では、そうなります」
「それでは、疑いが晴れたとは言えませんな」
「はい。ですから、ほかの記録も確認していただきたいのです」
私はそこで質問を終えた。
管理人が退室すると、左側の評議官が証言書に何かを書き加えた。
右側の評議官は、変わらず険しい表情をしている。
最初の証言だけでは、誰の判断も大きく変わっていなかった。
それでも、私は少しだけ呼吸が楽になっていた。
昨日までなら、アルベルトに反論した後は、必ず彼の機嫌を気にしていた。
今は、次に確かめるべきことを考えていた。
◇
二人目の証人は、財務部の書記官だった。
私と同じ階で働いている男性で、顔を合わせれば挨拶する程度の間柄だ。彼は証人席に座ると、手元の証言書を何度も確認していた。
「昨日の午前十一時四十五分頃、ベルフォード嬢が書類を作成しているのを見ました」
評議長に促され、書記官は証言を始めた。
「書類には、金貨三百枚という数字がありました。彼女はかなり急いで書いている様子でした」
「その書類が何だったか、確認しましたか」
「いいえ。ただ、財務関係の書類だったと思います」
アルベルトが頷いた。
「問題の金額について書類を作成していたことは、間違いないのですね」
「はい」
「そして彼女は、その後、私へ書状を送っている。つまり、問題の送金に関する書類を作成し、財務官へ連絡を取ったわけです」
右側の評議官が、証言書の二枚目を取り上げた。
「書庫で記録を確認した後、金額を記した書類を作り、財務官へ連絡した。行動としては一続きに見えますな」
確かに、一続きの行動だった。
ただし、目的はアルベルトが説明したものとは違う。
「質問をしてもよろしいでしょうか」
書記官がこちらを向いた。
彼は少し身構えていた。私が証言の誤りを指摘すると思っているのかもしれない。
「昨日、私の机の横を通られたのは覚えています。書類の束を抱えていらっしゃいましたね」
「ええ。財務部へ戻る途中でした」
「そのとき、私の書類を手に取られましたか」
「いいえ」
「表題はご覧になりましたか」
「……いいえ。金額が目に入っただけです」
「では、どのような目的の書類だったかは、分からないということですね」
書記官は少し迷った後、頷いた。
「そうです」
「ありがとうございます」
私は評議長へ向き直った。
「昨日、私が作成していたのは送金指示書ではありません。アルベルト様宛ての照会状です」
「照会状?」
アルベルトの眉が動いた。
「はい。王立救護院への支援金が、別の商会へ送られていた理由を確認するためのものです」
私は昨日書いた文章を思い出しながら説明した。
送金先が変更された理由、救護院側から変更申請があったかどうか、承認した担当者とその判断の根拠。不正な支出である可能性があるため、速やかに回答を求める旨も記した。
「照会状の控えは、私の机の引き出しにあります。確認していただけるはずです」
評議長が記録官へ指示を出した。
「封印の状態を確認し、控えを取り寄せなさい」
アルベルトはすぐに反論した。
「彼女自身が作った控えです。内容が事実だと保証されるわけではないでしょう」
「そのとおりです」
レオンハルトが答えた。
「ですが、書記官が見た書類の種類を確認する意味はあります。証言の内容そのものは変わらなくても、その解釈に関わりますから」
私は彼を見た。
彼は記録官に必要な手順を指示しているだけだった。
それでも、私の説明が初めから退けられなかったことに、ほっとした。
以前、救護院の物資調査で彼と仕事をしたとき、私は自分の記録を何度も確認され、少し腹立たしく思ったことがある。
どうして、ここまで疑うのだろう。
そんな私の不満に気づいたのか、彼は調査を終えた後でこう言った。
『あなたの記録は、確認に耐えるだけの丁寧さがあります』
褒められたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
あのときのことを、私は今も覚えている。
「ベルフォード嬢」
右側の評議官が声をかけた。
「あなたは昨日、不正な送金の可能性を認識していたのですね」
「はい」
「その時刻は?」
「午前十一時頃です」
「それならば、なぜ監察院へ報告しなかったのですか」
私は息を止めた。
最初の審問で尋ねられた質問だった。
そして、今も答えたくなかった。
「王宮の記録係には、公金の不正使用を疑う事実を発見した場合、速やかに監察院へ報告する義務があります」
評議官は規則集を開いた。
「あなたほど経験のある記録係なら、当然ご存じでしょう」
「……はい」
「では、なぜ報告しなかったのですか」
私は膝の上で指を組み直した。
不正を発見した。
記録を調べた。
照会状を作成した。
それでも、正式な報告はしていない。
その理由を口にすれば、私は職務上の過失を認めることになる。
私は四年間、仕事に誇りを持ってきた。失敗することはあっても、そのたびに訂正し、同じ誤りを繰り返さないよう努めてきた。
けれど今回は、単なる記載ミスではない。
疑いを認識しながら、正式な報告を怠ったのだ。
「彼女が答えられない理由は、明らかではありませんか」
アルベルトが立ち上がった。
「報告すれば、自分の関与まで明らかになると考えたのでしょう。だから、私にだけ連絡を取ったのです」
「それは違います」
反射的に答えた。
しかし、続く言葉が出てこなかった。
アルベルトは、わずかに口元を緩めた。
その表情には見覚えがあった。
私が彼の意見に反論しかけ、結局は謝ってしまうときの顔だった。
「しかも、彼女は直接私のところへ来なかった」
アルベルトは証人席の後方へ目を向けた。
「若い書記見習いに封書を運ばせています。その見習いが事情を知らなかったとは限りません」
私は顔を上げた。
三人目の証人。
イネスだ。
十八歳の書記見習いで、王宮で働き始めてまだ半年ほどしか経っていない。
昨日、私は彼女に照会状の配達を頼んだ。
午後の帳簿整理が残っていたため、普段から文書を運んでいる彼女にお願いしただけだった。
「見習いが書状の内容を知っていた可能性もあります。事後の口裏合わせに協力したのかもしれません」
アルベルトは平然と言った。
私は椅子から立ち上がりかけた。
「イネスは何も――」
「では、君は何を頼んだのか、ここで説明できるのかい?」
アルベルトが私を見た。
その目には、確信があった。
私が黙ることを、彼は疑っていない。
◇
アルベルトは、私の弱いところをよく知っていた。
婚約したばかりの頃、私は仕事で困ると何でも彼に相談していた。
彼はいつも、私の話を最後まで聞く前に答えを出した。
『エリシアは考えすぎなんだ。僕に任せておけばいい』
最初は頼もしく思っていた。
侯爵家の嫡男で、私よりも王宮での経験が長い。財務官としての仕事も順調で、多くの人から将来を期待されていた。
そんな彼が私を選んでくれたことを、誇らしく感じていた。
けれど、いつからか、私が違う意見を口にすると、彼は不機嫌になるようになった。
『君は僕を信用していないのか』
そう言われると、私は謝った。
彼を傷つけたくなかったし、婚約者なのだから信じるべきだと思っていた。
昨日も同じだった。
支出記録で不審な送金を発見したとき、私は最初に財務部の担当者を確認した。
その送金を扱っていたのは、アルベルトの部署だった。
金貨三百枚が、救護院とは関係のないローゼン商会へ送られている。
彼が関わっているはずがない。
きっと、何か正当な事情がある。
私はそう考えたかった。
だから、正式な報告より先に彼へ照会状を送った。
本人に確認すれば、すぐに誤解が解けると思っていた。
昨日、私の机には監察院への報告用紙もあった。必要事項を書き、上司に提出するだけだった。
けれど、私はその用紙を引き出しへ戻した。
アルベルトから返事をもらってからでも遅くない。
そう自分に言い聞かせて。
今ここで認めれば、記録係として処分されるかもしれない。
四年間積み重ねてきた仕事が、私自身の過失によって傷つくことになる。
それが怖かった。
けれど、黙っていればどうなるだろう。
イネスは封書を運んだだけだ。
まだ仕事に慣れず、毎日のように新しいことを覚えている彼女に、私の責任を背負わせるわけにはいかない。
昨日、イネスが封書を受け取ったときのことを思い出した。
彼女は宛名を確かめ、受領記録をつけるための小さな帳面を取り出した。
『お返事が必要なんですね』
『ええ。急ぎの照会だから、できれば今日中にお願い』
『分かりました!』
彼女はいつものように、元気よく返事をした。
その仕事が、こんな形で彼女を苦しめることになるとは思わなかった。
「ベルフォード嬢」
評議長が私を呼んだ。
「改めて尋ねます。なぜ、監察院への報告より先に財務官殿へ連絡したのですか」
審問室は静まり返っていた。
私は机の上に置かれた証言書を見た。
記録官が筆を持ち直す。これから私が話すことも、すべて正式な記録に残るのだろう。
私が昨日、報告用紙を引き出しへ戻したことも。
その選択を、今さらなかったことにはできない。
私は椅子から立ち上がった。
「評議長。先ほどのご質問にお答えします」
声が少し震えた。
「私は昨日、午前十一時頃に不審な送金を発見しました。書庫で記録を確認し、不正の可能性があると認識しました。それにもかかわらず、監察院への正式な報告を行いませんでした」
右側の評議官が、規則集から顔を上げた。
「つまり、報告義務違反を認めるのですね」
「はい」
私は頷いた。
「私は、アルベルト様が関係しているかもしれないという考えを受け入れられなかったのです。婚約者を疑いたくないという、個人的な理由で判断を遅らせました」
アルベルトの表情が変わった。
私は続けた。
「本来ならば、監察院へ報告するべきでした。ですが、私は先に本人へ照会状を送りました。これは私自身の判断です。誰から指示されたわけでもありません」
評議長が、記録官へ目配せした。
筆が動く音が、やけにはっきりと聞こえた。
「この件について、私は相応の処分を受ける覚悟があります。ただし、イネスは私の指示で封書を運んだだけです。照会状の内容を知らせたこともありません。彼女に責任はありません」
「君は今、自分が規則違反をしたと認めたんだぞ」
アルベルトが口を挟んだ。
「そのような行動を取った者が、ほかに何もしていないと、どうして信じられる?」
「信じていただくだけでは足りないことは、分かっています」
私は彼に向き直った。
「だからこそ、確認できる事実を調べていただきたいのです」
アルベルトは口を閉じた。
私が仕事を失うのを恐れ、最後まで黙っていると思っていたのだろう。
以前の私なら、そうしたかもしれない。
けれど、もう彼の機嫌を守るために、自分の言葉を飲み込むつもりはなかった。
「アシュフォード監察官」
評議長が声をかけた。
「報告義務違反について、監察院の見解を聞かせていただきたい」
レオンハルトが立ち上がった。
「ベルフォード嬢の行為は、明確に職務規則に反しています。不正の疑いを発見した時点で報告する義務がありました。婚約者への配慮は、正当な理由にはなりません」
容赦のない言葉だった。
私は膝の上で手を握り直した。
分かっていた。
それでも、彼の口から聞くと痛かった。
「したがって、報告義務違反については、別途懲戒審査が必要です」
評議長が頷いた。
「では、今回の横領容疑についても――」
「そちらは、まだ判断できません」
レオンハルトは言葉を続けた。
「報告義務を怠った事実は確認されました。しかし、それによって公金を横領した事実まで認められるわけではありません。横領容疑については、引き続き証拠の確認が必要です」
アルベルトが険しい表情になった。
「君は彼女を庇っているのか?」
「いいえ」
「ならば、規則違反を認めた者の言葉を、なぜそこまで重視する」
「重視しているのは、確認できた事実です」
レオンハルトはアルベルトから視線を逸らさなかった。
「報告義務違反について、私はベルフォード嬢に不利な見解を申し上げました。横領についても、証拠が確認できれば同じように扱います」
私は彼を見た。
彼の顔には、いつもと同じ厳しさがあった。けれど、机の上に置かれた右手の指先が、一度だけ動いた。
何かを言おうとして、思いとどまったようにも見えた。
以前の救護院調査で、レオンハルトは若い職員を厳しく問い詰めたことがある。
その職員は緊張のあまり、何度も説明を間違えた。
私は見かねて、彼に言った。
『監察官。少しだけ、お待ちいただけませんか』
彼は不快そうに眉を寄せた。
『何でしょう』
『その方は、嘘をついているのではなく、質問に答えるのが怖いのだと思います』
彼はしばらく黙った。
それから、職員に椅子を勧め、質問の仕方を変えた。
結果として、記録の誤りは職員の単純な転記ミスだと判明した。
調査を終えた後、彼は私に言った。
『先ほどは、私が急ぎすぎました』
その言葉が、妙に印象に残っていた。
自分の間違いを認めることを、この人は恐れないのだ。
私は姿勢を正した。
審問は、まだ終わっていない。
◇
三人目の証人として、イネスが呼ばれる前に、記録官が審問室へ戻ってきた。
手には、私の机から取り出した書類があった。
「ベルフォード嬢の執務机から、照会状の控えと思われる文書を確認いたしました。封印は今朝のもので、開封時にも異常はありませんでした」
評議長が書類を受け取り、表題を読み上げた。
「『王立救護院支援金の送金先変更に関する照会』。宛先はヴァイス財務官。金額は金貨三百枚ですな」
私は頷いた。
続けて評議長が文面に目を通すと、左側の評議官も身を乗り出した。
「送金先がローゼン商会へ変更された理由、変更申請の有無、承認した担当者の確認を求めております。確かに照会状の形式です」
「ですが、それは彼女が作成した控えでしょう」
アルベルトが指摘した。
「昨日の時点で、その内容だったと証明できるわけではありません」
「その点は、あなたのおっしゃるとおりです」
私は答えた。
机が封印されたのは今朝だ。それ以前に控えを書き換える機会がなかったとは言えない。
まして、イネスが届けた封書の中身まで、この控えだけで証明することはできなかった。
「私が書記官様に見られたとき作成していたのは、この照会状です。ただし、それが正しいかどうかも、ほかの記録と照合していただきたいと思います」
評議長は控えを証拠書類の束へ加えた。
「承知しました。少なくとも、金貨三百枚について照会状を作成したという説明に対応する文書は確認できました。これをもって横領への関与を肯定することも、否定することもできませんな」
私は席へ戻った。
アルベルトはそれ以上、控えについて何も言わなかった。
やがて扉が開き、イネスが証人席へ案内された。
彼女の見習い制服は少し大きく、袖口から覗く指先が落ち着きなく動いていた。証人席に座ると、両手を膝の上で揃え、評議長の方を見ようとした。
「昨日、ベルフォード嬢から封書を預かったのですね」
「は、はい」
「誰に届けましたか」
「ヴァイス財務官様です」
「届けた時刻は?」
「午後十二時二十分です。財務部の受付で受領記録を書いていただきましたので、間違いありません」
評議長が確認すると、記録官は受領簿の写しを差し出した。
そこには、確かに十二時二十分と記されていた。
「ベルフォード嬢から、何か指示を受けましたか」
「お返事をいただけるように、と……」
「ほかには?」
「ありません」
アルベルトが立ち上がった。
「本当に、それだけだったのかい?」
イネスが肩を震わせた。
「は、はい」
「彼女は君に、私以外の者へ手紙のことを話さないよう命じなかったか?」
「いいえ」
「内容について何か聞かなかったか?」
「聞いておりません」
「それなら、なぜ秘密の書状を運んだのだ」
イネスは答えられず、目を伏せた。
私は口を開きかけたが、彼女自身の証言を待った。
イネスはしばらく迷っていた。
やがて、小さな声で言った。
「……秘密の書状だとは、思っていませんでした」
アルベルトが眉を寄せた。
「何だって?」
「王宮の中で書類を運ぶのは、私の仕事です。ベルフォード様は、宛名を書いた封筒を渡してくださいました。いつもどおり、受領記録もつけるようにと」
イネスは顔を上げた。
「だから、普通のお仕事だと思いました」
そうだった。
私は彼女に、秘密の使いを頼んだつもりなどなかった。
封書にしたのは、財務官宛ての照会状だからだ。王宮の文書は、内容を確認する権限のない者が勝手に開いてはいけない。
「イネス。質問してもいいかしら」
評議長の許可を得て声をかけると、彼女は私を見た。
「昨日、あなたが財務部から戻ってきたときのことを覚えていますか」
「はい」
「何と報告してくれましたか」
「財務官様はお忙しいので、お返事は後になると……」
「それを聞いて、私は何と言いましたか」
イネスは少し考えた。
「今日中にお返事がいただけなければ、明日の朝、もう一度確認しましょうって」
私は頷いた。
確かに、そう伝えた。
正式な報告を怠った私の判断は、間違っていた。それでも、アルベルトからの回答を受け取った後に、もう一度記録を確認するつもりだった。
「では、私から書状の内容を聞かされたことは?」
「ありません」
「特別な方法で届けるよう頼まれたことは?」
「ありません。いつもどおり受付を通しました」
私はイネスを見た。
彼女はもう、先ほどほど怯えていなかった。
「ありがとう。あなたは頼まれた仕事を、きちんと果たしてくれました」
イネスはほっとしたように頭を下げた。
彼女が退室すると、評議長が受領簿の写しと照会状の控えを並べた。
「封書の内容については、配達した見習いも確認していないということですな」
「はい」
私は答えた。
「ですが、彼女は書状を隠して運んだわけではありません。受領記録を残し、私へ返答待ちであることまで報告しています」
アルベルトが口を開いた。
「そのような手続きを取っていても、口裏合わせをすることは可能だろう」
「可能性まで否定することはできません」
私は彼を見た。
「ただ、イネスが口裏合わせに協力したという証言はありません。彼女が実際に見聞きしたのは、書状の配達と、その後の私とのやり取りだけです」
アルベルトは、それ以上彼女について何も言わなかった。
私は机の上の三通の証言書へ目を向けた。
書庫管理人は、私が問題の記録を閲覧したことを知っている。
書記官は、私が金貨三百枚について書類を作成していたことを知っている。
イネスは、私がアルベルトへ封書を送ったことを知っている。
彼らの証言そのものに、誤りはなかった。
けれど、そのどれもが、私が不正な送金を指示したことまでは示していない。
「評議長」
私は立ち上がった。
「今までの証言を踏まえ、確認をお願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「国庫が保管している送金承認記録です」
評議長が顔を上げた。
「承認原本ですか」
「はい。私は記録係ですので、送金結果の記録は閲覧できます。しかし、財務官が承認した際の原本を、自由に確認する権限はありません」
私は机の上に置かれた支出記録の写しを指した。
「王立救護院への支援金が、誰の承認によって、いつ送金されたのか。その記録を確認していただきたいのです」
評議長は考え込んだ。
「国庫の承認原本は、評議会として正式に閲覧を決定する必要があります。今この場で取り寄せるには、それだけの理由が必要です」
「承知しております」
アルベルトが口を挟んだ。
「不要でしょう。私が財務官として承認した送金であることは、最初から否定しておりません。問題は、彼女がその支出に関与していたかどうかです」
私は彼の方を向いた。
「では、アルベルト様。私がどのような方法で送金に関与したとお考えなのですか」
「君は記録係として支出関係の書類を作成できる。承認前の準備段階から関与していた可能性があるだろう」
「そのような書類が存在するのでしょうか」
「今ここで、すべての書類を提示できるわけではない」
アルベルトは落ち着きを取り戻したようだった。
「私が問題にしているのは、君が不審な行動を取ったことだ。書庫へ入り、金額に関する書類を作り、私へ連絡した。しかも、正式な報告はしていない。これだけ揃っているのに、疑うなという方が無理だろう」
その説明は、先ほどまでより慎重だった。
彼は、自分が承認した事実を否定していない。
私が以前から関与していた可能性を残し、三人の証言をその根拠として使おうとしている。
けれど、その可能性を調べるのであれば、なおさら必要なものがある。
「評議長。送金承認の原本には、承認者と時刻だけでなく、承認の根拠となった書類も記録されるはずです」
左側の評議官が頷いた。
「支出を承認した根拠を残すための記録ですからな」
「はい。特に、支給先を変更した場合には、その理由を確認できなければなりません」
私が昨日、支出記録を調べたのも、そのためだった。
救護院への支援金が別の商会へ送られているのに、閲覧できる記録には変更の理由が見当たらなかった。
だから、承認を担当した財務部へ照会状を送ったのだ。
「もし私が承認前の書類を作成していたのであれば、その記録を調べていただきたいのです。作成者の名前も、書類がいつ提出されたかも、確認できるはずです」
評議長が、三人の証言書を見直した。
「なるほど。告発の根拠となる行動がすべて送金後のものであれば、承認前に何があったのかを調べる必要がありますな」
「しかし、それは正式調査で行えばよいことです」
アルベルトが言った。
「本日の審問は、彼女への処分を決める場でしょう」
「その判断の根拠が、今問題になっているのです」
左側の評議官が口を開いた。
「三人の証言は、いずれもベルフォード嬢の行動を確認したものです。しかし、送金そのものへの関与を示す証拠は、まだ提出されていません」
右側の評議官は不満そうだった。
「しかし、本人も規則違反を認めておりますぞ」
「それについては、別に審査すればよいことです」
二人の意見が分かれた。
評議長はしばらく考えた後、レオンハルトへ視線を向けた。
「アシュフォード監察官。あなたの見解は?」
「送金に関与したという疑いを理由に処分を求めるのであれば、その送金がどのように承認されたかを確認する必要があります。原本の閲覧には合理的な理由があると考えます」
「あなたは以前、ベルフォード嬢と仕事をしたことがあるそうですな」
右側の評議官が言った。
「その点について、判断に私情が入っていないと断言できますか」
私は息を止めた。
レオンハルトは少しだけ間を置いた。
「以前、救護院への支援物資に関する調査で協働しました。そのことは監察院にも報告しております」
「では、問題はないと?」
「判断するのは評議官の皆様です。私は裁定に加わりませんし、今後の横領容疑に関する正式調査も、別の監察官へ引き継ぎます」
彼は書類を揃えた。
「私の役割は、この審問で必要な手続きが正しく行われるよう監督することです」
評議長は頷いた。
私はその横顔を見ていた。
彼は、私を助けるために自分の立場を利用しようとはしなかった。
そして、自分の立場が私の不利になることも許さなかった。
評議長が審議を求めた。
左側の評議官が賛成し、右側の評議官は反対した。
最後に評議長が賛成を表明した。
「国庫の送金承認原本を取り寄せます。確認が終わるまで審問を中断します」
記録官が立ち上がり、正式な閲覧請求書を持って部屋を出ていった。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、机の上に置いた右手が、固く握られていた。
◇
審問が再開されたのは、一時間ほど後だった。
窓から差し込む日差しは傾き、長机の上にあった光は床へ移っている。
中断中、私は何度も自分の記憶を確かめていた。
送金を発見した時刻。
書庫に入った時刻。
照会状を書いた時刻。
イネスに渡した時刻。
どこにも、金貨三百枚を別の商会へ送るよう指示した覚えはない。
それでも、承認記録に何が書かれているかは分からなかった。
書類には、私の知らない事情が残されているかもしれない。
私はそれを確かめたかった。
審問室の扉が開いた。
国庫の職員が二人、封印された書類箱を運んできた。評議長の前で封印が確認され、中から送金承認記録の原本が取り出される。
国庫が独立して保管する記録には、承認者の署名と承認時刻が残される。財務官であっても、後から勝手に書き換えることはできない。
評議長は該当箇所を探し、指を止めた。
「……金貨三百枚。送金先はローゼン商会」
室内に紙をめくる音が響いた。
「承認時刻は、昨日の午前九時十分。承認者はヴァイス財務官」
私はその時刻を聞き、わずかに息を吐いた。
午前九時十分。
私が不審な送金を発見するより、一時間五十分も前だった。
「先ほども申し上げたとおりです」
アルベルトが立ち上がった。
「私は財務官なのですから、職務上、送金の承認を行うのは当然でしょう」
その声は、まだ落ち着いていた。
私は彼を見た。
アルベルトが承認者であること自体は、横領の証拠ではない。
財務官は、正当な支出にも署名する。
ただし、承認記録には、ほかにも確認すべきことがあった。
「評議長。承認の根拠となった書類についても、記録が残っているはずです」
私が申し出ると、評議長は原本の該当欄を確認した。
「支出目的は、救護院の物資調達費となっていますな」
「はい。ですが、救護院への支給予定では、金貨三百枚は救護院へ直接渡されることになっていました」
私はそこで一度、アルベルトを見た。
「送金先が変更されたのであれば、変更を認めた理由が必要です」
評議長が国庫の職員に確認を求めた。
職員は原本を調べ、首を横に振った。
「承認記録には、支給先変更の根拠となる書類の番号が記載されておりません」
右側の評議官が身を乗り出した。
「それは、どういうことですかな」
「通常、支給先を変更する場合には、変更申請書などの根拠となる書類を確認します。しかし、この送金については、その記載がありません」
評議長は原本を自分の前へ引き寄せた。
私の席からは、細かな文字まで読めない。
けれど、彼が指で押さえた欄が空白であることは分かった。
「ヴァイス財務官。この空欄について、説明できますか」
「財務部では、緊急の支出について後から書類を整えることもあります。珍しいことではありません」
「その場合でも、緊急支出として扱った理由を記録する必要がありますな」
評議長の言葉に、アルベルトは一瞬だけ黙った。
「救護院への物資調達が遅れていたため、通常の支給方法では間に合わないと判断したのです」
私は以前の調査を思い出した。
救護院では、物資が不足すれば院長から王宮へ連絡が入る。納入業者が変更される場合も、必要な品目と数量は記録される。
今回の送金について、私はそのような記録を見つけられなかった。
「アルベルト様。救護院から、物資調達が遅れているという報告はありましたか」
「財務部で確認する必要がある」
「ローゼン商会が、その物資を納入する予定だったのでしょうか」
「そういう可能性はある」
「では、何を納入する予定だったのですか」
アルベルトは答えなかった。
私はそれ以上、質問を重ねなかった。
ここから先は、救護院と商会の記録を調べなければ分からないことだ。
評議長が、静かに口を開いた。
「ヴァイス財務官。あなたは先ほど、ベルフォード嬢が不正な支出に関与した可能性を指摘しました。しかし、今回の承認はあなた自身が行っています。しかも、送金先変更の根拠となる書類が確認できない」
「だからこそ、彼女が事前に不正な書類を準備していた可能性があるのです」
アルベルトはすぐに答えた。
「記録係である彼女が、支出の準備段階で関与していたのなら、説明がつくでしょう」
「その可能性を調べることには、異議はありません」
私が答えると、アルベルトは一瞬、言葉を止めた。
「ですが、私が作成したという不正な書類は、まだ確認されていません。私が承認前に送金を指示したという証言もありません」
私は三人の証言書へ目を向けた。
「昨日の午前十一時四十五分に私が作成していた書類は、送金が承認された後のものです。封書がアルベルト様に届いたのは、さらにその後でした」
評議長が頷いた。
「確かに、その書類によって午前九時十分の送金が承認されたという説明は成り立ちませんな」
「ですが、彼女が以前から関与していた可能性は残ります」
アルベルトは譲らなかった。
「もちろんです」
私は答えた。
「ですから、正式に調べていただきたいのです。私がいつ、どのような書類を作成したのか。どの送金に関与したのか。必要な記録を確認すれば、明らかになるはずです」
アルベルトは、しばらく私を見つめていた。
私はその視線から目を逸らさなかった。
やがて、左側の評議官が口を開いた。
「一つ、確認させてください。ヴァイス財務官は告発書の中で、三人の証言を横領への関与を示す根拠として挙げています。しかし、いずれも送金が承認された後の行動ですな」
「それ以前から彼女が関与していた可能性は――」
「ええ。その可能性は残ります。ですが、それを裏付ける証拠はまだ提出されていない。反対に、承認を行ったあなたの判断には、確認すべき点があります」
評議官は承認原本を見た。
「私としては、ここでベルフォード嬢への処分を決めるべきではないと考えます」
右側の評議官も、先ほどから黙っていた。
最初は私の行動を不審だと断じていた人だ。
彼は三通の証言書を並べ、しばらく考え込んでから口を開いた。
「……私も、送金については調査が必要だと思います。ただし、ベルフォード嬢の報告義務違反は、厳正に扱うべきです」
「承知しております」
私は頭を下げた。
評議長は二人の意見を聞き、静かに頷いた。
審問室の空気が、少しずつ変わっていた。
長机に並べられた三人の証言書は、最初から一枚も変わっていない。
けれど、評議官たちはもう、それだけで私を処分しようとはしていなかった。
◇
協議のための短い中断を挟み、評議官たちが席へ戻った。
私は自分の椅子の前に立っていた。
向かい側のアルベルトは、私を見ようとしなかった。
評議長が裁定を告げた。
「本審問において提出された証拠では、ベルフォード嬢が公金を横領したと判断するには不十分である。したがって、告発に基づく即時の免職勧告、および横領容疑の送致を認めない」
私は息を止めたまま、その言葉を聞いていた。
「ただし、本人が認めた報告義務違反については、別途懲戒審査を行う。また、金貨三百枚の送金について、国庫および監察院による正式調査を命じる」
評議長はアルベルトへ向き直った。
「ヴァイス財務官。あなたは当該送金の承認者であり、かつ今回の告発者でもあります。調査の公正を確保するため、結論が出るまで財務官としての職務を停止します」
「お待ちください!」
アルベルトが立ち上がった。
「私は王宮の財務官です。侯爵家の嫡男でもある。そのような措置を取れば、王宮内にも余計な混乱が生じます」
「その点は承知しております」
評議長は彼の言葉を遮らなかった。
「ですが、送金の承認記録には確認すべき点があります。あなたの身分や立場によって、調査の必要性が変わるわけではありません」
アルベルトは何かを言いかけたが、口を閉じた。
私は椅子に座り、長い息を吐いた。
まだ正式調査が残っている。
仕事についても、処分が下されるかもしれない。
それでも、審問が始まったときには聞いてもらえなかった私の説明が、正式な記録として残された。
私は膝の上で握り続けていた手を、ゆっくりと開いた。
審問が終わり、評議官たちが席を立った。
記録官が書類を片づけ始める。私も立ち上がろうとしたところで、アルベルトが近づいてきた。
「エリシア」
私は動きを止めた。
その声は、昨日までの婚約者の声だった。
「君は少し、感情的になりすぎたようだ」
彼は周囲を気にしながら声を落とした。
「今回のことは、私にも事情がある。君があそこまで話さなければ、もっと穏便に済ませる方法もあったんだ」
私は彼を見上げた。
以前なら、どんな事情なのか尋ねていただろう。
私にも悪いところがあったのではないかと、考えただろう。
けれど、今は違った。
「アルベルト様」
「何だい」
「今朝、婚約を破棄するとおっしゃいましたね」
彼は少し顔をしかめた。
「あれは、その場の状況を考えれば仕方のないことで――」
「私も、その申し出を受け入れます」
アルベルトは黙った。
「正式な手続きについては、両家を通じて進めましょう」
「……君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
私は答えた。
婚約した頃の私たちには、確かに楽しい時間があった。
初めて一緒に出かけた劇場も、春の庭園で交わした約束も、嘘だったとは思わない。
けれど、それを守るために、今の自分を差し出し続けることはできなかった。
「今まで、ありがとうございました」
私は礼をした。
「これで失礼いたします」
アルベルトは何か言いかけたが、私はもう足を止めなかった。
◇
審問室を出ると、廊下には夕方の冷たい風が流れていた。
高い窓の外で、庭園の木々が揺れている。
私は壁際の長椅子に腰を下ろした。審問の間は何とか立っていられたのに、今になって足に力が入らなくなっていた。
父と母には、どう説明すればいいのだろう。
仕事も、しばらく休むことになるかもしれない。王宮での評判も、すぐには元に戻らないだろう。
それでも、あの場で自分の言葉を飲み込まなくてよかったと思う。
「ベルフォード嬢」
顔を上げると、レオンハルトが立っていた。
手には書類が一枚あった。
「報告義務違反に関する懲戒審査の通知です。正式な日程は後日、書面で届きます」
「ありがとうございます」
私は立ち上がり、書類を受け取った。
彼はいつもどおり、事務的だった。
少しだけ可笑しくなった。
こんなときまで、この人は変わらない。
「アシュフォード監察官」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
彼はすぐには答えなかった。
「私は、手続きを確認しただけです」
「分かっています。でも、最初に私の話を聞いてくださったのは、あなたでした」
レオンハルトは私を見た。
審問室では気づかなかったが、彼も少し疲れているようだった。制服の襟元に指をかけ、いつもよりゆっくりと息を吐いている。
「あなたが自分で質問し、自分で説明したからこそ、判断が変わったのです」
「それでも、機会がなければ何もできませんでした」
彼は返事をしなかった。
廊下の向こうを王宮の職員たちが通り過ぎていく。私たちは自然と声を落とした。
「……一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「何でしょう」
「あなたは最初から、私が無実だと思っていたのですか」
ずっと気になっていたことだった。
彼は少し考えてから答えた。
「いいえ」
予想していた答えなのに、少しだけ胸が痛んだ。
「あなたが関与した可能性も考えました。以前一緒に仕事をしたことがあるからといって、今回も正しい判断をしているとは限りませんから」
「そう、ですよね」
「ただ、私は以前の調査で、あなたの仕事を見ています」
彼は廊下の窓へ目を向けた。
「救護院の職員が記録を間違えたとき、あなたは最初に理由を尋ねました。私が急いで結論を出そうとしたことも、覚えています」
私は頷いた。
「あのときは、少しだけ怖かったです。監察官に意見するのは初めてでしたから」
「そうだったのですか」
「はい。でも、ちゃんと聞いてくださいました」
レオンハルトは少し困ったような顔をした。
「あなたの指摘が正しかったからです」
私は手元の書類を見下ろした。
彼の言葉を聞いていると、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。
「……少し、座ってもよろしいですか」
「もちろんです」
私が長椅子に腰を下ろすと、彼は少し離れた場所に立ったままだった。
窓の外では、夕日が庭園の石畳を赤く染めている。
「実は、怖かったんです」
私は膝の上で書類を揃えた。
「報告義務違反を認めたら、仕事を失うかもしれないと思って。黙っていれば、何とかなるのではないかと」
「そうでしょうね」
「情けないですよね」
「怖くない人間なら、勇気を出す必要もないでしょう」
私は顔を上げた。
レオンハルトは、それ以上何も付け加えなかった。
私は少しだけ笑った。
「監察官は、時々ずるいですね」
「……何がでしょう」
「ご自分では、分からないと思います」
彼は困ったように眉を寄せた。
審問中には見せなかった表情だった。
その顔をもう少し見ていたいと思ったところで、彼が廊下の向こうへ視線を向けた。監察院の職員が書類を抱えて歩いてくる。
私たちには、まだ仕事上の立場があった。
「正式な調査が終わるまでは、私から私的なお話をするべきではないのでしょうね」
私がそう言うと、レオンハルトは少し驚いたようだった。
それから、ゆっくり頷いた。
「ええ。少なくとも、私の職務が関わっている間は」
「分かりました」
私は立ち上がり、礼をした。
「では、そのときまで」
歩き出そうとすると、背後から声がした。
「ベルフォード嬢」
振り返ると、レオンハルトは何かを言おうとして迷っているようだった。普段なら、必要なことをすぐに口にする人なのに。
「……そのときには、仕事以外の話も聞かせていただけますか」
私は少しだけ考えた。
「私の話は、長いですよ」
「承知しています。以前の調査でも、あなたの説明を二時間ほど伺いましたから」
私はとうとう笑ってしまった。
彼の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
正式な調査結果が出たのは、それから二か月後だった。
国庫と監察院は、金貨三百枚の送金について詳細に調べた。
ローゼン商会は、王立救護院への物資納入を請け負っていなかった。代わりに判明したのは、アルベルトがその商会に多額の借金を抱えていたという事実だった。
彼は財務官としての権限を利用し、救護院への支援金を別の支出に見せかけて送金していた。
商会側の帳簿には、その金貨三百枚がアルベルトの借金返済に充てられたことが記録されていた。
さらに調査が進むと、彼が過去にも不適切な支出承認を繰り返していたことが明らかになった。
調査の結果、私は送金の準備にも承認にも関与していなかったと正式に認められた。
私への公金横領の疑惑が否定されたという通知は、王宮の記録として公開された。
一方、アルベルトは財務官を罷免され、公金の返還を命じられた。侯爵家も彼を家督継承者から外したという。
その処分を知ったのは、書記室の前に掲示された正式な通達を読んだときだった。
財務官罷免の通知には、アルベルトの名前と、権限を失う日付が記されていた。
私がかつて婚約者として誇らしく思っていた侯爵家の名前も、そこには何の特別な意味も持たず、ほかの記載と同じ文字で並んでいた。
数日後には、支出関係の書類から彼の承認権限が外され、新しい担当者の名前に置き換えられた。
私はその変更を、記録係として確認した。
かつて、彼の署名があるだけで私が安心してしまった書類。
今は、誰の署名であっても、それだけを理由に正しいとは判断しない。
アルベルトが私を告発したのは、不正な送金を発見した私の信用を先に失わせるためだった。
調査に協力できない立場へ追い込めば、自分の送金を調べられるまでに時間を稼げると考えたのだろう。
けれど、その告発によって、彼自身の承認記録が審問の場へ持ち出されることになった。
私の机に貼られていた封印札が外された日、私は以前と同じ場所に座り、再び仕事を始めた。
ただし、私自身の処分も下されていた。
報告義務違反による十日間の停職と、正式な戒告。
記録係としての評価にも、その処分は残る。
悔しくなかったと言えば、嘘になる。もっと早く報告していれば、誰にも迷惑をかけずに済んだかもしれない。
けれど、失敗した自分をなかったことにはできない。
停職が明けて王宮の書記室へ戻った朝、最初に話しかけてきたのはイネスだった。
「ベルフォード様!」
彼女は私の顔を見るなり、勢いよく駆け寄ってきた。
「お帰りなさい!」
「ただいま、イネス」
「私、ずっと待っていたんです。あの、それで……」
彼女は急に真面目な顔になった。
「今度から、書類を運ぶときは、宛先だけじゃなくて、受領記録も必ず二重に確認します」
私は笑ってしまった。
「それは良いことね。でも、あなたは前からきちんと確認できていたでしょう?」
「もっと上手になりたいんです」
彼女は胸を張った。
「ベルフォード様みたいに」
私は返事に困った。
失敗したばかりの私を、目標にしていいのだろうか。
けれど、イネスは本気だった。
「では、まず今日の書類から一緒に確認しましょうか」
「はい!」
彼女の元気な返事が、書記室に響いた。
私は引き出しを開き、新しい記録用紙を取り出した。
仕事は以前より慎重になった。支出記録の内容だけでなく、承認された部署や確認すべき相手についても、気になることがあれば迷わず報告するようになった。
そして、仕事を終えて王宮を出る時間が、以前より少し楽しみになった。
◇
レオンハルトから手紙が届いたのは、正式調査が終了して数日後だった。
白い封筒には、整った文字で私の名前が書かれていた。差出人を確認した瞬間、私は思わず背筋を伸ばした。
中には、短い手紙が入っていた。
『以前お約束した、仕事以外のお話について。もし差し支えなければ、次の休日に食事をご一緒できませんか』
その下には、候補の店が三つ並んでいた。
どの店についても、混雑する時間帯や料理の種類、席の広さまで記されている。最後には、私の都合を優先するので希望があれば知らせてほしいと添えられていた。
私は手紙を読み終え、しばらく机の上に置いた。
それから、もう一度読み直した。
あの冷徹な監察官が、私を食事に誘うために、こんなにも丁寧に考えてくれたのだ。
嬉しさと同時に、少しだけ緊張した。
仕事の話なら、何時間でもできる。
けれど、仕事以外で彼と二人きりになるのは初めてだった。
私は一番気軽に入れそうな店を選び、返事を書いた。
何度も書き直した末、結局、短い文章になってしまった。
『喜んでご一緒いたします。お会いできるのを楽しみにしております』
封をする前に、もう一度だけ読み返した。
仕事の書類ではないのに、誤字がないか確かめている自分が可笑しかった。
約束の日、レオンハルトは店の前で待っていた。
普段の黒い制服ではなく、落ち着いた灰色の上着を着ている。襟元には小さな銀の飾りがあり、いつもより少し柔らかな印象だった。
私が近づくと、彼はすぐにこちらへ向き直った。
「お待たせしました」
「いいえ。私が早く来すぎただけです」
「かなりお早かったのでは?」
「……三十分ほど」
私は驚いてしまった。
「そんなに?」
「待ち合わせに遅れるわけにはいきませんから」
真面目な顔で答える彼を見て、私は笑いを堪えた。
「お仕事ではないのですから、そこまで気になさらなくても」
「仕事ではないからこそ、でしょうか」
彼は少しだけ視線を逸らした。
その言葉が意外で、私は返事を忘れた。
レオンハルトはそんな私の様子に気づいたのか、店の扉へ手を伸ばした。
「入りましょうか」
「はい」
彼が開けてくれた扉をくぐると、焼きたてのパンの香りがした。
店内には小さな丸テーブルが並び、窓際には花が飾られている。休日の昼前ということもあり、家族連れや友人同士の客が楽しそうに食事をしていた。
私たちは窓際の席へ案内された。
レオンハルトは椅子を引いてくれた後、自分の席に着いたが、しばらく何も言わなかった。
私も、どう話し始めればよいのか分からなかった。
審問室では、あんなにも自然に言葉が出てきたのに。
「……こちらのお店は、初めてですか」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「はい。評判がよいと聞いていましたので」
「お料理がお好きなのですか?」
「食べることは好きですが、店を選ぶのは得意ではありません」
「そうなのですね」
「今回も、三つに絞るまでにずいぶん迷いました」
彼の言葉を聞き、私はようやく笑うことができた。
それからは、少しずつ会話が続くようになった。
彼は意外にも甘いものが好きで、食後の菓子を選ぶときには、料理以上に真剣な顔をした。私はその様子が可笑しくて、つい彼の手元を見てしまった。
「何か?」
「いえ。そんなに迷われるとは思わなかったので」
「どちらも美味しそうですから」
「では、二種類頼んで分けませんか」
私が提案すると、彼は少し考えた後、頷いた。
「それがよさそうですね」
運ばれてきた菓子を分けながら、私たちは仕事以外の話をした。
好きな本のこと。
子どもの頃に過ごした町のこと。
休日に何をしているのか。
レオンハルトは、幼い頃から兄と比べられることが多かったらしい。公爵家を継ぐ兄に対し、自分はどのような役割を果たすべきか、長い間考えていたという。
「だから、監察官になられたのですか」
「それだけではありません。ですが、自分の判断に責任を持てる仕事をしたいと思ったのは確かです」
彼はそこで、少しだけ笑った。
「もっとも、実際には判断に迷うことばかりですが」
私は驚いた。
彼がそんなことを言うとは思わなかったからだ。
「レオンハルト様でも、迷われるのですね」
「もちろんです。迷わない人間の判断ほど、信用できないものはありません」
私はその言葉を聞き、以前の調査を思い出した。
あのとき彼は、自分の質問が厳しすぎたと認めた。
「エリシア嬢。今度は、あなたの話を聞かせていただけますか」
いつの間にか、彼が私を見ていた。
「以前から気になっていたことがあります。なぜ、記録係になろうと思われたのですか」
その質問は、予想していなかった。
私はしばらく考え、十七歳の頃の話を始めた。
父に反対されたこと。初めて王宮の記録を見たときのこと。一枚の書類が、遠く離れた救護院の食料や毛布につながっていると知り、どうしても自分も関わりたいと思ったこと。
話しているうちに、いつの間にか夢中になっていた。
気づけば、食後のお茶はすっかり冷めている。
「……ごめんなさい。私ばかり話してしまいました」
慌てて謝ると、レオンハルトは不思議そうな顔をした。
「なぜ謝るのですか」
「せっかくのお食事なのに、仕事の話ばかりで」
「私は楽しかったですよ」
彼はカップを置いた。
「あなたが好きなことを話しているときの表情は、仕事中とは少し違いますから」
私は言葉に詰まった。
彼は何事もなかったかのようにお茶を飲んでいる。
そんなふうに言われたら、どう返せばよいのだろう。
結局、私は何も言えず、残っていた菓子を小さく切り分けた。
それから、レオンハルトと会う機会が少しずつ増えていった。
休日に市場を歩いたり、王都の古い書店を訪ねたり。彼は本を選ぶとき、必ず最初の数ページを丁寧に読む。私は表紙や紹介文に惹かれて選ぶことが多いので、何度か意見が分かれた。
救護院への支援についても、考え方が違うことがあった。
私は、必要な物資をできるだけ早く届けたいと考える。
彼は、手続きを省略すれば後に別の問題を生むと指摘する。
ある日、書店で偶然見つけた救護院の運営に関する古い記録をきっかけに、私たちは店内で議論を始めてしまった。
気づけば窓の外は薄暗くなり、店主から閉店時間を告げられた。
慌てて外へ出た私たちは、しばらく顔を見合わせ、それから笑ってしまった。
そんな時間が、いつの間にか私の日常になっていた。
ある休日、レオンハルトに急な仕事が入り、約束していた外出が延期になった。
私は一人で、いつもの書店を訪れた。
以前から読みたかった本を見つけ、購入したところまではよかった。
けれど、店を出た瞬間、思わず隣を振り返ってしまった。
そこには誰もいない。
私は買ったばかりの本を抱え直し、通りの向こうを眺めた。
この本について、彼なら何と言うだろう。
表紙だけで選んだのかと、少し呆れるかもしれない。それでも、きっと最初の数ページを読んでくれるだろう。
私は書店へ戻ろうとして、足を止めた。
もう一冊、彼が好みそうな本を見つけていた。
次に会ったとき、一緒に選びたいと思ったのだ。
結局、私はそのまま帰ることにした。帰り道で何度も本の表紙を見ては、彼がどんな顔をするのか想像した。
翌日、彼から次の休日に会えるという手紙が届いた。
私は封筒を開いたまま、しばらく机の前から動けなかった。
◇
秋の終わり、私たちは王都の小さな庭園を訪れた。
午後の日差しは穏やかだったが、木々の葉は少しずつ色を変え始めていた。石畳の小道には落ち葉が積もり、庭師が箒で集めている。
レオンハルトは、いつもより口数が少なかった。
何か考え事をしているのだろうか。
先ほどまで書店で楽しく話していたのに、庭園へ入ってからは、時折こちらを見ては何か言いかけるばかりだった。
私は彼の様子を気にしながら歩いていた。
やがて、庭園の奥にある長椅子の前で、彼が足を止めた。
「エリシア嬢。少し、座ってもよろしいですか」
「もちろんです」
私たちは並んで腰を下ろした。
少し離れた場所では、子どもたちが落ち葉を集めて遊んでいる。風が吹くたび、木の枝から新しい葉が落ちてきた。
レオンハルトは膝の上に両手を置いたまま、しばらく黙っていた。
その指先が、落ち着かなさそうに動いている。
審問室で見たことのない姿だった。
「……私が何か、失礼なことをしましたか」
思わず尋ねると、彼は驚いたように顔を上げた。
「いいえ。どうしてですか」
「先ほどから、何かお考えのようでしたので」
レオンハルトは少し困ったように笑った。
「そうですね。考えていることはあります」
彼は私の方へ身体を向けた。
「実は、今日はお伝えしたいことがあって、お誘いしました」
私は彼の声に、いつもとは違う緊張を感じた。
「私は以前から、あなたに対して特別な気持ちを抱いていました」
予想していなかった言葉だった。
「救護院の調査でご一緒した頃からです。仕事に対する姿勢も、人に向き合うときの誠実さも、私は尊敬していました」
彼はそこで言葉を止めた。
「ですが、あなたには婚約者がいました。だから、その気持ちを伝えるつもりはありませんでした」
私は何も言えなかった。
審問室で彼が公正さを守ろうとしたこと。
正式調査が終わるまで、私的な関係を進めなかったこと。
それらの出来事が、少し違った意味を持って思い出された。
「事件の後、あなたと仕事以外でも会えるようになって、私は自分が思っていた以上に、あなたと過ごす時間を大切にしていると気づきました」
彼は一度、深く息を吐いた。
「私は、あなたが好きです」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
私は膝の上で両手を握った。
答えは、もう決まっていた。
けれど、いざ口にしようとすると、声が出てこない。
レオンハルトは、そんな私を急かさなかった。
庭園の向こうで、子どもたちの笑い声が聞こえている。
私はゆっくり息を整えた。
「レオンハルト様」
「はい」
「私も、あなたと一緒にいる時間が好きです」
彼は静かに私を見ていた。
「最初は、仕事仲間として尊敬していました。審問のときは、あなたが話を聞いてくださったことが、本当に嬉しかったです」
私は少し笑った。
「でも、今はそれだけではありません」
先日、一人で書店を訪れたときのことを思い出した。
隣に彼がいないだけで、あんなにも物足りなく感じた。
今まで何度も通った店なのに、景色まで違って見えた。
「会えない日には、次に何をお話ししようかと考えています。面白い本を見つけると、最初にあなたに教えたくなります」
私は彼の目を見た。
「私も、あなたが好きです」
レオンハルトは、しばらく動かなかった。
それから、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
あまりにも小さな声だったので、私は思わず聞き返してしまった。
「何がですか?」
「断られることも、考えていましたから」
私は驚いた。
「レオンハルト様でも、そんなことを?」
「もちろんです。相手の気持ちまで、私が決められるわけではありませんから」
私は笑ってしまった。
この人は、本当に変わらない。
レオンハルトは少し迷った後、私の方へ手を伸ばした。
「……手を、つないでもよろしいですか」
私は頷いた。
彼の手は、思っていたより温かかった。
審問室で見た、厳格な監察官の手。
書類を確認し、必要な事実を記録し、決して曖昧な判断をしない人の手。
その手が今、私の指をそっと包んでいる。
私は握り返した。
彼は少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに穏やかな表情になった。
庭園の小道を歩く人々の声が、遠くから聞こえていた。
私たちはしばらく、何も話さずに座っていた。
沈黙が、少しも苦にならなかった。
◇
翌年の春。
王立救護院の庭には、小さな白い花が咲いていた。
以前、毛布の納入記録を調べた建物だ。あのとき寒さに震えていた子どもたちは、すっかり元気になっていた。
私はレオンハルトと一緒に、持参した焼き菓子を子どもたちに配っていた。
休日の訪問は、これで三度目になる。
院長からは毎回、仕事ではないのだから気を遣わなくていいと言われるのだが、レオンハルトは何かと手伝うことを見つけてしまう。
今日も、焼き菓子を配り終えると、庭の隅にしゃがみ込んでいた。
「おじさん、こっちも!」
小さな男の子が、彼の上着を引っ張っている。
私は思わず笑ってしまった。
王宮で『氷の監察官』と恐れられている人が、子どもたちからはすっかり頼りにされている。
何をしているのかと近づくと、花壇の柵が壊れていた。レオンハルトは木片を組み合わせ、子どもたちに手を出さないよう注意しながら修理している。
「監察官のお仕事には、柵の修理も含まれていましたか?」
私が尋ねると、彼は顔を上げた。
「いいえ。ですが、放置すると危険ですから」
「そうですね。では、私は何をしましょうか」
「その木片を押さえていただけますか」
彼の指示に従って柵を支えていると、子どもたちが周りに集まってきた。
私は小さな手が釘に触れないよう注意しながら、レオンハルトの作業を見守った。
彼はこういう仕事にも手を抜かない。
最後に柵を揺らし、ぐらつきがないことを確かめてから、ようやく立ち上がった。
「これで大丈夫でしょう」
男の子が嬉しそうに手を叩いた。
「ありがとう、おじさん!」
レオンハルトは礼を言われるとは思っていなかったらしく、少し困った顔をした。
私はその表情を見て、また笑ってしまった。
帰り際、院長が私たちを門まで見送ってくれた。
「お二人とも、いつもありがとうございます。またいらしてくださいね」
「もちろんです」
私が答えると、隣でレオンハルトも頷いた。
救護院を出ると、春の日差しが石畳に落ちていた。
私たちは並んで歩き始めた。通りの向こうでは市場の準備が進んでいるらしく、荷車の音や商人たちの声が聞こえてくる。
「今日は、楽しかったですね」
「ええ。子どもたちも元気そうで安心しました」
「レオンハルト様も、すっかり人気者ですね」
「どうでしょう。柵が壊れていたから呼ばれただけでは」
「それでも、あんなに嬉しそうにしていましたよ」
彼は少し考えた後、首を傾げた。
「そうでしょうか」
私は笑った。
「そういうところが好きです」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、レオンハルトは足を止めた。
私も数歩進んでから気づき、振り返った。
彼は道の端に立ち、こちらを見ている。
「どうしました?」
「……今の言葉は、不意打ちでした」
私は自分の発言を思い返し、急に恥ずかしくなった。
もう恋人同士なのだから、好きだと伝えることは珍しくない。それなのに、彼は今でも時々、初めて言われたかのような顔をする。
「ごめんなさい。驚かせるつもりではなかったのですが」
「謝らないでください。嬉しかっただけです」
彼は少し笑ってから、私の方へ歩いてきた。
「エリシア。少し、寄り道をしてもよろしいですか」
「もちろんです。どちらへ?」
「すぐ近くです」
彼が案内してくれたのは、救護院の裏手にある小さな庭だった。
以前、子どもたちが遊ぶために整えられた場所で、今は花壇の周りに木の長椅子が置かれている。
春の花が咲き始めたばかりで、人の姿はなかった。
私は彼と並んで庭へ入り、花壇の脇で足を止めた。
「ここへ来るのは、久しぶりですね」
「ええ。以前の調査で、院長からお話を伺った場所です」
「覚えていらしたのですか」
「もちろんです」
レオンハルトは、少しだけ緊張したように笑った。
その表情を見て、私は彼が何か大切な話をしようとしているのだと気づいた。
秋の庭園で告白してくれた日も、こんなふうに言葉を選んでいた。
「エリシア」
名前を呼ばれ、私は彼に向き直った。
春の風が花壇の葉を揺らしている。
レオンハルトは上着の内側から、小さな箱を取り出した。
私が何か言うより先に、彼は箱を開いた。
中には、細い銀の指輪が収められていた。中央には小さな青い石があり、日差しを受けて淡く輝いている。
「以前から、あなたと一緒に暮らす未来について考えていました」
彼は指輪を見てから、私へ視線を戻した。
「仕事のことも、休日の過ごし方も、まだ相談していないことがたくさんあります。ですが、それを一つずつ、あなたと決めていきたいと思っています」
私は彼の言葉を聞きながら、最初の婚約を思い出していた。
アルベルトとの婚約は、両家の取り決めによるものだった。
もちろん、私にも彼を好きだと思っていた時期がある。結婚を楽しみにしていたのも事実だ。
けれど、新居の家具を選んでいた頃には、いつの間にか私は彼の希望に合わせることばかり考えていた。
自分が選んだ書棚一つにも、遠慮していた。
今、目の前にいる人は違う。
私はこの人と、どんな家に住むのか話したい。
仕事を続けることについても、休日の過ごし方についても、二人で考えていきたい。
きっと意見が合わないこともあるだろう。
それでも、話し合う時間が楽しみだった。
「エリシア・ベルフォード嬢」
レオンハルトは、私の目をまっすぐに見た。
「私と婚約していただけますか」
彼は私の返事を待っていた。
いつもと同じ、少し真面目すぎる表情だった。
けれど、その手に持った箱がわずかに揺れていることに気づいた。
私は彼へ一歩近づいた。
「はい。喜んで、お受けします」
レオンハルトはしばらく動かなかった。
やがて、張り詰めていた肩の力が抜けるのが分かった。
「……よかった」
その声があまりにも小さくて、私は笑ってしまった。
「そんなに心配なさっていたのですか?」
「ええ。あなたの返事を聞くまでは、安心できませんでした」
「監察官なのに、私の気持ちを疑うのですか?」
「それとこれとは、別の話です」
真面目な顔で答えられ、私はとうとう声を出して笑った。
レオンハルトも、少し照れたように笑っている。
彼は箱から指輪を取り出し、私の左手を取った。指先をそっと支えながら、慎重に指輪をはめてくれる。
ちょうどよい大きさだった。
彼はそれを確かめると、ようやく安心したように息を吐いた。
「何度も確認したのですが、最後まで不安で」
「そこまで心配してくださったのですか?」
「もちろんです。あなたに合わなければ困りますから」
私は指輪を見下ろした。
細い銀の輪が、春の日差しを受けて輝いている。
彼は私の手を離さず、そのまま指輪の位置を少しだけ整えた。私はその手にもう片方の手を重ね、彼を見上げた。
「レオンハルト様。私からも、お話ししておきたいことがあります」
「何でしょう」
「結婚してからも、私は記録係の仕事を続けたいと思っています。それから、できれば救護院への支援にも関わっていたいです」
彼は静かに頷いた。
「あなたが仕事を大切にしていることは、知っています」
「でも、公爵家の方と結婚するとなれば、今までと同じようにはいかないこともあるでしょう?」
「そうですね。考えなければならないことはあると思います」
レオンハルトは少し考えてから続けた。
「ですが、あなたが仕事を辞めることを前提に話を進めるつもりはありません。私も、監察官の仕事を続けたいと思っていますから」
私はほっとした。
「では、これから一緒に考えていただけますか」
「もちろんです」
彼は手を握り直してくれた。
私はもう少しだけ、話を続けた。
住む場所のこと。
休日には、ときどき二人で書店へ行きたいこと。
いつか、王都から遠く離れた町にも旅行してみたいこと。
そんな話をしているうちに、以前アルベルトと選んだ書棚のことを思い出した。
「そういえば、新しい家には書棚を置きたいんです。少し大きなものを」
レオンハルトが、わずかに目を細めた。
「どのくらいの大きさでしょう」
「そうですね。壁一面くらいあれば嬉しいのですが」
「それなら、書斎の場所も考えなければなりませんね」
彼は真剣に考え始めた。
私は思わず笑った。
「まだ家も決まっていないのに、気が早いでしょうか」
「いいえ。今から考えてもよいことだと思います」
レオンハルトはそう言ってから、少しだけ困ったような顔をした。
「ただ、一つお願いがあります」
「何でしょう?」
「書棚を選ぶときには、私もご一緒させてください」
私は笑いながら頷いた。
きっと、この人は木材の種類や棚板の強度まで調べるのだろう。私はそこまで詳しくないから、また何か新しいことを教えてもらえるかもしれない。
庭の向こうから、子どもたちの声が聞こえてきた。
先ほど修理した花壇の柵を見に来たのだろう。小さな足音が近づいてきて、やがて別の方へ走り去っていく。
私たちはその声を聞きながら、しばらく並んで立っていた。
指輪の石が、手を動かすたびに小さく光った。
「レオンハルト様」
「はい」
「まだ、いろいろお話ししたいことがあるんです」
「ええ」
「きっと、今日だけでは終わらないと思います」
彼は私の手を握ったまま、穏やかに微笑んだ。
「あなたの話なら、いくらでも聞きます」
私はその言葉を聞いて、笑った。
まだ話したいことは、山ほどある。きっと、これからも増えていく。
私が次の言葉を探している間、彼はいつものように、急かすことなく待っていてくれた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
エリシアとレオンハルトの物語、楽しんでいただけましたでしょうか。
作者の澄野 朔です。
普段は現代恋愛を中心に、短い時間で最後まで楽しめる恋愛小説を書いています。
全5話完結のシリーズ『5話で完結する、少し特別な恋愛物語』も公開していますので、よろしければ覗いてみてください。
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また別の物語でお会いできたら嬉しいです。




