序章:知らないうちに婚約していて破棄された件について
「———アルテミラ・・・僕は君との婚約を破棄させてもらう。残念だが、君は来るのが遅すぎた。そして僕はここで宣言しよう。アレスフィール・サイエスティアの名を持って彼女、八雲・アイビィーと婚約をする」
品定めするかのように細められた翡翠色の瞳、王族を象徴するかのような月光を閉じ込めたかのような金髪を肩まで伸ばし、ひとつ結びにして、王族らしい正装を身に包んでいた。
アレスフィールは肘掛けに寄りかかり胡散臭い顔で顎に手を当てながらそう言い放った。
・・・うん、うん。は?どういう状況!?
出来事が重なりすぎて理解できず、ショート寸前の頭で唯一できた行動は一つだけだった。人間らしく穏やかな微笑みを返すただそれだけだった。
場にいる誰もがこの状況を理解できずに硬直しているとアレスフィールの隣に立っていた令嬢が素っ頓狂な声を上げた。
「は?どういうことですの!?」
状況が理解できずに絶句しながら棒立ちをしていると、私と同じように状況が理解できていないのか目の前の男、アレスフィールの隣に立っている少女———アイビィーはビシッと指差した。
「アレス、何言っているの!?今日はこの子の歓迎パーティーなの忘れた?そこで婚約破棄?流石に今回ばかりはこの私でも擁護しようがないわね」
「そんなことを言わないでおくれ。僕は君をこんなにも愛しているのに」
「そ、れ、に!今回私を変なことに巻き込まないと約束したからエスコートに応じてあげたのに王国創設以来、最大級の修羅場に巻き込むんじゃないわよっ!」
少し顔を上げてアレスフィールの瞳を覗き込むと彼の瞳には熱はおろか、感情すらも感じられないほど冷たい瞳でアイビィーを見つめていた。
何、考えてるんだろ。
もしかして人間は好きな人をこんなに冷たい瞳で見つめるものなのかな?
それはアイビィーも同意見だったようでため息を吐くと
「はぁ、そんな冷たい瞳で愛してると言われてもどの令嬢も首を縦に振らないわよ。もう少し乙女心を理解してから出直してくることね。今回の婚約の打診に関してはこちら側、八雲家からの返答はNOよ。第一王子、私はこれにて失礼するわ。ごきげんよう」
アイビィーはそう言い切ると階段を優雅に降り、私を見つめると優しい微笑みを浮かべて近づいてきた。
腰まで伸びるピンクの髪が印象的で、とても堂々としていてお姫様と言われても疑う余地がないほど誰もがイメージするお姫様そのものだった。しかし、遠目では人族にしか見えなかったけれど近くで見ると不自然に髪が一部盛り上がっており、もふもふの耳が垂れていて、スカートもお尻の辺りが膨らんでいる。
すっごい可愛い。どの種族なのかな?
モフモフしていいかな?
って!?ちょっと待って、顔近すぎない!?
「ごきげんよう。アルテミラ嬢。残念だけど時間がないから手短に言うわね。今は大人しく婚約破棄を受けた方がいいわよ。あの愚者が何を考えてるかわからないけど、流れに身を任せなさい。あともう少しで”あの子”が助けに来てくれるからそれまでの辛抱よ。ファイト、ミラ」
アイビィーは耳に吐息がかかるくらいまで近づいていた。
とても爽やかな匂いがする。いい匂い・・・いや、そうじゃない。
ミラ、一旦落ち着きましょう。
ふぅ、今はそのアドバイスに従った方がきっといい。
金色の瞳で上目遣いに見つめられ、思わず目を逸らしながらも、私はこくりと頷いた。
「懸命な判断ね。そうね、また近いうちに会うことになると思うからその時はよろしくね」
「え・・・ああ。うん、よろしく」
もしかして、これって私とアイビィーちゃんがお友達でいいのかな?ふふ、どこか感慨深いものがありますな。
嬉しさからか自然と口角が上がり笑みを浮かべると、周りの令嬢から黄色い悲鳴が会場中に響き渡った。
「今の見ました!?推しを乗り換える時が来ましたわ!」
「・・・あの星空のような髪に加えてあの凛々しい顔から放たれる自然の笑顔・・・悔いはもうないですわ」
アイビィーは他の令嬢ほどではないが少し驚きの表情を浮かべながらも「じゃあね」と軽くウインクをするとそのまま会場を立ち去っていった。
これが人間の普通の令嬢・・・レベルが高すぎる。
って、人間じゃないじゃん。耳、うっすらと見える尻尾の膨らみ。もしかして狐かな?
「それで、返事はどうなんだ。アルテミラ嬢?」
「うん?うん。そうだね。謹んで婚約破棄をお受けいたします」
「そうか、君は素晴らしい選択をしたようだな」
呼び止められたような気配に顔を向けると、彼の指先が一瞬だけ止まった。その短い間の沈黙が、なぜか胸の奥をざわつかせた。どこか懐かしいような。憂いにも似た、名前の分からない感情が渦巻いていた。
なんだろう。本当によくわからないなぁ、この人は。
「それじゃあ、僕はアイビィー嬢をどうやって口説くか考えないといけないな」
「・・・ふふ、応援してるよ?頑張ってね」
「はっ、まさか応援して貰えるとはね。それではまたの機会に」
「ごきげんよう。王太子殿下」
これはお城に来て練習したあれが役に立つ時!
だってこの王子は変なところで「こいつ、不敬罪で死刑!」とか言いかねないから。
ミラはスカートを持ち上げて静かに頭を下げた。
私ながら完璧なカーテシーじゃないかな。
ちょっと待って、おかしいな。いつまで経っても王子が私の隣を通り過ぎて行かない。うん、お腹を壊しちゃったのかな。
姿勢を戻すと、そこには階段に足をかけて立ち止まって私を見つめるアレスフィールの姿があった。
そこに立つ彼だけが、別の時を生きているように見えた。
「————やめてくれ」
アレスフィールは消え入る声で弱々しく呟くと一瞬で先ほどと同じような胡散臭い顔に戻ると「忘れろ」その一言だけ言い残して会場を去った。
会場はざわめきに包まれ、熱のこもった視線と憶測と噂が飛び交う。
「人間社会は・・・まだよく分からないなぁ」
会場に一人取り残されていると後ろから肩を叩かれた。
「ふふ、こんにちは。助けに入れなくてごめんなさい。久しぶりね、ミラ」
この王国———サイエスティア王国に来てから、一番聞き慣れた声に反射的に振り向いた。
「あっニアちゃ————んんっ!?」
ジニアール・サイエスティア———第一王女である彼女の人差し指が、私の口元をスッと塞いだ。
「ふふ、ミラ。ここはたくさんの貴族がいるパーティーよ。一応、私は王族なの。こういう場所では・・・そうね。”ジニアール殿下”とか、”ニア王女”と呼んでちょうだい?」
パーティー前に散々教え込まれたマナーが、ようやく頭の片隅から顔を出してハッとした。
「あ・・・申し訳ございません。ニア王女」
「ふふ、そのくらいで十分よ。でも、いつものミラの方が好きよ」
ニアは一歩下がり、ドレスの裾を翻してくるりと振り返る。その笑みはとても可愛らしく穏やかな笑みだった。
「今回のこと、きっとミラにはよく分からないまま飲み込んだのでしょう?でも、次からは———ミラ。あなた自身が”選択”することになるわ」
軽い口調なのに、「選択」その言葉だけが妙に胸に引っかかった。
耳に届いたニアの声に、知らない誰かの声が重なった。
———思い出したくない。
けれど、忘れてはいけない気がした。
胸の奥が、そっと疼いた。
「あなたはきっとここまで流れに任せてここまで来た。でも、これからは違うわ。ただ見ているだけの”観測者”じゃなくて———ちゃんと、物語の”登場人物”になりなさい」
その言葉とともに、ニアの姿が水面越しのように揺らぎ始めた。
視界の端で光が弾ける。
頭に鋭い痛みが走り、膝から崩れ落ちる。
遠くで、微かな気配がふれた気がした。
触れられた瞬間、理由もなく瞳から涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、世界が白く弾けた。
銀色の髪。
優しい手。
星空の本。
断片的な幼い記憶が流水のように目の前を流れていく。
それは、私の奥底に眠るとても大切で朧げな記憶。
その中にはっきりと覚えている記憶が流れてきた。
とても暖かくて数少ない母としての温もりを感じた大きな翼。
『愛している』




