第47話 Breakdown
「1アウト! この調子でこの回3人で終わらせちゃいましょー!」
イニングの先頭打者をまんまと出し抜いた津代葵はわざとらしく煽るような声を飛ばした。
実際のところ、3球連続ストレートは葵にとっても大きな博打だった。3球の間に狙いをストレートに切り替えられていたら今頃明姫月は窮地に立たされていただろう。
しかし、それでも強硬策に踏み切ったのは相手1番打者のストレートに対する反応が悪かったためともうひとつ、その先に待つ2番打者の打席で優位を取るためだった。
「……よろしくお願いします」
球審に頭を下げながら打席に入った彼女、大矢優姫乃は藤宮柚希のような突出した打撃能力はないものの、同じ捕手として配球を読むのが上手く選球眼も良いため、一筋縄ではいかない厄介な相手だった。
しかし、彼女はその特色故、前の打者が突飛な配球をされた際に、かなりの確率で様子見のため初球を見逃す癖があった。
葵がつけ込みたかったのはまさにその一球だった。
「ストライク! ワン!」
思惑通りに初球、本来であればリスクの高い真ん中付近へのストレートでストライクカウントを稼ぐことができた。この一球を通すために葵はわざわざ危ない橋を渡る決断をしたのだ。
これでこの打席も優位を取ったのは明姫月バッテリー。続く2球目、似たような軌道から曲がり落ちるスライダーを投じた。
────キィ!
この回初めて投げたスライダーにスイングをかけられたが、タイミングも軌道も完璧にはとらえきれず。打球は白線の外側へ転がった。
「ファールボール!」
優姫乃ほどの選手であればある程度は予想できた配球だろうが、先頭から4球連続でストレートを選択していたことで思い切ったスイングを許さなかった。
「0ボール2ストライク」
このカウントまで持ってくることができれば後は相手に難しいコースでの勝負を強いることができる。
「ふぅ……」
狙い通りの優位カウントを作ったところで、葵は小さく息を吐いてふとネクストサークルの打者に眼をやった。
あれもこれも、全てはこの後に控える最強打者の前にランナーを置かないため。
彼女には前の打席でストレートを完璧にとらえられているため、2球種しかない莉緒菜ではおそらく配球的に相当な不利を強いられるだろう。そのため、最悪二塁打までは許せる場面で彼女の打席を迎えることが必要最低条件になると葵は見積もっていた。
相手の主砲に二塁打を打たれてもこの1点リードを保持できる、言い換えれば|ホームランでしか同点にならない《・・・・・・・・・・・・・・・》場面において初めて、明姫月バッテリーは藤宮柚希と対等な立場で配球を組み立てられる。それが津代葵の眼に映る唯一の光明だった。
「…………」
0ボール2ストライク。このカウントから葵が出した要求は低めのボールゾーンまで逃げるスライダーだった。
同じ球種が続いたからと無理に追いかけてくれれば最高。仮に見逃されても、その後の勝負球を活かせる最善手。そう結論付けた葵の思考からはひとつ、重大な前提条件が抜け落ちていた。
彼女が動かしているのは、意のままに動く駒ではなく|独立した意識を持つ生き物であるということを。
「ちょ……ッッ!?」
その一球は低めどころか、ホームベースの手前で地を叩くような暴投。それも、打者の足元目掛けて曲がる危険な投球だった。
「ボール! ワン!」
何とか大矢優姫乃がその投球を躱してくれたおかげで事なきを得たが、当たっていれば投手有利のカウントから最も簡単な出塁を許す最悪の展開になっていただろう。
「リオナちゃん! 力みすぎ! もうちょっとリラックスして!」
葵は慌ててマウンド上の彼女に声をかけたが、その内心は決して穏やかではなかった。
この試合ここまで、蘭華の打線と互角に渡り合ってこれたのは莉緒菜の安定した制球力に拠る所が大きかった。中盤で一時乱れた場面はあったものの、彼女がここまで露骨な暴投を投じることは練習を含めても珍しいことだった。
やはり、慣れない球種をぶっつけ本番で多投したことで投球フォームに誤差が生じているのだろうか。あるいは、プレッシャーのかかる場面の連続で普段に増して疲労が蓄積しているのだろうか。
「…………」
ただ、いずれにせよ未だ有利カウントの場面で投手を交代することが得策だとは思えない。もう一度、同じコースへのスライダーでスイングを誘う。
その揺るがぬ理知的な決断が、今回ばかりは裏目に出た。
「ふっ!」
莉緒菜の指を離れた白球の軌道を見て、葵は思わず声をあげそうになった。
コースが高い。低めのボールゾーンどころか、ほとんど真ん中に近い高さに入ってきた。その上、ボールが指にかかっておらず回転も緩い。そんな願ってもない絶好球を、蘭華の屋台骨を担う彼女が見逃してくれるはずもなく……
────キィィィンッ!!
その打球音を聞いた瞬間、葵は打球から目を切った。バットの真芯でとらえられた。打球角度からしても間違いない。やられた。
葵が俯きかけたその時、気まぐれな初夏の風が彼女の前髪を撫でた。
「ぐッッ!!」
センター後方を襲った大飛球は風に押し戻されてフェンス際へ。明山伊織が懸命にグラブを伸ばしたが、わずかに届かず。白球はフェンスに直撃しフェアグランドに落ちた。
「あっぶな……」
同点ホームランにはならなかったものの、ボールが外野を転がる間にバッターランナーは悠々と2塁まで進んでいた。
「あ〜惜しいッ! あとちょっとだったのにぃ!!」
「けどこれで1アウトランナー2塁! 一打同点の場面で次は……」
同点、ひいては逆転も狙える好機で彼女がネクストサークルから立ち上がった途端、蘭華の応援席が露骨に色めき立つ。
「すみません。タイムお願いします」
その状況を誰よりもよく理解していた葵はすかさずタイムを取り、マウンドへ向かった。
「あー、さすがにここは敬遠かなぁ」
その様子を眺めていた蘭華ベンチでは口惜しそうなため息が漏れていた。
点差、打順、試合展開。何を取ってもこの場面は敬遠が最善手であることは誰の目にも明らかだった。
「やー? 勝負してきそうだけどな。あのピッチャーは」
そんなため息ムードを一声で拭い去ったのはベンチの隅で広々と陣取っていた陽野涼のひと声だった。
「た、確かにあのめちゃくちゃ強気なリードするキャッチャーならもしかしたら……」
「そっちじゃねーよ」
沈黙の中決死の同調を試みたチームメイトの言葉もあっさり切り捨てて。陽野涼はベンチの奥深くからマウンドの上の彼女を睨みつけていた。
「アタシにはあのピッチャーはまだ怖いもの知らずの子どもに見える」
その声色は酷く不機嫌そうで、過去の自分を見つめるかのような厳しい視線を向けていた。
「ピッチャーは良くも悪くも一人でチームの責任を背負える。だからこそ、投手としての“格”は『どれだけ勇敢か』じゃなく、『どれだけ怖さを知っているか』で決まる。倭田莉緒菜はまだ1年だから知らねーんだろ。たったの1球で、全てを失う怖さを」
彼女が口を開いている間、蘭華ベンチは異様な緊張感に包まれており、大柿紫も口を挟まずただ彼女の言葉に耳を傾けていた。
「どんな人間でも、“痛み”は自分が負ってみなきゃ理解できない。それが鋭い刃物だろうと燃え盛る炎だろうと、物知らぬ子どもは好奇心で手を伸ばすんだよ」
その確信に満ちた言葉には、理屈を強引に捻じ曲げてしまうほどの威力があって。現に誰一人として、彼女に野球の定石を説く者はいなかった。
その差し迫った視線の先、マウンドの上ではまさに今、明姫月内野陣がこの打席の処遇について話し合っていた。
「敬遠でしょ。歩かせよう。それが丸いよ」
真っ先に口を開いたのはショートからマウンドに上がってきた小坂遥香だった。
「そうですね。前の打席で打たれてる相手ですし、1塁も空いてますし。さすがセンパイ! いつだってクールで聡明。痺れますぅ」
「このくらい、誰でも真っ先に思いつくよ。葵だって考えてない訳じゃないでしょ?」
彼女は彼女らしい平坦な声で、冷静かつ手短に最適解を示した。
「……まー、ワタシはそれでも全然良いんですけどねぇ」
ため息のような声で呟きながら、葵は正面に立つマウンドの住人へ視線を向けた。
「私は、端から誰かに劣ると思ってここに立ってません。中途半端にやり残すくらいなら、理不尽にここから下ろされるほうがマシです」
彼女は照れも悪びれもせず、正々堂々自らの思いを口にした。
「ください、私に。次の1球、1打席を」
その言葉を聞いて葵は今度こそ正式に遠慮なしの盛大なため息を吐いた。
「はぁ〜〜〜〜ああ。まー、リオナちゃんならそう言うだろうなぁとは思ってたよ」
呆れきったような口調だったが、その表情はどこか晴れ晴れとしていて。
「少しでも勝算があるのなら勝負するべきだろう」
その表情を確認した沙月も、力強く二人の背中を後押しした。
「葵の勝負に対する執着は尊重するし、遥香の意見も尤もだろう。だが今後、彼女以上の選手が練習相手になってくれる機会は恐らくもうない」
主将の言葉でおおよその決着はついた。
「わかった。それじゃあ内野は後ろに下がってアウトよりストップに集中しよう。内野で止めておけばそう簡単にはホームまで帰られないだろうから。特にメイ。相手は左の強打者なんだから集中しときなよ」
「りょーかいですっ! このメイちゃんにオマカセください!」
「よし。私たちの今できる精一杯を尽くそう。この試合、胸を張って勝ちに行こう」
「『お──っ!!』」
沙月の掛け声を受けて明姫月の内野陣はマウンドに背を向けて各々のポジションへと戻っていった。
その最後尾に取り残された栞李が何かひと声かけようと莉緒菜の元へ歩み寄った瞬間ふと、その中指に紅い影が過ぎった。
「……ッ! 莉緒菜ちゃんちょっと手見せて!!」
「え、ちょっ!?」
珍しく戸惑う莉緒菜に構わず、栞李は彼女の手を取り自分の目の前で広げた。
「やっぱり……莉緒菜ちゃんこれ……」
氷柱のように整ったその指先には、爪に沿って赤黒い肉刺ができていた。
その傷を暴かれた莉緒菜は、バツが悪そうに目を逸らした。
「コレ、いつからこうなってたの?」
「……わからない。さっきまでは、全然、こんなんじゃなくて……」
「いや、こんな時に堂々と嘘つかないでよ。さっきの打席から明らかに変だったじゃん。最後の2球コントロールめちゃくちゃだったよ?」
咄嗟にはぐらかそうとする莉緒菜だったが、それもあっさりと見破られて悔しそうに口を噤んだ。
「そういえばさっきも指先気にしてたけど、もしかしてあの時からもう……」
その傷を見て、真っ先に栞李の脳裏に浮かんだのは2イニング前のベンチでの光景。
その時も彼女は指先を気にしており、直後に制球を乱した。その時も、栞李だけがそれを知っていた。
「とにかく、早くこの事を葵センパイに伝えて交代させてもらえるように……」
「待って!!」
これ以上、彼女の怪我を悪化させたくない。その一心でマウンドから下りようとする栞李の腕を掴んで、莉緒菜は真剣な面持ちで首を横に振った。
「……ど、どうして? そのマメ潰れちゃったらしばらくボール投げられなくなるよ? 夏の大会だって近いんだし、こんなたかが練習試合でそこまで無理する必要ないじゃん」
「たかが練習試合……だけど、アナタにとっては特別な試合になったでしょう?」
彼女はまた、見栄や虚勢を見透かせない黒色の瞳をまっすぐ栞李へ向けて。
「だから、お願い栞李。私にもその、機会が欲しい」
なるたけ衒いのない言葉を使って懇願した。まるで、物ねだる子どものように。
「アナタと同じ、特別な一瞬が欲しい」
末永栞李は、すぐには言葉を返せなかった。
彼女のためチームのために自分がどうすべきかくらい頭では理解していたはずなのに、どうしても倭田莉緒菜から白球を奪うことができなかった。
「私は今日、この試合でなきゃいけないの。お願い」
それはきっと、いつだって揺るぎない“答え”を持っていた彼女に初めて身を委ねられた気がしたから。自ら機会を手放しかけていた自分を信じて送り出してくれたように、栞李もまた彼女が報われるその瞬間を思い描いていたから。
「はぁ……もう、わかったよ」
それと、もうひとつ。
彼女が自認することは未来永劫ないのだろうが、心のどこかで倭田莉緒菜という偶像にこんなケガで折れて欲しくないと願っていたから。
「その代わり、次制球乱したり、指気にするような仕草見せたらすぐ止めるからね。その時は観念してマウンド降りてよ」
「……わかった」
「本当かなぁ」とため息混じりにマウンドを後にする栞李に、一言だけ。
「栞李!」
「ん? なに?」
額縁に閉じ込めておきたくなるほど画になる笑みで宣言した。
「ありがとう。まかせて」
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