第44話 貴方へ。
「代打って……どうしたの栞李ちゃん? せっかく同点のチャンスなのに」
結局私は、今も野球から離れられずにいる。それを自分で決意したわけでもなく、動機すら他人に貰ってここにいる。
「いや、私じゃあのピッチャーから打てる気しないんで、誰か代打出してくれたほうが良いんじゃないかな〜と思っただけで……」
誤魔化すような笑みを浮かべる私に向かって、沙月先輩が正論を投げつけてきた。
「もし、本当にそれがチームにとって最適な選択だとしたらとっくに葵がそれを指示しているはずだ」
「そ、そうだよ! 確かにあんなスゴいピッチャー相手で萎縮しちゃうのは仕方ないけど、栞李ちゃんも1年生の中では相当上手だと思うよ」
「そうですよね! だって栞李も中学の時全国出てるんでしょ!? ワタシなんて同じ1年生なのにいっつも感心させられてるもん!」
「そうだったんだ……どうりで。私も私が1年生の時なんかより全然上手だな〜って思ってたんだよ?」
また、その話。
確かにあの夏、あのチームは全国大会まで勝ち進んだ。けどそれは全部あの子のおかげで。私はただ、その様子を傍らから眺めていただけ。
「私は別に、そんな大した選手じゃないですよ」
「え……?」
「私には、みんなが期待してるようなセンスとか特別な才能みたいなモノはなくて。いつまで経ってもバッティングは苦手なままだし、足も大して速くない。なんなら肩だって初心者の実乃梨ちゃんのほうが強いくらいですし」
自分で口にしておきながら心底情けなくて眼から涙が溢れてきそうだった。けど、涙なんて見せたらそれこそ大事になってしまうだろうから、誰から見ても平穏平静な表情と声を必死に守り、取り繕っていた。
「それに私は、別に好きで野球を続けてる訳でもないですし」
こんなこと、誰かの前で話したいモノじゃなかったはずなのに、一度漏れ出した想いは簡単には止まってくれなかった。
「────そんなこと、ないと思うよ」
自分の言葉に引きずられ顔が重くなっていく私を、真っ先にすくい上げてくれたのは棘のない柔らかな声だった。
「菜月、先輩……?」
顔を上げると、その人は寂しさを滲ませたような枯色の笑みを浮かべていた。
「ねぇ、栞李ちゃん覚えてる? 新入生説明会の日にみんなの前で沙月が言ったこと」
その見慣れない表情に、一時の間目を奪われた。
「私たち高校生なんだよ。華の女子高生だよ? 学校の帰りに友達と寄り道したり、休みの日に家族と遊びに行ったりさ。将来を見据えて勉強に打ち込むのもいいし、アルバイトして自分の趣味に費やすんでもいい……一生に一度きりのこの時間に他にも楽しいこと、魅力的なものなんていくらでもあるはずなのに、それでも栞李ちゃんは毎日グランドに来てたでしょ? サボったり、投げ出したりしないで真面目に練習してたよ」
まっすぐ私を見つめる菜月先輩の瞳は水底に沈むビイドロ玉のように長閑な陽射しを泳がせていた。
「その感情は、ちゃんと“好き”って呼んであげられると思うよ」
その優しい言葉に心をさわられた気がして。
「いいじゃないですか、もう……」
ほとんど反射的に突き飛ばすような刺々しい声が出た。
「そんなの、グランドに行くくらい誰でもできますよ。私はただ他人に誘われたからここにいるだけで……同じグランドにいても、私は実乃梨ちゃんみたいに前向きに努力できないし、沙月先輩や菜月先輩みたいに心底野球が好きな訳でもない。葵先輩みたいに本気で勝ちたいとも思えないし……莉緒菜ちゃんみたいに、まっすぐ自分を信じたりなんか、できない」
当てつけにしてしまった人たちから目を背けるように、私はまた静かに視線を落とした。
「どれだけ必死に努力したって、結局“私”じゃ何も報われないんだって……もう何度も見せつけられてきて、その度にがっかりして、うんざりする。際限なく自分のことが嫌いになるから……」
その眼に誰一人他人が映らなくなった途端、言葉が止まらなくなって。
ついには分厚く補強したはずの関をも踏み越えて、一番表に出したくなかった感情までもが顔を出してしまった。
「もうこれ以上、私は私に期待したくない……するのが怖い……んです」
胸の内でひた隠しにしてきた本音を吐ききると、ベンチの中は水を打ったように静まり返っていた。
静寂に圧し潰されそうになる私の手に、そっと誰かの温もりが触れた。
「……り、おなちゃん?」
視線を上げた先で、瞳に映った彼女はまっすぐ同じ高さから私を見つめていた。
「アナタ今、自分がどんな顔してるか分かる?」
手の甲に触れる指先の温もりが胸の強張りを溶かしていくようで、思わず目頭が緩んだ。
「苦しそうだよ、とっても。悲しそうな顔してる。自分じゃ見えないでしょ?」
青葉の香りを乗せた穏やかな風が、そっと前髪を撫でた。
その眼に映る私は、全部が全部見目好いものばかりではなかったはずだ。むしろ誰にも見せたくないような姿ばかりだったのに。
「アナタにしか分からない過去もあるだろうけど、私にしか見えないアナタもいるよ」
それなのに、彼女は一時も私から目を逸らしてはくれなかった。
「私の目に映るアナタは、そうやって毎日、楽しそうじゃなくてもグランドに来て、前向きでなくとも懸命にできることを探してた」
私に向けられるその眼も、その声も初めて会ったあの日から何も変わってない。
相変わらず、不躾なくらいまっすぐで、疑う余地も与えてくれない。
「築き上げてきた技術や経験を誇らず、より良くなろうとするアナタをずっと見てきたから……」
いつだって、その言葉に嘘や飾りはないから……だからこそ、こんなにも強く心動かされる。
「────だから私は信じられる。アナタが報われる、その瞬間を」
一本芯の通ったその声が、行き場を失くしていた私の心を鮮やかに突き刺した。
吐息が震える。気管をテープで貼り付けられたみたいだ。
視界が滲む。レンズに傷がついたのだろうか。
「“その時”はこの打席じゃないかもしれないし、今日でもないかもしれないし、今年中ですらないかもしれないけど……報われない時間はないって、私に教えてくれたのはアナタだから」
人里離れた清流のような、淀みない彼女の言葉たちが水底へ沈んだ私の心をさらりとすくい上げてくれた。
「だからもう一度、この1回だけでもいいから、本気で自分に期待してみてほしい」
ちょっとだけ押し付けがましかったり、自信満々な顔がカッコつき過ぎてて鼻につくこともあるけれど、彼女の言葉はいつだって私に“憧れ”を思い起こさせてくれる。
あの日あの時と同じ、新鮮な感動を。何度でも。
「────はぁ……まったく、何の話してるのかと思えばそんなことか」
吐息が触れそうな距離の会話に割り込んできたのは、わざとらしい軽薄さを帯びた幼声だった。
「あ、葵ちゃん。今はその……」
「今はも何も、相手の選手たちはもうポジション戻ってますよ? 悠長なこと言ってるヒマはありません」
途中、仲裁に入ろうとした菜月センパイをあっさり振り切って、その人は堂々と私の前に立った。
「言ったでしょ? シオリちゃん。ワタシは勝ちたいんだって。そのためなら例え残酷な選択だろうと躊躇はしないって」
わざとらしく私を見下ろすその人は、そう前置いてからハッキリと私の額を指さした。
「代打は出さない。さっきも言った通り、この打席で最悪でも同点に追いつかなきゃいけない。その局面をキミに託すよ」
その言葉が、葵先輩の全てだった。
この人は莉緒菜ちゃんと違って平気でウソもつくし、人を手のひらの上で転がしてヘラヘラ笑っているような人だけど、ここにいる誰よりもチームの勝利に執着してる人だった。
自分が嫌われようと、時に他人を傷つけてでも、全ての行動・言動が1つの目標のために終始していた。その想いを偽ることは決してしなかった。
そのことはもう、私もよく知っている。
「試合を再開します! 選手の変更がなければ次の打者は打席に入ってください!」
「ほら、栞李。アナタの打席だよ」
莉緒菜ちゃんに手を引かれて、グランドへ足を踏み出すと、耳に馴染んだ声が力いっぱい背中を押してくれた。
「栞李──ッ!! ガンバレぇえええッッ!!」
呆れるほど素直で見栄のないその声援の主は私の不安を取り払えるよう最大限の笑みを浮かべてくれていた。
その笑顔が、例えようもなく心強くて。
「ありがとう、実乃梨ちゃん」
チームメイトたちに送り出され、私は打席へ一歩、自分の意思で踏み出した。肺の底に残った不安や緊張をゆっくり吹き出しながら。
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