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ダイヤモンドの向日葵  作者: 水研歩澄at日陰
明姫月高校野球部の始まり
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第43話 末永栞李



 今でも、あの日見た景色を忘れたことはない。



 生まれて初めて訪れた地元の球場(スタジアム)。そこでは女子高校野球の全国大会が行われていた。

 その時の()、末永栞李はスポーツなんてまるで興味はなくて、ただ親に誘われたから何となく付いていっただけだった。


 けれど、試合が始まるとすぐに彼女たちのプレーに釘付けになった。

 遠目から見ていても曲がりがわかる程鋭い変化球を投げる投手に、それをこともなげに打ち返す打者たち。ヒット性の当たりをファインプレーでアウトにしたかと思えば、外野の頭を越す長打であっという間に得点が入る。

 何より、プレーしてる選手も応援してる生徒たちもみんな、その場にいる全員が目の前の結果に一喜一憂し、渾然一体となって野球というスポーツに熱中していた。


 自分と十個ほどしか歳の離れていない女の子たちが夏空の下、一球一瞬に白熱する姿は積氷よりも白く輝いて見えた。無意識のうちに、いつの日か同じ舞台に立つ自分の姿を思い描いてしまうほどに。



「ねぇ、おかーさん。私も野球(アレ)やってみたい」



 その帰り道、真新しい熱に心浮かされていた私は、気づけばそう口にしていた。

 今思うと、始めからそれが狙いだったのかもしれないけれど、その時の私は初めて自分から何かに打ち込みたいと心底思ったことを鮮明に覚えている。



 それからはあっという間だった。

 バカみたいにソワソワしながら親とグローブを買いに行って、あの日見た選手たちと似たグラブを買ってもらって、またバカみたいにはしゃいで。


 それからすぐに近所の野球チームに入った。

 初めてボールに触れた日は、投げるのも打つのもまるで思い通りにならなくて。それもまた新鮮で、楽しくて。毎日毎日、日が暮れるまで練習してた。

 近所の子からバカにされても、日焼けで腕が真っ赤になっても、擦り傷だらけの膝小僧もまるで気にならなかった。

 チームの練習がない日はおかーさんにバッティングピッチャーをしてもらったりして。ロクな運動経験もない人だったけど、時折帰りたそうにしながらも私が満足するまでよく付き合ってくれた。それで爪が割れたって嘆いてた時はさすがに悪いことしたかなと思ったけど。


 そんな毎日を過ごしてたら、元々呑み込みの早いほうだったらしい私は打撃も守備も目に見えて上達していき、気づいた時にはチームで一番(イチバン)の選手になっていた。



「────ねぇシオリちゃん。アナタ、中学はクラブチームに入ってみない?」



 初めてその選択肢を勧めてくれたのは、当時のチームの監督さんだった。


「クラブチーム……って、なんですか?」


 近所の公立中学への進学を控えていた私は、すっかりそのまま学校の野球部に入るつもりでいた。


「学校の部活とは違ってね、放課後とか土日に色んな学校の子が集まってくるチームなんだ。大抵の公立野球部は軟式だけど、クラブチームなら硬式使ってるとこも多いし、活躍すれば有名な高校にスカウトしてもらえるかもよ〜?」


 その監督は私の能力や練習態度を見て、純粋に私に期待してくれていたんだと思う。


「シオリちゃん家の近所にあるチームなんか結構な強豪チームだし、もしシオリちゃんが本気で高校の全国目指したいっていうなら間違いなく近道になると思うんだけど……どうかな?」


 自分の進む先のことなんてまだハッキリとは考えてもいなかった私は、その期待が嬉しくてほとんど二つ返事で頷いていた。


「うん。私、そっちに行ってみたいかも」


 結局、私は中学の野球部には入らず。監督からの期待だけを背負ってより厳しい競争の場に身を置くことにした。




「末永栞李です! 前のチームではサードを守ってました! よ、よろしくお願いしますっ!!」


 そこは私の幼稚な想像を遥かに凌駕する場所だった。

 整備された専用のグランドを2面も有しており、前のチームでは見たこともないようなバッティングマシーンやピカピカのトレーニング器具、身体作りのためのサプリメントまで野球が上達するために設備は何でも揃っていた。

 選手の数も三学年合わせて100人を超える勢いで、その数に囲まれるだけで緊張で身震いがした。




 そこで初めて、あの子(・・・)と出会った。




高杜(タカモリ)千晶(チアキ)です。ポジションは今のところ三塁手(サード)で。野球経験はあんまりないけど、どうぞよろしく」


 第一印象は背の高い子。

 中学1年の時点で既に私よりひと回り背が高く、体格に恵まれた子だった。


「えーーっ!! タカモリさん、ココが強豪チームだって知らずに入ってきたのぉ!?」

「うん。ウチのばあちゃんが近所に野球チームあるって教えてくれたから」


 彼女は家から歩いて来れる距離にグランドがあったからというだけの理由で強豪チームに入部してしまうような子だった。


「だ、大丈夫? ココ結構厳しいチームだけど……タカモリさん、確かさっきあんまり野球経験ないって言ってたよね?」

「多分、大丈夫。ばあちゃんにも根性だけはあるって言われてるから」


 その上、彼女はどんな時も周りのほうが心配になるくらい楽観的だった。誰に何度心配されてもまるで意に介さず、表情ひとつ崩さない豪胆さを持ち合わせていた。


「お……っとと」

「高杜! まずは捕ることから意識しろ! 投げるのはその後だ」


 最初は何をやってもダメだった。

 それもそのはず。彼女が野球を始めたのはほんの数ヶ月前で、まだちゃんと試合にも出たことがないような状態だったらしい。

 そんな状態ではもちろん、打撃も守備も走塁も、何をやらせてもチームで一番下手くそだった。それも、誰の目にも明らかな程ぶっちぎりで。


「もう一本! お願いしますっ!!」


 無理もないだろう。その場所はハナから強豪校への進学やその先のプロ選手を目指すような能力も志も高い子たちが集まってくるチームだったのだから。同じ新入生といえど横一線ではなく、既に小学生の頃から県内に名を轟かせているような子も少なくなかった。


「……ッ! もう一本!! サード!!」


 それでも、彼女は持ち前の向こう見ずさと前向きさで腐ることなく練習に取り組んでいた。

 その性格は大半のチームメイトには好意的に受け取られていたが、一部の子たちから『練習の邪魔』『時間のムダ』と疎まれている場面に遭遇することもあった。


「ねー、さすがにタカモリさんちょっとカワイソーじゃない?」

「さすがにね〜。野球自体は好きそうだし、もっと気楽にできる環境だったらね〜」

「んね〜。中学に野球部とかなかったのかなぁ?」


 同じ学年、同じポジションにいる身として、私も最初は少なからず気の毒に思っていた。

 初心者に決して優しいとは言えないこの環境(チーム)に居続けても苦しいばかりで、いつかどこかで続かなくなるんじゃないかと、勝手にそう思い込んでいた。




 ────あの日、あの瞬間に出会うまでは。




「やばっ、水筒忘れた!」


 その日は、新緑の香り舞う爽やかな気候だった。

 練習終わりの帰り道で面倒な忘れ物に気づいた私はげんなり肩を落としながらグランドまで引き返した。


「あーあったあった。はぁ……もう、日暮れそうじゃん」


 更衣室で無事忘れ物を回収した私は、影の落ちてきたグランドからそそくさと立ち去ろうとしていた。が、その時、不意にどこからか風を切るような音が耳に飛び込んできた。


「な、なに? なんの音……?」


 その音は1回のみならず、2回3回と一定のリズムで繰り返されていた。それに混じって時折すんすんと少女がすすり泣くような声も聞こえてくる。

 もうすっかり日も傾いておりグランドには誰も残っていないはず。にも関わらず、その音は絶えず私の耳に流れ込み続けている。

 脳裏にふと、昨晩見た心霊特番のナレーションが流れ始めた。


「いやぁ、まさかね……」


 念のために近くにあった金属バットを握りしめながら、私はその声のする方を覗き込んだ。


「もしも〜し、誰かいますかぁ……」

「な、誰っ!?」

「ひぃぇっ!! なに!??」


 頓狂な声を上げながら私がそこで鉢合わせたのは、涙で目元をぐしゃぐしゃにした長身少女だった。


「たっ、高杜さん?」

「っっ、アナタ……」


 彼女もこちらの存在に気づいていなかったらしく、私の顔を見るなりまつ毛が全部抜けるんじゃないかという勢いで目元を拭った。


「あの、どうしたの? 大丈夫?」

「……なにが?」

「なにがって、泣いてたみたいだから……」

「デリカシーないわね。聞かれたくないって言ってるの!」

「あ、ごめん」


 私がおずおずと視線を外すと、彼女は大きなため息をついてから細々と口を割った。


「……別に、ただムカついてただけ」

「えっ、ムカついてたの?」

「他に何があるの!? 毎日毎日みんなから笑われて、バカにされてばっかりの自分にムカついてただけ! 死ぬほどダサい自分にも腹が立つし、ワタシを見て笑ってたアイツらも心底ムカつく!!」


 てっきり辛さや苦しさからくるものだと思っていた(ソレ)は、今にも煮え滾りそうな熱を帯びていた。


「アイツら全員、いつか見返してやる。最後にはワタシが一番になってアイツらを笑い返してやるんだ。必ず……絶対!」


 執念を通り越して怨念すら感じるその表情に、自然と私の肌は波打っていた。

 知らなかった。彼女がこれ程気が強く、意固地で、負けず嫌いな性格だったなんて。


 その豹変っぷりに圧倒されていた私に向かって、不意に彼女がバットを突き立てた。


「アナタも例外じゃないから」

「え、私?」

「当たり前でしょ? 同い年で、同じポジションの先頭にいる選手なんだから」


 先頭……そう評されたことは本来嬉しいこと、誇らしいことなはずなのに、どうしてかその瞬間はこれっぽっちも喜べる気がしなかった。


「覚えてなさい。その笑顔……」


 その言葉で私を突き放すと、彼女はまたスイングを始めた。

 身を焼くような競争心と、どうな環境でも揺るぎない自信。どれもこれも私が持っていないモノばかりで。他人の持つソレは、碧く輝いて見えた。



 思えばこの瞬間(とき)、私は初めて彼女の特異性に触れたのだろう。



「よしっ……!」


 ふと思い立って、私は手にしていたバットを握り直した。


「……ちょっと、アナタ何してるの?」

「いや、私ももう少し練習していこうかなって」

「それじゃ意味ないでしょ。ワタシが一番練習しないといけないの! 遅くなったら家族も心配するだろうし、アナタはもう帰りなさい」

「私の家割とすぐそこだから平気だよ。高杜さんこそ良いの? もう暗くなってきたけど」

「ワタシのほうが家近いから平気」

「え、何その意地。高杜さん、私の家知らないでしょ」

「…………」


 その日はお互いに意地の張り合いで遅くまで素振りして、私はおかーさんにみっちり叱られた。


 この日を境に、私たちは時折彼女と同じように居残り練習をするようになった。

 愚直に努力する彼女に対して、時に私が基礎的な技術を教えてみたり、意地っ張りな彼女に何かと反発されたり。ただ、意固地になりながらも彼女は常人の数十倍呑み込みが速く、ひとつ、またひとつと驚くようなスピードで技術を習得していった。

 私も、そんな彼女に負けじと張り合ってみたりもして。


 思えば、私が純粋に野球を楽しめていたのはこの頃が最後だったかもしれない。




「次の大会からは末永を三塁手(サード)のレギュラー候補の一人として起用していく。そのつもりで明日からAチームの練習に合流するように」


 先にポジションを得たのは私のほうだった。

 2つ上の上級生が引退した直後の秋の大会から、私はチームのレギュラー候補の一人に数えられることとなった。3年生が退いても60近い大人数を抱えるチームは日頃から大会に出場することを主眼に置いた選抜(A)チームと、選手の基礎能力向上や実戦機会の確保に重きを置いた育成(B)チームに別れており、新入団した選手はこれまで皆一様にBチームに宛てがわれていた。


「栞李ちゃん、スゴーイ! 1年生なのにもうレギュラー!?」

「すごいね。おめでと!」

「う、うん。みんな、ありがと」


 もちろん、初めて聞いた時は嬉しかった。このチームでレギュラーとして大会に出場すること、それは即ち強豪(ランク)校への進学、ひいてはその先に待つ全国大会出場(夢見た景色)に向けた絶好の道程なのだから。

 同学年の子たちもその決定を笑顔で祝ってくれたけれど、私からすればたまたま三塁手(サード)に空きが出ただけで、とても現時点の実力に見合ったポジションだとは思えなかった。


「はぁ? 実力でしょ。アナタの」


 そんな不安も、彼女はただの一声で吹き飛ばしてしまった。


「結局シオ(・・)に先を越されたわね。ホントならワタシが先にそっちに行くつもりだったのに」

「まー、高杜さんはまず人並みに守備できるようにならないとね」

「ワタシはもうヒトナミよ。明日にはフタナミになってるかも」

「……ノータイムで知らない言葉使うのやめよう?」


 こんな時ばかりは彼女の楽観的な性格が羨ましかった。


「何にせよ、今はシオが選ばれて、ワタシは選ばれなかった。それは変えられない」


 そう呟いた彼女の声は少しだけ寂しそうだった。


「けど、ワタシの目標は変わらない。いつか必ず追いつくから。来年と言わず来月、来週……明日にでも! 絶対」


 力強いその言葉を最後に、彼女は私へ背中を向けた。その背中が遠ざかっていく景色を何故か鮮明に覚えている。

 湿気を含んだ秋風が、私の後ろ髪をそっと揺らしていた。




 その翌日から、私はより過酷な競争の日々に浸かることとなった。



「末永! 今のケースは無理せず1塁でいい。焦って送球してもオールセーフになるぞ」

「はいっ! すみません」



 全国区の強豪チームなだけあって、そこはやはり厳しい場所だった。



「もっと試合の状況と展開に気を配れ! 常にチームにとって最善のプレーを選択しろ!」

「判断が遅い! プレーが始まる前に想定される動きを頭に入れてないから遅れるんだ!」

「選手一人のツメの甘さがチーム全体の足を引っ張るんだぞ!!」



 Bチームに所属している間はある程度自由にプレーさせてもらえたが、上のチームでは常に勝利が優先された。いついかなる場面でも個人の技量ではなく、チームの勝利のために必要なプレーだけが求められた。

 その精神に背いたプレーをすれば容赦なく罵倒され、チームメイトからも名指しで避難された。



「明日の試合の結果如何でレギュラーメンバーを入れ替える。試合に出るものはこのチャンスを活かせるよう励め」

「『はいっ!!』」



 また、チーム内でのレギュラー争いも比にならないほど激しかった。Bチームではほとんど均等に出場機会が与えられていたものの、Aチームでは各ポジションにレギュラー候補とされる選手が2〜3人ほどおり、実戦機会での些細な失策(エラー)打撃不振(スランプ)ですぐにスターティングメンバーが入れ替わった。

 打撃・走塁・守備の基礎能力のみならず戦術理解度やスポーツIQ、ひいては普段の練習態度やプレー中の表情まで……何から何まで徹底的に比較されるため、試合中でなくともグランドに立っているだけで容赦なくプレッシャーに晒され続けた。



「ホント、末永は良いよなぁ。まだ2年だし」

「私たち3年は今年せめてレギュラー取らなきゃ強い高校(トコ)に推薦貰えないから。アンタも知ってるでしょ? ランキングに載ってるトコとそうじゃないトコとじゃ天と地ほどの差があること」



 オマケに、数少ない下級生だった私は人間関係の面でもなかなかチームに馴染めなかった。



「まったく。そんなに自信無さそうにプレーするならウチらにポジション譲ってよ! アンタ見てるとイライラするのよね」

「悪いけど、レギュラーポジション(そこ)が欲しい人は他にいくらでもいるんだよ」



 その頃には私だって理解していた。

 女子高校野球が“キセキの死んだ大会”と揶揄されており、パワーランキングに載っている学校に進めるか否かでその後のキャリアに補いきれないほどの差が生じてしまうことは。

 だからこそ、3年の先輩たちはみんなチームの勝利のため、そしてより良い高校(進路)に進むために必死で。みんながみんな、自分の将来のために懸命に脚を回している。その中で一人、私は孤立していた。



「ただいまぁ……」

「おかえり〜! 晩ご飯できてるけど、どうする?」

「先お風呂入る〜。ご飯は後でいいや」



 プレー以外の面で日々ストレスを抱えるようになった私は、家に帰る頃にはいつも心が擦り切れてしまっていた。心が落ち着かないせいで身体も休めず、しっかり寝たつもりでも毎朝全身が重かった。練習がない日には解放感すら覚えていた。


 そんな日々を過ごしていたら、いつの間にか、あまりにも自然に野球が楽しめなくなっていた。




「────ようやく、追いついた」


 そうして私がふと顔を上げた時には、あの子がもうすぐ目の前に立っていた。


「高杜さん? どうしてここに……」

「どうしてって、いきなり失礼ね。ワタシも呼ばれたのよ。A(こっち)のチームに」


 最初はただただ、驚かされた。

 競争の激しいこのチームでは選手の入れ替え自体は頻繁に起こる。が、つい数ヶ月前までほとんど初心者だった彼女がこれほど早く上のチームに上がってくる姿は誰も想像できなかったはずだ。


「驚いたって顔ね」

「いや、別にそういう訳じゃ……」

「言ったでしょ? ワタシはここでアナタと競いに来たの。今のワタシはあの日泣いてた惨めなアイツとはもう違うから」


 時が経って、環境が変わってもその眼に宿る自信は変わらず。宝石(いし)のように碧々と輝いていた。


「見てなさい。今日の試合でワタシも“ヒトナミ”になったってこと、証明してみせるから」


 その言葉に偽りはなく、久しぶりに同じグランドに立った彼女は見違えるほど成長していた。

 あれだけ苦手だった守備や走塁も最低限無難にこなすようになり、試合の定石や戦略も理解してプレーできるようになっていた。



 ────キィィンっ!!



「スゴーい……またヒットだ」

「ナイバッチ〜! これで今日3安打目!」


 そして、その何より飛び抜けて成長していたのは打撃能力。


 コンタクト能力、飛距離、選球眼、メンタルにいたるまで、打席の中で必要とされる能力全てが中学生離れしたレベルまで研ぎ澄まされており、上級生たちが苦戦する投手を相手にしても、一人難なく長打を放ってみせた。


「それにしてもタカモリさん、いつの間にあんなにバッティング上手くなったんだろ。まるで別人みたい」

「ね〜! 初めての試合(とき)なんて全打席三振してたのになぁ〜」


 彼女が涙を流しながら振っていたバットはもはや空を切ることはなく、打ち出の小槌のように安打を生み出すようになっていた。


 いったい、どれだけの時間と情熱を傾ければこの短期間にこれだけの能力を得られるのだろう。その一端を垣間見ていた私でも、全容は計り知れなかった。


 きっとそれが彼女の生まれ持った才能だったんだろう。

 私がどれだけ鍛えようと、きっと彼女のような打球は飛ばせない。彼女のように鋭いスイングはできないし、打席の中であれほど余裕綽々に振る舞うこともできない。

 彼女が過ごしたたった数ヶ月の時間は、私がこれまで積み重ねてきた何年という時間を容易く凌駕していった。




 紛れもなく、彼女は“天才”だった。




「────シオ! おつかれ様」


「あ、高杜さん。お疲れ〜」


 試合後、注目の的となっていた彼女は真っ先に私の元へ駆け寄ってきた。


「どう? アナタが見てない間にワタシも“ヒトナミ”を通り越して“フタナミ”になったでしょ?」

「……そうだね。正直、結構驚いたかも」


 彼女の活躍は否が応でも自分との差を突きつけられているようで、目を逸らしたくなるほど胸が苦しかった。


「バッティングも守備もこんなに上手くなってるとは思わなかったよ。前見た時とはホント別人みたい……」


 きっと彼女は、この短い間にショーケースに並べられるほどの“自信”を獲得してきたのだろう。

 私の心は恥ずかしげもなくガラスの向こうで輝くソレを羨んでいた。


「やっぱりスゴいね、高杜さんは。呑み込みも早いし、メンタルも強いし……羨ましいよ。私にはない“才能”があってさ」


 私はそのちっぽけな感情ひとつ制御できず、気づけば彼女を突き放すような言葉を口走っていた。


「なにそれ。ムカつく」


 その瞬間、失望の音が聞こえた。ガラスが割れるような清々しいものではなく、風化した土壁が崩落するような空虚で乾いた音が。


 それ以上、何か言葉をかけてくれることもなく。彼女は黙って私に背を向けた。

 その背中はいつか見たソレより、確かに小さくなっていた。




「次の大会から高杜をメインの三塁手として起用していく。末永は今後サードだけでなくショートの守備も練習しておいてくれ」


 それから程なくして、私たちの立場はいとも容易く逆転した。

 その圧倒的な打撃能力と潜在的な伸び代を買われ、2年の夏からは彼女がチームのレギュラーサードになった。


 いつかこんな日が来ることは分かっていたはずなのにやっぱりまだ心のどこかに悔しさが残っていて。これまで以上に自分を厳しく追い詰めるようになった。彼女を意識するあまり、結果ではなく完璧な動きをすることに囚われるようになっていった。ほんの些細な無駄も許せず、日々小さな不安を擦り潰すように練習していた。


「タカモリさん、今日も大活躍だったね〜」

「二塁打2本で打点も3かぁ。もうすっかり打線の中心だね」

「ねー。最近は何ならもうウチで一番頼もしいくらいだもんね〜」


 それでも、足腰が筋肉痛になり手がマメだらけになるまで練習しても、一向に彼女との差が縮まることはなかった。


 私は学年が上がりレベルの上がった投手たちのストレートに対応できず、打撃で全くといっていいほどチームに貢献できなくなっていた。

 彼女がレギュラー選手からチームの主軸へと名を上げていく一方で、私の出番はせいぜい代走か守備固めくらい。

 チームが苦しい時、追い詰められた時は誰もが決まって彼女に縋った。彼女もその期待を裏切ることなく、決定的な場面では尽く結果を残していった。


 彼女がチームの3番(ベストヒッター)を務めるようになってからはチームの成績も右肩上がり。もはやその実力を疑う者はいなくなっていた。



「ねぇ、末永さん。まだ残って練習してるよ」

「頑張ってるアピしたいんじゃない? ほらあの子、ちょっと前まで初心者だった高杜さんにレギュラー取られちゃったから」

「あー。確かにウチの監督そーゆーの好きそうだもんね」



 ────そして、その頃にはもう誰も私になんか期待してなかった。



 それに気づいた瞬間から、努力が苦痛になった。

 まるでパンクした自転車に乗っているかのように、重いペダルをいくら漕いでも息が切れるばかりで前に進んでいかない。その不安をこなそうと躍起になるあまり、知らず知らずのうちに自分から打撃フォームを崩していたのだろう。


 練習すればするほど自分が下手になっている気がして、グランドに立っている時間が息苦しかった。

 いつの間にか成功することより失敗しないことばかりに固執していた。打席に立つだけで足が震え、守備につく度肺呼吸を忘れてしまったかのように息が上がった。

 頭が熱く、口が渇く。腹も重い。


 そんな野球(かんきょう)が楽しいなんて、思えるはずがなかった。




「ねぇ栞李。アナタ最近何かあった?」


 今にも崩れそうな私に真っ先に目を向けてくれたのは、やっぱり家族だった。


「いやー、別にぃ。おかーさんが気にしすぎなだけじゃない?」

「そう? 最近のアナタ、何だかずっと暗い顔してるから」

「……」

「もし何かあるならおかーさんが話聞くよ? 口にしちゃったほうが楽になるかもしれないし」


 こんな時、誰かに縋って全部吐き出せるような性格だったらどれだけ楽だっただろう。


「本当に何でもないって。ただちょっと疲れてるだけだから……」


 そうやって誰にも見えないよう、毎秒毎秒砂時計のように積み上げてきた劣等感は、ある日音を立ててはち切れた。



「────痛ッ!!」



 中学3年の夏、中学最後の大会まで1週間を切った頃だった。

 送球(スローイング)練習の間に以前から拵えていた指の腹のマメが弾けた。かなり深いところまで傷が入ったようで、タカが外れたように痛みが吹き出してきた。


「っっ…………」


 試合直前に指先の怪我。満足に守備もできない私じゃもう、中学最後の大会もチームに居場所はない。


 ソレは、間違いなくこれまで積み上げてきたモノ全てを取り上げる残酷な傷だった。この先の進学先(キャリア)さえ左右する痛恨の……そのはずなのに、私の心は寄り道もなしに安堵していた。

 失望も悔恨も差し置いて、恥ずかしげもなくただ心を弛ませていたのだ。


 これでもう、彼女と見比べられずに済む。苦しいだけのこの場所にこれ以上居続けなくても、毎分毎秒自分の惨めさを思い知らなくても良いんだって。


 そんな心境を、彼女には見透かされていたのだろうか。


「ケガ、大丈夫?」


 日陰で止血していた私に、彼女は真上から声を投げかけてきた。


「……あ、うん。大丈夫だよ。指のマメ潰しただけだから」

「そう」

「けど、この時期にこんなケガしてたらきっともう試合には出れないかな。情けないよね、次が最後の大会なのにさ……」


 ベンチに腰を下ろしていた私は言葉を交わしてる間も顔を上げられなかった。頭上の彼女がどんな表情をしているか見れなかった。見たくなかった。

 彼女もまた、わざわざ屈んでまで私と目線を合わせようとはしなかった。


「アナタ、いつからそんな風になったの……」


 そんなわざとらしい独り言に吊られて私が目を上げた瞬間だった。その言葉は刃物より鋭く、私の顎を切り落とす勢いで叩きつけられた。



「────もうヤメたら? 野球」



 その言葉を合図に、全身を巡る血が一時足を止めた気がした。


「なん……どうして?」

「別に意地悪で言ってるわけじゃない。ただ、今のアナタはもう見てられないから」


 その瞳は、私の眉間へ拳銃を構えているかのような堅く差し迫った色をしていた。


「もう好きじゃいられないんでしょ? 上手くなりたいとも思えない、グランドに立ってても楽しくない。今更ワタシからレギュラー奪い返すような気概もなさそうだし……アナタはただ長い時間練習して、手にマメ拵えて、四六時中苦しそうな顔して、そうやって自分を納得させようとしてるだけ。何か間違ってる?」


 崖の上から投げ下ろされるような言葉たちは、どれもあまりにも的確で。瞬間的に凍っていたはずの血液が、今度は心臓を擦り切る勢いでじんじんと巡り始めた。

 何一つ言い返せずにいる私を哀れむような優しい声色で、続く言葉が振り下ろされた。


「もう、自分にも期待してあげられないんでしょ?」


 その一言が、あまりにも強烈に胸を絞めて。ほとんど反射的に声が飛び出していった。


「ちがうっ! ちがうよ。私は、全然、そんなことなくて……野球が嫌いになった訳じゃないし、ポジション争いだって、諦めたつもりじゃなくて……もっといいプレーして、みんなに認めてもらえるようにって」


 ぽろり、ぽろりと。

 自分の心が折れないよう、丁寧に言葉を選びながら。目を潤ませた子どもに優しく宥めるように……



「────ソレ、誰に言い聞かせてるの?」



 それが、トドメだった。


 何か言い返さなければいけないはずだったのに、もう何も言葉が浮かんでこない。それどころか、それまで浴びた彼女の言葉がひとつずつ腑に落ちていって。


 それはまるで道に溜まった落ち葉を吹き飛ばすかのように。結露したガラス窓を大きく拭い去るかのように。

 滑らかに、鮮明になってゆく。


「もう一度言うわ。アナタもう、そんな顔してまでグランドに立たなくていいわよ」


 その瞬間、はっきり自覚した。



 ああ、私はもうとっくに自分に期待なんかしてなかったんだなぁ。




 作中で分からない野球ルール、用語等ございましたらTwitter、コメント等で気軽にご質問ください。


 私に分かる範囲でお答え致します。

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