第41話 反撃の狼煙
────いつだったか陽葵先輩がマウンドの上でかけられた言葉を思い出した。
『キャッチャーはさ、いつも一人だけ味方の野手たちに顔を向けなきゃいけないポジションだから、“扇の要”って言われるんだろうね』
そうだ。捕手が顔を向けるのは、いつだって味方の投手であり、野手たちなんだ。不安や劣等感で視線を落としていれば、すぐにみんなにバレてしまう。
『特に投手は、他の誰よりもキャッチャーのことよく見てるから。葵が不安そうにしてるとすぐにわかるよ』
自信なんて、なければあるフリすればいい。今は不安を表に出すな!
「────この回! しまっていきましょう!!」
葵がこの日一番の声を張り上げて、5回裏の守備が始まった。
「なッ……!?」
その初球から、葵は大胆な勝負に出た。
彼女がミットを構えていたのは清々しいほどのど真ん中。サインもストレートだった。相手が下位打線の打者とはいえ、下手をすれば回の先頭打者にいきなり長打を浴びる可能性もある危険な選択だった。
「……」
それでも、葵には明確な勝機があった。
前のイニング、藤宮柚希以外の打者はストレートには目もくれず全て低めのスライダーを狙い打っていた。ボール気味の球でも半ば強引に打ちにきていたことを考えると打者個人のアプローチではなく、チームとして監督である大柿紫から指示が出ていたと考えるのが妥当だろう。
ストレートと軌道の似た球種を狙い打つためには確固たる自信と割り切った目付けが必要となることは葵も理解していた。
自信の部分は大柿紫の指揮官としての名声が担っていたとして、問題は目付けの部分。莉緒菜のスライダーのような似た軌道から最後に沈む球を狙い打ちするためには、予めその変化を想定して低めを切り捨てやや高めに目安を付ける必要がある。
そんな割り切った目付けをされたのはこの試合、葵の要求したストレートのほとんどが低めに偏っていたせいだろう。莉緒菜の少ない球種を最大化するためのシンプルな配球を逆に利用され、巧みに攻略されてしまった。
明姫月バッテリーが蘭華の打線と再び対等に渡り合うにはまず、この偏りを崩さなくてはならない。
とはいえ、ゆっくり時間をかけて配球に変化をつけたとしてもこの試合中に相手の打席アプローチを崩すことはできないだろう。
この試合で勝つためには、限りなく黒に近い盤面を一手で白く染め上げるような印象に残る変化が必要だった。
そこで葵が導き出した最も印象的に偏りを崩す方法は、打者に見逃したことを後悔させること。
今、藤宮柚希を除く蘭華の打者たちは皆スライダーを狙い打つためにストレートを切り捨てている状態だろう。そこであえて|普段なら絶好球となるコース《ど真ん中》にストレートを投じて見逃し、ないしは打ち損じを誘う。
“こんな待ち方さえしていなければ|気持ち良くかっ飛ばせる《フルスイングできる》球だったのに”
そう思わせることで打者の自信を揺さぶり、迷いを植え付けることで“割り切った目付け”を崩していく。そのためには、ど真ん中のストレートが最も効果的な球種だった。
「ふぅぅ……」
当然、リスクはある。
けれど、明姫月バッテリーがこの劣勢を跳ね返すためには避けて通ることのできない一歩目だった。葵がわざわざ莉緒菜に自分の指示を信じられるか聞いたのも正しくこの一球のためであった。
その問いに、倭田莉緒菜は自らの意思で頷いたのだ。
迷いなど、あろうはずがなかった。
「────んんッッッ!!」
渾身の力で投じた一球は狙い通り高さもコースも清々しいまでのど真ん中に入った。
あまりに打ち頃のボールに、打者がスイングを開始するよりも先に明姫月の外野手たちが反射的に身構えていた。
「……ッ!」
その絶好球に対して、打者もスイングに行くような素振りを見せたが、最後までそのバットが回ることはなかった。
「ストライーーーック! ワン!!」
「よしっ!」
「ナイスボール! 莉緒菜ちゃん!!」
球審のコールがグランドに鳴り響き、明姫月ナインが一斉に声を上げた。
この一球は明姫月バッテリーにとって、ただの1ストライク以上の価値を持っていた。少なくとも、葵はその初球が通ったことでこの打席の勝利を確信していた。
「オッケー! ナイスボール、リオナちゃん!」
今の一球、打者はコースを見て打ちに行く素振りを見せたにも関わらず、全くタイミングが合わずスイングを繰り出すことが出来なかった。
これで蘭華の打者たちが軌道の高さでスライダーを絞っているのではという葵の仮説は、おおよそ確信に変わった。
「ストライク! ツー!!」
2球目も真ん中やや高めへのストレート。この球も打者はタイミングが遅れてスイングすることができなかった。
葵の思い切った作戦が見事にハマり、いとも簡単に2ストライクを稼いだ。
「……っ」
甘いコースにストレート2球を通され、蘭華の打者にも迷いが生じ始めていた。
大柿紫からは三振しても構わないと言われていても、7番を打つ彼女は普段から試合に出ているレギュラーメンバーではない。上級生がいない今、この試合でも少しでも目につくような結果を残しておきたい。そんな焦りが彼女の“目付け”を崩してしまった。
「んッ!!」
3球目も真ん中高めへ。前の2球とまったく同じ軌道。ストレートだと確信してスイングを繰り出したが、白球はそこから更に浮き上がるような軌道を描いた。
────キィッッ!
ボールの下を擦ったような打球は空高く舞い上がる。が、角度がつき過ぎてしまい、外野まで届くことはなかった。
「オーライっ! まかせてください!」
高々と上がったフライをメイが2塁ベース付近で掴んで1アウト。
「よしっ!」
「オッケー! ワンナウト〜!」
「倭田さ〜ん! ナイスピッチー!」
先頭打者を抑え、明姫月ナインにもわずかな活気が灯りつつあった。
「ふッ!」
続く打者への初球も真ん中付近へのストレート。
「ストライク! ワン!」
この球に対しても、蘭華の打者は同じように見逃した。やはりスイングに行く素振りは見せるものの、タイミングが明らかに遅れている。
────キッ!
続く2球目、ストレートに対してタイミングは差し込まれていたものの強引にスイング。バットにボールを当てることには成功したが、打球はショート正面の力ないゴロとなった。
「おっけー。まかせて」
平凡な打球を遥香が難なく捌き、2アウト。
テンポ良く2つのアウトを奪われ、内心穏やかでいられなかったのは蘭華打撃陣。いくら2点のリードがあるとはいえ、野球は“流れ”のスポーツ。ここでバッテリーの思うがままに三者凡退で抑えられてしまうと、また流れが明姫月へ傾いてしまうこともあるだろう。
「ストライク! ワン!!」
この回から目に見えてバッテリーの配球が変わっている。蘭華打線のスライダー狙いを悟ってか、ストレート中心にカウントを稼がれている。
ここでそのストレートを叩いて流れを渡さない! そんな思いで打者は続く2球目、同じく甘めに入ってきたストレートを強振した。
────キャッッ!
しかし、そのスイングは白球の下にもぐり、打球は勢いよく真後ろへ飛んでいった。
「ファールボール!」
打者にとっては手応えのあるスイングだった。
タイミングも角度も完璧にとらえたと思ったスイングで打球を前に飛ばすことさえできなかった。
それこそが大柿紫が立てた作戦の“副作用”だった。
大柿紫の指示を受けた蘭華の打者は、それぞれ鋭く曲がり落ちるスライダーを強く意識して打席に入っていた。
そのせいで平均よりも大きくホップする莉緒菜のストレートに対する反応が極端に鈍くなっていた。
一度打席で見ていたはずが、まるで今初めて見た球かのようにタイミングが合わず、スイングは下に潜る。良い打者であればあるほど、この“副作用”にかかりやすい。相手は下位打線とはいえランキング上位の強豪で鍛えられた猛者であることに変わりない。
その実力を散々思い知っていた葵だからこそ、これほどまでに大胆な配球を仕掛けることができた。
「ファールボール! 0ボール2ストライク!」
続くストレートに対しても打者は同じようなファールを飛ばした。それでも、少しずつタイミングがあってきている。それは同時に、打者がストレートを意識し始めている証拠でもあった。
この回に入ってここまで、8球全てストレートを続けてきた。
落とすなら、ここしかない。
「────ふぅッッ!!」
白球が莉緒菜の指先を離れた瞬間から、その一球はまっすぐストライクゾーンの中心へ向かっていた。
2ストライクに追い込まれた状況で、望んでもなかった絶好球。打者に見逃すという選択肢はない。
────スイングをかける。
しかし、前3球の残像が残るその目ではもう、その球種を見分けることができなくなっていた。
「……っ!!」
白球は打者の手元で鋭く曲がり落ち、バットは空を切った。
「ストライク! バッターアウッ!! チェンジ!」
空振り三振。ワンバウンドで捕球した葵が素早く打者の膝にタッチして3アウト。
「ッッし!!」
このイニングを文句なしの三者凡退で退けた莉緒菜はマウンドの上で感情的に拳を握った。
「よしっ! 三振!!」
「この回三者凡退! 」
「ナイスピッチ! 莉緒菜ちゃん!」
莉緒菜と葵のバッテリーは蘭華の打線を手玉に取り、一度は完全に相手へ傾いていた試合の流れを見事に断ち切ってみせた。
「ナイスピッチ。リオナちゃん」
「……葵先輩」
「ビビらず良く投げきったね」
投球を終えマウンドを降りる莉緒菜に対して、真っ先に声を差し向けたのはその好投を呼び込んだ捕手の葵だった。
「莉緒菜ちゃん! この回冴えてたね! ビッシビシに!!」
「ナイスピッチ」
「スゴいよ! 倭田さん! ワタシなんてもうダメかと思ってたのに」
それに続くようにベンチに戻ってきたナインが代わる代わる彼女の肩を叩いた。
そんなチームの輪の中に、浮かない顔がただひとつ。
「────栞李!」
莉緒菜に名を呼ばれ、少女は小さく肩を震わせた。
「見ててくれた? 私のピッチング」
「……見てた、見てたよ。チームメイトなんだから、みんな見てるよ」
「栞李?」
莉緒菜から声をかけられても彼女は視線を重たく沈めたまま、そっと身を隠すようにベンチの奥へ消えていった。
「よしッ! この勢いでこっから反撃するぞ!」
「うんっ! 2点ならワンチャンスで追いつけるかもしれないから! 諦めるにはまだ早いよ!」
「そうですよね。ワタシたちにもまだまだチャンスはあるはずですよね!」
そんな彼女とは対照的に、明姫月ナインは莉緒菜の快投によって再び活気を取り戻しつつあった。
「で、でも……この回も、相手のピッチャーは…まだ……」
膨らみかけていた期待に針を差すようなあやめの声に導かれた先、マウンドの上には陽野涼がいた。
「────大丈夫だよ、アヤメちゃん。むしろ代わってくれないほうがやり易いくらいだから」
ベンチに立ち込めようとしていた暗雲を振り払うように、葵は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「聞いてください。この回、あのピッチャー……いや、あのバッテリーから“3点”取って、試合をひっくり返してやりましょう!」
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