第36話 ゲームの支配者
「沙月センパイ! イッポン! お願いしまぁすッ!!」
1アウト、ランナー2塁。試合の流れを大きく左右するこの場面で打席に立つのはメイ・ロジャースと並ぶ明姫月のもう一人の柱、川神沙月だった。
「すぅ……ふぅぅぅ」
同じルーティンからプレートに足をついた陽野涼は、打者を睨みつけるような目つきで捕手のサインをうかがっていた。
「……」
ランナーが2塁にいるこの場面で打席に入った沙月は、最低限引っ張り方向へ打球を飛ばすことを念頭に置いて初球を待っていた。その方向への打球であれば内野ゴロや外野フライであってもメイの脚力なら易々と3塁へ進塁することができるだろう。例えそれで2アウトになったとしても、メイ程の俊足ランナーが3塁にいればいくら百戦錬磨の蘭華バッテリーといえど暴投のリスクが高いチェンジアップやナックルカーブを投げにくくなるかもしれない。
そのためにも、沙月はまず強く引っ張り込めるようなインコース寄りの速球に狙いを定めた。
「んッ!!」
涼が投じた初球はまさに沙月の狙い通りのコースへ入ってきた。その絶好球を見逃すまいとすかさずスイングをかけたが、白球は沙月の手元に届く前にブレーキを踏んでストンと落ちた。
「スイング!」
「なッ!?」
「初球からチェンジアップ!?」
明姫月ベンチすら思ってもみなかった初球チェンジアップに全くタイミングが合わず空振り。1塁側に打球を飛ばしたい打者心理を巧みに利用されてしまった。
「……」
これまでない配球で空振りを奪われ、沙月の心理には迷いが生じていた。
これまで蘭華バッテリーはチェンジアップを2ストライク追い込んだ後の決め球としてしか使ってこなかった。だからこそ、沙月は追い込まれる前の速球を引っ張るつもりでいたのだが、たった1球のチェンジアップによってその思惑を根底から崩されてしまったのだ。
チェンジアップはオフスピードピッチと呼ばれる変化球の一種で、主に速球を狙っている打者のタイミングを外して空振りやゴロを誘発するための球種とされる。ただし、陽野涼が投じるチェンジアップは緩急のみならず落ち幅までもが一級品で、全国クラスの打者からも空振りを量産するまさに魔球であった。とても速球を狙いながら反射的に対応できる球種ではない。そのチェンジアップがカウント球でも来るのであれば狙いを変えるべきだろうか。
沙月が打席内で思考を巡らせているうちに、陽野涼は2球目の投球に入っていた。
「んんッ!!」
涼が投じた2球目はまたしても同じようにインコースから逃げながら沈む軌道を描いた。それが目に付いた瞬間、沙月の脳裏に初球のチェンジアップの軌道が過ぎり、バットを振ることができなかった。
「ストライク! ツー!!」
その1球はチェンジアップと似通った軌道のツーシームだった。その球がインコース低めいっぱいに決まりツーストライク。いとも簡単に追い込まれてしまった。
こうなってしまってはもう狙い球を絞っている余裕はない。どんな球種・コースであろうとストライクゾーンへ来た球に食らいついていくしかない。
「ふぅッ!」
勝負の3球目、涼の投球は2球目と寸分違わぬ軌道を描いた。
見逃せばストライク。そんな直感が沙月のバットを走らせた。
「くッ……」
しかし、またしてもその1球は沙月のスイングを躱すようにブレーキをかけながらゾーンの外へ沈んでいった。
沙月のバットは為す術もなく空を切った。
「スイング! バッターアウッ!!」
たったの3球。チャンスに滅法強い沙月がたったの3球でいとも容易く空振り三振に取られてしまった。
「そんな……キャプテンが3球三振なんて」
当然、打線の大黒柱である彼女の惨敗はチームにとってもショッキングな出来事であった。ノーアウトでメイが出塁した時には試合の流れを掴みかけていただけに、そこから打線の中軸を担う二人が完璧に封じられたことでベンチにいる全員が落胆を隠せずにいた。
「ど、ドンマイ沙月! みんなも! まだイニングは終わってないよ! 切り替えて応援しよう?」
「そうですよね。い、伊織センパイ! ここでイッポン! お願いします!!」
空元気のような菜月の声に励まされて、明姫月ベンチから続く明山伊織へ必死の声援が飛ぶ。
「よっしゃ!!」
仲間の声援を一身に浴びた明山伊織もリベンジに向け闘志を燃やしていた。
彼女は普段から打席の中でバッテリーの配球やケース打撃を細々考える選手ではなかった。しかし、そんな伊織でも前の打席で変幻自在の変化球にタイミングが合わず3球三振を喫した記憶だけはハッキリと脳裏に焼き付いていた。
あれだけ派手に翻弄されていれば、この打席も変化球中心の配球で攻めてくるのではないか。そんな考えから伊織は、ほとんど直感的に外低めの変化球を強く意識していた。
否、させられていた。
「────うッ!?」
初球、その裏をかくような直球が容赦なく内角高めを突いた。
「ストライク! ワン!」
「なッ!?」
外低めを意識する余り前のめりになっていた伊織にはボール球のように見えていたが、そのストレートは確かにゾーン内を通過していた。
「イオリちゃん! 落ち着いて! まだカウントは2つあるから!」
葵がベンチから必死に声を飛ばしたが、裏をかかれた焦りでその声がほとんど耳に入っていなかった。
「んんッ!」
続く2球目も同じようなファストボールがインコースに飛び込んでくる。
同じ球に二度はやられまいと力強いスイングを繰り出す伊織だったが、白球はその足元に食い込むように曲がり落ち、巧みにバットの芯を外した。
「────ッッた!!」
内角に鋭く食い込んでくるツーシームをひっかけ、打球は伊織の左脚の甲に突き刺さる勢いで直撃した。
「ファールボール!」
「……っってェ」
まるで図ったかのようにファールを打たされカウントは早くも2ストライク。自打球の痛みを堪え打席に戻る伊織だったが、追い込まれた上に釘を打たれたかのように重くなる左脚に気を取られ完全に集中力散漫になっていた。
「ふっ!」
その様子を見逃さず観察していたバッテリーは特に悩むこともなく1打席目と同じようなコースへナックルカーブを投じた。
「ストライーク! バッターアウッ!!」
外へ大きく曲がり落ちる球にまた同じようにタイミングを崩され、空振り三振。
ノーアウト2塁の好機から先制点を上げるどころか、誰一人として打球を前に飛ばすことさえ出来なかった。
「ッッし!!」
打線の中心である3番4番を2者連続3球三振に抑え、ピンチを切り抜けた陽野涼は小さくガッツポーズを作りながらマウンドを降りた。
これが陽野涼の本来の姿。完成度の高い多彩な球種と緻密なコントロールを有し、時には打者心理や性格を汲み取り相手を煙に巻くようにアウトを積み上げる難攻不落の技巧派エース。
「い、イオちゃん……脚だいじょうぶ?」
「ん? あー、ちょっとまだジンジンするけど全然走れるし、心配ねーよ」
「そう。なら、よかった」
「……」
その堂々たる投球を見せつけられて、明姫月ベンチには再び重たい絶望感が漂い始めていた。
「みっ、みんな! 切り替えていこう! この回もチャンスは作れてるし、攻撃はまだ4回あるから。その前に気を引き締めて守備しよう」
「そう、ですよね。ハイ! 切り替えていきましょう! 皆さん!」
菜月や実乃梨がいくら明るく声を張り上げても、誰一人として心を奮わせることができなかった。
このイニングが始まる前は誰もが僅かながら希望を見出していた。全国有数の強豪と互角に渡り合えているという手応えすら感じていた。
しかし、その手応えも今や陽野涼の圧倒的な投球に容易く握り潰されてしまった。同じ年頃の選手として憧れを抱いてしまうほどの圧倒的な実力差。お前たちは私の足元にも及ばないのだと、頭上から抑えつけられているかのような不遜な威圧感を突きつけられていた。
その環境に慣れていない明姫月の面々ではまともに顔を上げることさえ叶わずにいた。
「よし、リオナちゃん。この回は下位打線からだから落ち着いて丁寧にアウトを取っていこう」
その余波に侵されるかのように、この試合中常に心に余裕を持ち“勝利”の一点だけを見つめてきた葵の言葉が、本人も無意識のうちに守りに入っていた。
それは着実に、一歩ずつ、強者のプレッシャーが明姫月ナインを蝕んでいる証拠であった。
────そして、この陽野涼の好投を機に試合の流れは少しずつ蘭華女子へと傾き始める。
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