第25話 それぞれの決起
「はぁ……最ッ悪だ」
その日の夕食を終えてもまだ、栞李の憂鬱が晴れることはなかった。
練習終わりのバスは莉緒菜から逃げるためだけに実乃梨と席を代わってもらい、宿舎に到着して以降は彼女と目すら合わないよう日陰に忍び続けてきた。
その行動が事態解決のために何ひとつ役立っていないことは重々承知していたものの、時間が開けば開くほど後悔と羞恥心が猛スピードで追いかけてきて、どうにも自分から声をかけに行くことができなくなっていた。栞李の脳内に住む“倭田莉緒菜”はとっくにもういつも通りの澄まし顔をしていたけれど、それが余計に腹立たしくてムキになっていたのだ。
「ヤホー、シオリちゃん」
悶々としたまま部屋を出た途端、よりにもよって莉緒菜の次に出くわしたくなかった幼顔の少女がぴろぴろと右手を振っていた。
「う、葵先輩……」
「コラコラ、もうミーティング始まるのにどこ行くつもりかな?」
亜音速で方向転換を繰り出す栞李だったが、予め動きを見切られていたかのようにあっという間に捕えられてしまった。
「い、部屋にノート忘れました!」
「じゃあその手に持ってるものは何かな?」
「これは、人類観察日記ですっ! み、実乃梨ちゃんのっ!」
「……なぁに? そのよく分からない嘘は」
こんな時に限ってマトモな言い訳が思いつかない自分が憎かった。
「それにしても、随分派手にケンカしてたみたいだねぇ。リオナちゃんと」
「ゔぅっ……」
そこが一番、栞李が触れられたくない傷穴だった。もちろん、葵もそれを承知した上でその生傷の上に爪を立てた。
「聞いてたんですか……」
「それはもうバッチリ。というか、あんなに大声張り上げてたらグランドにいたみんなに聞こえてたんじゃないかな〜?」
「私もう、今すぐこの部ヤメマス。サガサナイデクダサイ……」
「冗談だよ。たまたまワタシが近くにいただけだから」
こんな時でも葵は平気で人をからかうし、栞李もその笑顔に容易く振り回されていた。
「けどまぁ、気持ちはわかるよ」
だからこそ、彼女が不意に見せた影のある表情が栞李の心を鋭く締めた。
「…………その、ごめんなさい。ヒナタ先輩の話、勝手に聞いちゃいました」
「別にいいよ。どうせそのことを知らないのは君たち1年生と後から入ってきたメイちゃんくらいだからさ」
栞李は菜月から他人事としてその話を聞かされていた時は半ば信じきれずにいたが、実際にすぐ傍で葵の声や表情に触れて、半紙に落ちた墨のようにはっきりとその過去の輪郭が浮き上がってくるようだった。
「ねぇ。シオリちゃんってさ、ワタシのこと嫌いでしょ?」
「いやっ、そ、そんなことは……」
「え〜、今更それはズルいんじゃない? 散々あんな態度とっておいてさーあ」
「……それは、ごめんなさい」
確かに、栞李は初めて顔を合わせた瞬間からその先輩のことが苦手だった。けれどそれは、彼女の素性も心根も何もかも知らなかっただけだ。
今は、少しだけ違う。
「別にいいよ、ワタシのことなんか嫌いでも。けどさ、ひとつだけ覚えておいて欲しいのは、私がみんなと|チームメイト《同じユニフォームを着る側》だってこと。栞李ちゃんとも、もちろん莉緒菜ちゃんともね」
今までの仮面に貼り付けたような笑顔とは違う、感情の底を映したような鉛色の笑顔だった。
「まあ、常に“味方”ってワケじゃないかもしれないけどね」
その時初めて、栞李は“津代葵”という少女の本心に触れた気がした。
「葵先輩って、何か思ってたよりずっと優しい人かもしれないです……」
「んー? 気のせいだと思うけどなぁ」
栞李の眼には昨日よりほんの少しだけ、葵の表情が解れたように見えた。
「あ、それとリオナちゃんとは後でちゃんと話しといたほうがいいと思うよ? シオリちゃんが逃げた後、何だかちょっと様子がおかしかったから」
「え、あの後莉緒菜ちゃんと話したんですか!? あの子、私のこと何か言ってました?」
慌てる栞李を後目に、葵は満面の含み笑いを浮かべていた。
「んー、何か言ってたような気もするけど忘れちゃったぁ。それくらい自分で聞きなよ? イクジナシちゃん」
「…………やっぱりイジワルじゃないですかぁ」
「ははっ、そうかもね」
どういう訳か葵は『優しい』と言われた時よりずっと嬉しそうな顔をしていた。
「すみませーん。遅くなりました〜」
二人がミーティング会場へ入った時には既にほとんどのメンバーがその一室に集まっていた。
「あ、葵ちゃん! 栞李ちゃん! お疲れさま。もうみんな揃ってるよ〜」
「すいません菜月先輩。お待たせしちゃって」
「ううん。みんなも今ちょうど集まったくらいだし、そんなに待ってないよ」
わざわざ立ち上がって2人を出迎えてくれた菜月は栞李の表情の変化に気づくと、何も言わず優しく微笑みを向けた。
「それじゃあ、全員揃ったようだから始めようか。合宿最終日、蘭華女子との試合に向けてのミーティングを」
チームのキャプテンである沙月の言葉でその場の空気が一気に引き締まる。
柔らかで優しくみんなの心が和らぐような菜月の声とは異なり、強かで鋭い沙月の声は瞬く間にチームに緊張感をもたらすことができた。
「は〜い! キャプテン。まずはワタシからいいですか〜?」
粛々とした雰囲気の中、真っ先に声を上げたのはチームの司令塔を務める津代葵だった。
彼女は沙月からその場の注目を攫うと、やはり躊躇なく自分の思いを吐き出した。
「明日の試合、ワタシは何が何でも勝ちたいです。たとえ練習試合だったとしても、全国有数校である蘭華に勝てれば夏の大会に向けて大きな自信になるはずです」
「んー、そりゃアタシだって勝てるなら勝ちたいとは思うけどさぁ」
葵の発言にごく自然な声音を挟んだのはあけすけな性格の長身少女、明山伊織だった。
「だからってそう簡単に勝てる相手じゃないだろ? 蘭華は全国常連校の中でも常にトップ16以内に入ってる全国最上位校だぞ? 今の実力差をひっくり返せるようなとっておきの策でもあるのか?」
「作戦はいくつか考えてあるけど、それが通用するかは明日になってみないと分からない」
津代葵という少女はどれだけ大言壮語な目標を掲げていても、決して楽観的に無策で挑むような柄じゃなかった。
「それで、葵の勝ちたい理由は本当にただそれだけか? 私にはそれが“何が何でも”という表現に見合う動機だとは思えないが」
どこまでも誠実にチームを背負う沙月の瞳に見つめられても、葵は自分の意地を曲げなかった。
「あとは、ただの私情です」
「……そうか」
偽りなく白状した葵に対して、沙月も特別言葉を送り返すことはしなかった。
「私情って、どうせまたヒナタ先輩のことでしょ? アンタってほんっとあの人のこと好きよね〜」
その代わりに割り込んだメイのくだけた言葉が、不用意に葵の尾を踏みつけてしまった。
「……もー、メイちゃんってば。自分がお眠だからってムヤミに口挟むのヤメてね〜」
「はァ? 別に眠くないわよ。あんたワタシのことなんだと思ってるワケ?」
「えー、だって昨日も真っ先に寝たくせに今朝は一番遅くまで寝てたし」
「そっ、それはアンタたちが誰も起こしてくれないからでしょうが!」
「いや〜、こんな顔して寝てたら誰も起こせないって」
「なっ、なんで寝顔撮ってんのよ!」
「あ、ごめん……可愛いなと思って、つい……」
「あやめが撮ったの!?」
思いもよらぬ真犯人に、メイは責めるのも忘れて愕然としていた。
「あと何かむにゃむにゃ寝言も言ってたよ」
「なァんで動画まで撮ってるのよ!!」
「あ、ゴメンね。それは私が……」
「菜月センパイが!? というか3年生は部屋別でしたよね!??」
「んね? メイちゃん。これさぁ、すっごく可愛く撮れてるからいつも応援してくれてるファンの子たちにも配ってあげたほうがイイと思わない?」
「じょ、冗談言ってないで早いとこソレ全部消してよ。ねぇ、ワタシが悪かったから!」
不用意な一言からあっという間に四面楚歌状態に追い込まれたメイに、逃げ帰るように傍らの遥香に縋り付いた。
「ハルカ先輩……アイツにイジメられましたぁ」
「いや、今のは完全にメイが悪いよ」
「そんなッ! 先輩まで!?」
ついには遥香にもたしなめられて、レモンイエローの少女はしょんぼりと肩をすぼめた。
「みんな。少し聞いて欲しい」
まとまりを失くし始めていたチーム全体の意識を、沙月の一声が見事に束ね上げた。
「理由の是非はともかく、葵の言う通り何を目標に試合に臨むかで結果は大きく変わる。特に明日の相手は高校野球における最上位格のチームだ。自分たちより格上の相手に挑む時、人の“心”は技術や経験以上にものを言うことがある。心の隅に潜在する迷いや弱気がプレーに影響し、その心が仲間にも伝染する。ほんの些細な感情だったそれが、チーム全体を蝕み侵す“毒”になり得るんだ」
沙月は声を荒らげていた訳ではないし、態度や表情に怒気がこもっていたわけでもなかった。けれど、ひとつひとつの言葉の存在感に圧倒され誰もが一様に押し黙っていた。
「最後に信じられるのが自分自身でなくても構わない。大切なのは全員がこのチームの勝利を信じることができるかどうかだ。ただ、必ずしも全員が明日勝つためにここにいる訳じゃないことも分かっている。だから答えはそれぞれの心の中で持っていてくれればそれでいい」
それでも、誰一人として沙月の言葉から目を逸らそうとはしなかった。
自分のためか誰かのためか。その瞬間、それぞれがそれぞれで明日プレーする理由を必死に探しているようだった。
「だが私は、相手がどこであろうと負けたいとは思わないし、いつだってこのチームの可能性を心から信じている」
沙月が口にしたそれは何の保証もなく、形にも残らないただの言葉だったけれど、1人きりで自分に向き合い、孤独に押しつぶされそうになっていた者にとってはこの上なく心強い声援となった。
「私は勝ちたい。私たちならどこが相手であろうときっと勝機を得ることができるはずだ」
明日、このチームの何かが大きく変わりそうな、新しい何かが生まれるような、そんな予感がして止まなかった。
「それじゃあ、そのための作戦を話します。皆さん、よく聞いててくださいね」
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