第21話 心の距離
「それじゃあヒナ先輩! 私たち、お先に失礼しますね〜」
「うん。みんなお疲れさま〜」
その日も陽葵先輩は最後まで1人でグランドに残って練習を続けていた。
日が沈むともう、風が冷たくなってきた。
「陽葵先輩……」
「あれ〜、葵? まだ残ってたんだ」
こっちに向かって顔を上げた陽葵先輩は疲れを感じさせないような涼しげな表情をしていた。
けど、私は知っている。陽葵先輩は自分が苦しい時ほど優しい顔をして他人にソレを悟らせないよう振る舞う人だ。
「もう遅いですし、今日は終わりにしませんか? 部室の鍵も返せないですし」
「どうしたの〜? 急にナギサちゃんみたいなこと言い出して」
先輩は笑ってはぐらかしていたが、今日1日の練習で投じた球数は100球を悠に越えていたし、こうしてる間もずっと肩で息をしていた。
「ここ最近毎日ブルペン入ってるじゃないですか。たまには休む日も作らないと……」
「へーきだって。毎日って言ったって強度を落としてフォームの確認してるだけの日もあるし」
「強度を落としてたって休みを入れなかったら消耗し続けますよ。これ以上無茶してまた肘でも痛めたらこの先のキャリアにも影響が……!」
「はは、参っちゃうなぁ。何だか本当にナギサちゃんと話してるみたいだよ」
私がどれだけ真剣に訴えても、先輩は視線を逸らすばかりでまともに取り合ってくれなかった。
この時に限らず、陽葵先輩は以前よりに他人の意見を寄せつけなくなった。口調や表情は優しくとも、野球のこととなるとどこかで他人と距離を取るようになった。
「大丈夫だよ葵。わたしのことはわたしが一番よくわかってるから」
陽葵先輩はもう、私が1人足を挫いていても、こっちに振り向いて寄り添ってはくれない。
後ろを歩こうとする私に歩幅を合わせてはくれない。何度も立ち止まりそうになる私を励ましてはくれない。
あの人はもう……私の傍には、いてくれないんだ。
「今度こそ、わたしがみんなの願いを叶えてみせる。それが今の私の“望み”だから」
ごめんなさい。凪紗先輩。
けどさ、こんなに遠いんじゃ、どれだけ叫んでも私の声なんて届くわけないよ。
「……じゃあ、私ももう帰りますね」
「うん。もう暗くなるから、帰り道気をつけてね」
「先輩も、完全に暗くなる前に上がってくださいね」
「うん。そうだねぇ、ありがと〜」
「それじゃ……」
結局、先輩に何ひとつ自分の気持ちを伝えられなかった。凪紗先輩も、私のことを信じて想いを託してくれたのに。
今日もまた少しだけ、自分のことが嫌いになった。
それから、先輩に何も声をかけられないまま季節だけが過ぎていった。
陽葵先輩を中心とした新チームは春の大会を危なげなく勝ち上がり、夏の大会のシード権を獲得した。しかしチームは前にもまして投打に陽葵先輩に頼りきりの状態で、春の公式戦全ての試合を先発完投しただけでなく、打撃でも全試合でチームの中軸である3番を担い要所で打線を牽引する活躍を見せていた。
それでも先輩は疲れた素振りなどまるで見せず、それどころか苦しい場面でこそ鬼気迫る表情で相手を圧倒するようなパフォーマンスを発揮してみせた。
チームの中で陽葵先輩の存在が大きくなるほど、誰もが先輩に頼りきりの状況に抵抗がなくなっていった。尊敬と憧憬から、無意識のうちに少しずつ陽葵先輩との間に溝が生まれていた。
誰もそのことに気づけないまま、私たちは陽葵先輩と過ごせる最後の夏を迎えた。
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その日はうだるような猛暑日だった。
「うわ、今日はまた一段とスゴいね」
「私たちを見にきてるんじゃないのはわかってるけど、やっぱりちょっと緊張しちゃうよね」
夏の大会初戦を前に、応援席に集まったスカウトの人たちを眺めながら誰かがそんなことを呟いていた。
ムリもない。陽葵先輩が未だに進学先を明言していないために、この日も数多くの強豪校のスカウトが応援席から目を光らせていた。その中には全国常連校も一つや二つではなく。
それが自分たちに向いている訳ではないことを理解していても、これだけの数の視線を注がれて緊張するなというほうがムリな話だ。
まだウォーミングアップなのに、身体が竦んで思うように動かない。去年の初戦とは全く違う緊張感だった。それは去年よりずっと重く、無色の膜に覆れているかのように全身の肌の上に貼りついていた。
そんな重苦しい空気の中に突然、緊張を弾き飛ばすような軽快な声が鳴り響いた。
「────アンタか!? イチノセ ヒナタっちゅうんは!」
その声の主は、赤か茶か分からないような派手髪の少女だった。
彼女は私たちとは違うユニフォームを着ていながら、悪びれもせず輪の中心で堂々と陽葵先輩を睨みつけていた。
「うん。そうだよ」
「そうか。アタシは和泉 樹や。今日はよろしゅう!」
「うん。よろしくね〜」
差し出された手を陽葵先輩が取ると、派手髪の少女がすっと懐へ潜り込んだ。
「知ってるで。ここにいるスカウト、みんなアンタのなんやろ?」
「…………うーん、そうなのかなぁ」
「なんやその顔。アンタがいらんのやったらアタシが貰ったるわ。今日ここで、アタシのが注目に相応しい投手やって全員に証明したる」
ハナから隠す気もない堂々たる宣戦布告。
その自信に満ち溢れた高姿勢に、傍にいた私たちのほうが気圧されてしまった。
「なんや、何も言い返さんのかいな。そんなんじゃこの後の試合も……」
「あんた試合前に何しとん」
止まる所を知らない少女の言葉を遮ったのは、彼女とよく似た顔をした薄茶髪の少女だった。
「げっ、瑞……」
「あんたは毎回毎回対戦相手にケンカ売らな気が済まんのか」
同じユニフォームで似通った顔立ちをした2人を見て、ようやく昨日見ていた相手校のデータを思い出した。この2人が相手のエースと3番となる和泉姉妹。
「何も言わんと舐められるやろ! せやからこうしてこっちから……」
「こっちが格下やってハナから認めてるようなもんやろ、ソレ」
「む、いちいち揚げ足とるな! あんたはそうやっていつもアタシの……」
「それはあんたがアホなだけや」
陽葵先輩と同じ3年生の双子で、派手髪のほうが姉の樹さん、薄茶髪の子が妹の瑞さん。
これまでの公式戦で目立った実績はないけど、このチームは言わば投打で2人のワンマンチームだ。
「とにかく! 今日の試合は絶対にウチが勝つから、今のうちに観念しとくん……」
「ウチのアホが色々とご迷惑おかけしました。それじゃあ」
「アンタはイチイチ被せてくんな!アタシに最後まで喋らせ……」
「うるさい。あんたははよ戻って投球練習しとき。もう試合始まんで」
最後まで絶えずお互いに言い争いながら、2人は3塁側のベンチへ帰っていった。
私たちにとっては思わぬ先制パンチを喰らった気分だったが、当の陽葵先輩は意にも介さず。ただひたすらに目の前のマウンドに集中していた。
そんな先輩に誰一人として、声をかけるどころか近寄ろうともしなかった。
「よし、行こう葵。試合が始まる」
それだけ、その日の陽葵先輩は強烈な存在感を放っていた。こういう時の陽葵先輩はいつだってその期待に応える、あるいはそれ以上のことをやってのけてきた。何度もその姿を一番近くで目にしてきたはずなのに、この日はなぜか嫌な予感がしてならなかった。
「それではただいまより、夏の大会第二回戦を開始いたします。両校、礼ッ!!」
「『よろしくお願いします!!』」
両校一斉に頭を下げ、後攻である私たちはそれぞれのポジションへ散っていく。トーナメント表では二回戦となるが、春の大会でシード権を獲得していた私たちにとってはこれが夏の初戦となる。
イニング前のウォームアップから固さの残るメンバーもいる中、陽葵先輩は一人、寒気がするほどの集中力を保ったまま初回のマウンドへ登っていた。いつもと同じ所作、同じルーティンでマウンドを均していても、その一挙手一投足に特別な感情が込められているようだった。まるでこれが生涯最後の登板になると言わんばかりに。
「────プレイボール!!」
試合開始の声と同時に、応援席から弾けるような黄色い声援が上がった。それは全てマウンドに立つ陽葵先輩へ向けられたものだろう。
「ふぅぅ……」
ただ、当の陽葵先輩はそちらへは目もくれず、まっすぐに本塁を見据えていた。肺に残った緊張を鋭く吐き出して、真新しい緊迫感をゆっくりと肺に吸い込む。
おおきく振りかぶってその、初球。
「んんッ!!」
太く強い唸り声をあげて放たれた白球は浮き上がるような軌道で真ん中高めのコースを撃ち抜いた。
「ストライーク! ワン!!」
その1球、たった1球を見ただけで確信した。
今日の陽葵先輩はこれまでとはモノが違う、と。
「ストライーク! バッターアウッ!!」
そうだ。春の大会までの陽葵先輩はあくまでもチームにとってより良い形でアウトを取っていた。場面によっては打たせて取るピッチングをしていたし、不利な状況ではフォアボールで歩かせることも厭わなかった。
けど、今日の陽葵先輩は違う。
今日の陽葵先輩は、他の誰も責任を負わなくて済むように本気で全打者三振を狙うつもりなんだ。最も野手負担の少ない、容易なアウトのみで試合を完結させることを目論んでいるのだ。
たった一人、先頭打者への投球一つでその意図がありありと汲み取れた。
「スイング! バッターアウト!」
その気迫に違わず、先輩は先頭打者から2人に対して、1球もバットに触れることさえ許さない最高の立ち上がりを見せた。それでも1打席の結果満足することなく、すぐにまた次なる打者へ怒りにも似た煮え滾る闘志を放っていた。
ここまで感情的なピッチングをする陽葵先輩はこれまで見たことがなかった。
「なんや、こわいなぁ……」
その威圧感を目の当たりにして、左打席に入った3番打者がぽそりとそうこぼした。
「ストライク! ワン!!」
初球、スライダー見逃し。
アウトコースのボールゾーンから曲がってくる切れ味鋭い1球を、瑞さんは反応もなく見逃した。狙いを外したのだろうか、スイングをする素振りもなくじっと球の軌道を目で追っていた。
続く2球目。身体に近いインハイに飛んだストレートに対して、狙い球だったのか反応を見せたがコースが合わず中途半端なハーフスイングになった。
「スイング!」
試合前から最大限警戒していた打者を、ただの2球でいとも簡単に追い込んでしまった。
普通ならこの場面このカウントはボールゾーンへ逃げる球を挟みたかったが、何度そのサインを送っても陽葵先輩は一向に頷こうとしなかった。
望みは、3球勝負。ここで相手の上位打線を完膚なきまでに叩き潰して、攻撃に入る前にこの試合の主導権を握るつもりなんだ。
「────んんッ!!」
大きな唸り声をあげて投じられた1球はコースの隅へ、外角低めいっぱいのコーナーを寸分の狂いもなく貫いた。
「ストラッック! アウッ!!」
球審の派手なコールに応援席の歓声が一層沸き立った。
どんな投手でも少なからず緊張するであろう中学最後の大会初回のマウンドを、陽葵先輩は何の苦もなく三者連続三振に片付けてしまった。それも、一度も打者にコンタクトを許すことなく。
声援を浴びながら堂々とマウンドを降りる姿はさながらこのゲームの支配者のようだった。
「こら瑞! アンタなにあっさり三振しよるん!」
一方の3塁側のベンチ前では、これからマウンドに登ろうとしていた派手髪の少女が妹相手にきーきーと騒ぎ立てていた。
「まったくバットに当たる想像ができんかった……あんなピッチャー、生まれて初めてやわ」
「なんや、弱気になって。あんたはいつもアタシの球見とるやんか」
「あんたの球くらいならいつでも打てるわ」
「なんやとォ!?」
傍から見ているとケンカしているようにしか見えなかったが、2人にとってはそれが日常のことのようで。次の瞬間にはもうお互い何事もなかったかのようにそれぞれのポジションへ向かっていた。
「よっしゃ……ほなこっちも行こか!」
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