第17話 最後の夏
「おまたせー葵ぃ」
あの日から、陽葵先輩からの提案もあって2人で一緒に朝練をするようになった。
「おはようございます。陽葵先輩」
「うん。おはよぉ」
「……って、またリボンずれてるじゃないですか。髪もちょこちょこハネてますし」
「んー? ふふ、いつもありがとね〜。葵」
自分から言い出したくせに、ほとんど毎日私が陽葵先輩を家まで迎えに行っていたけれど。というのもどうも陽葵先輩は朝が弱いようで、いつもは細部まで美意識の行き届いた着こなしをしている人が朝早くなると途端に飼い主に服を着せられた犬のような格好で出てくるのだ。
「昔からそんなに朝弱かったんですか?」
「うーん、どうだったかなぁ? あんまり覚えてないや」
「ちょっと調べてみたんですけど、寝る1時間くらい前にお風呂に浸かると寝つきが良くなるらしいですよ?」
「えー、わざわざ調べてくれたんだぁ。ありがとね〜」
「いやっ! たまたまそんな記事を見かけただけで」
心臓から爪の先まで隙のない完璧超人だと思ってたけど、たったそれだけのことで少なからず身近な存在に思えた。
もっとも、朝練が終わる頃にはすっかり目も覚めていつもの調子に仕上がっているのだから抜け目ないというか……
「それにしても、今日はどうしたんですか? 朝からブルペンで投げたいって」
それは昨夜、突然陽葵先輩から送られてきた連絡だった。
「うーん? やぁ、そろそろ大会も近いし、エンジン吹かしてかないとな〜って」
「気持ちは分かりますけど、放課後の練習もあるし、張り切り過ぎてまた肘に痛みが出たりしたら元も子もないじゃないですか」
「まー、大丈夫だよ。わたし、最近何だか調子いいからさぁ」
「またそんなこと言って……あんまりムチャすると凪紗先輩に怒られますよ?」
何気なしに私がその名前を口にした途端、陽葵先輩の笑顔がかすかにしぼんだように見えた。
「陽葵先輩……?」
少しだけ足を止めて、陽葵先輩は優しく朝焼け色の空を仰いだ。
「ナギサちゃん、家が駅近くの整形外科でさ、パパとママがそこの院長と副院長なんだって。わたしが肘痛めた時も診てもらったけど、2人とも優しくて良い先生なんだ」
その時初めて、私は凪紗先輩が誰よりも陽葵先輩の怪我の事情を理解し、寄り添っている理由を知った。
「ナギサちゃんも2人のことすごく尊敬してて、将来はそこを継ぐのが目標なんだって」
それを聞いて、誰に対しても誠実に向き合える彼女の明るい未来が容易に想像できた。
「────だから野球は、夏の大会で最後なんだって」
ふと覗いた陽葵先輩の瞳に映る景色が、涼しげに揺れていた。
「ナギサちゃんは誰よりもわたしのことをわかってくれて、ケガしてる時もチームにいやすくしてくれた人だから。だから最後は、悔いなく笑っててほしいんだ」
いつだって誰かを想うその瞳は、水底から見上げる夏の水面のように純然と輝いていた。
「わたしはナギサちゃんと一緒のこのチームで、全国大会に行きたい。最後の最後、最高の結果で送り出したい。そのために今、わたしに出来ること全てを尽くしたい」
その輝きに照らされて、思わず小さなため息が漏れた。
「……そういうつもりならもっと早く言ってくださいよ。私も、少しでも先輩の力になれるよう尽力しますから」
その目をした彼女を邪魔する理由が、私にはない。
「うん。ありがとう、葵」
私も、例に漏れずその瞳の輝きに救われた1人なのだから。
その日から、毎朝2人でピッチング練習をするようになった。
そのおかげで、彼女の得意とするカーブやスプリットなどの変化の大きい球種も安定して捕球できるようになった。2人で相談して配球のパターンも増やしたし、クイックやピックオフなどの連携プレーも練習した。
陽葵先輩につられるようにして1人、また1人と朝練に参加する人数が増えていき、気づけばほとんどの部員が朝のグランドに姿を見せるようになっていた。
誰一人として強制された訳じゃないのに、それぞれがそれぞれに必要なものを考え、練習して、その一端に私もいて。その様子を見ていた先生やクラスの子から激励の言葉を貰うこともあった。
この場所に初めて立った時には何もなかった私に、少しずつ、できることが増えていく。
それが例え小さなことでも一選手として、バッテリーとして、このチームの一員として力を付けていく毎日は時の流れを忘れてしまうほどに充実していた。
そして、あっという間にその日がやってきた。
「……たッ!!」
凪紗先輩たち3年生にとって最後となる夏の大会の初戦。陽葵先輩はその日、試合前のブルペンからいつにないほどの強度で投球していた。
「スゴい球……」
速球はこれまで受けてきたどの球よりも強く走り、変化球は普段の感覚では追えないほど鋭く変化していた。
「どお〜? いい感じ?」
「はい……スゴいです」
恐いほどに威力を増す白球と、それに見合わない呑気な笑顔を見て思い出した。
そうだ。そうだった。
この人はいつだってそういう人だった。
「おっけー。ありがと〜葵。それじゃ、そろそろベンチ戻ろ」
「あの、陽葵先輩……」
私は、いつまで経っても自分に自信なんて持てないし、どんな言葉を貰っても不安は尽きない。
「んー? どうしたの?」
けれど、陽葵先輩が、全てを託せる“エース”がマウンドの上にいてくれることが、点在する不安を隈なく塗り潰してくれた。
「……勝ちましょうね。今日も、明日も、その先もずっと」
縋るように笑う私をその瞳に映して、陽葵先輩は当たり前のように私が1番欲していた言葉をくれた。
「────もちろん。任せてよ」
そう力強く言いきった彼女はこの日、その自信に違わない圧巻の投球を見せた。
最後まで1人でマウンドを守りきり、許したヒットは2本。奪三振は9つを数えた。相手に3塁も踏ませない快投で、チームを勝利に導いてみせた。
初戦突破を決めたマウンドの上で、私たちはいつものようにハイタッチを交わした。
清々しい空色の充実感と、ちょびっとだけの安堵を胸に。
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