第13話 津代葵と一之瀬陽葵
「あ、いた! 栞李ちゃん」
葵が去った後もしばらくベランダのベンチで呆然としていた栞李の元へ、ほっと緩んだ表情を浮かべた菜月が歩み寄ってきた。
「菜月センパイ……」
「どうしたの? こんなところで。もうそろそろ消灯の時間だけど」
その柔らかい瞳に見つめられて、ようやく栞李の身体からも緊張の糸がほどけていった。
「もうみんな部屋戻ってるし、明日も朝早いから私たちもそろそろ……」
「────葵先輩ってどんな人ですか?」
唐突に投げかけられたその問いに、菜月はすぐには言葉を返せなかった。
「あ、葵ちゃん? どうして?」
「いえ、私……あの人のことあんまりよくわかってなかったみたいで。なにがウソで、なにが本音なのか、わからなくて」
栞李のくたびれた顔を見かねた菜月は、小さく息を吐いてからそっとその隣に腰を下ろした。
「んー。葵ちゃん、あんまり自分のこと話したがらないから私も深くは知らないんだけどね」
そう前置いた上で、菜月は落ち着いた口調で語り始めた。
「葵ちゃんは一年生で入ってきた時から誰よりも野球について詳しくて、誰よりもチームの勝ちを最優先に考えてたと思う。でも、勝つためなら先輩後輩関係なく思ったことは何でも口にしちゃうからかな、その時の三年生にはあんまりよく思われてなかったみたいで。試合中にベンチ内で揉めちゃうこともあって……」
以前のことを語る菜月の顔は、あまり楽しそうではなかった。
「けど、悪い子じゃないんだよ? 初心者の子の質問にも丁寧に説明してくれるし、チームのために積極的に手を挙げてくれる。今回の新入生の案内役も葵ちゃんのほうからやるって名乗り出てくれたんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。やっぱり葵ちゃんは次の夏にかける気持ちが誰よりも強いんじゃないかな。ヒナタちゃんとバッテリー組めるのも、これで最後かもしれないから」
不意に、菜月の言葉の中に耳馴染みのない名前が割り込んできた。
「えっと……その“ヒナタさん”って、誰でしたっけ?」
「え? あ、そっか。栞李ちゃんたちはまだ会ったことなかったっけ。ちょうど入れ替わりだったのか」
菜月は少し照れくさそうに笑いながら、どこか懐かしむような眼差しで月明かり差す澄んだ星空を見上げた。
「一之瀬陽葵ちゃんっていってね、今はケガしてて野球部にはいないけど、私や沙月と同じ3年生なんだ」
どうりで聞き覚えがないはずだと、栞李は心の内でこっそり胸を撫で下ろしていた。
「そのヒナタ先輩って、どんな人なんですか?」
「んー、明るくて良い子だよ。運動神経がとにかく良くてね〜、足は速いしバレーとかバスケとか他の球技もだいたい上手かったなぁ。あとは背が高くて、勉強もできて、顔も良くて……あ、そう! 学年問わずすっごい友達多いの! 去年の大会なんて陽葵ちゃんの友達がたくさん応援来てくれて、スタンドいっぱいになってたもん」
「それって、“友達”というより“ファン”なんじゃ……」
「んー、でも陽葵ちゃんはみんな“友達”だって言ってたよ」
菜月の口から語られる人物像はどれも栞李の想像とはかけ離れていて、呑み込むのに多少の時間を要した。
「葵ちゃんとは中学の時から一緒で、野球部の中でも一番仲良しだったかな」
津代葵が誰かと仲良くしているところなんて、今の栞李には想像もできなかった。いつだって自分の表情を取り繕っていて、ウソかホンネかもわからないことばかり口にしていた彼女が。
けど、だからこそ、それが一連の行動の動機なのかもしれないと、そう思えた。
「あとは……そうだ!」
そう言って、最後の最後に捕捉のように付け足された菜月の言葉に、栞李は大きく心を揺り動かされるのだった。
「────陽葵ちゃんは1年生の時からこないだの春までずっと、このチームの“エース”だった子だよ」
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人気のない宿舎の廊下を抜け正面玄関から外へ出ると、やわらかな夜風が少女の後髪を撫でた。
辺りに人影はなく、青白い人工の灯りと木の葉を揺らす風の音だけがその場を支配していた。
中学生と見間違うほど幼い顔立ちをしたその少女は、すぐ傍らのベンチに腰を掛け、手にしていたスマーフォンを開いた。
慣れた手つきで番号を選択すると、無意識に前髪をいじりながら画面を耳に当てる。
「……もしもーし、アオイ? どうしたの? こんな夜に」
電話の向こうから聞こえてきたのは、昼下がりの陽光のような何とも呑気で穏やかな声。
その声はずっとそばにいた『いつもの声』のはずなのに、彼女、津代葵にとっては随分と久しぶりな気がして、自分でも気づかないうちに安堵で頬が緩んでいた。
「────お久しぶりです。陽葵先輩」
何度でも。
その声を耳にする度に思い出す。
少女の前髪がまだ目にかかるほどの長さだった頃、彼女と初めて出会った、桜舞う春の日のことを。
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────その日は私、津代葵の中学入学の日だった。
中学に入学する前の私は、今みたいに誰彼構わずモノ言えるような人間じゃなかった。
むしろ誰よりも人目を気にして、幼らしい見た目を気にして、下を向いて前髪ばかりいじっているような、そんな人間だった。
「……っ!」
その日も、入学式を控えた私がやっとの思いで整えた前髪を、いたずらな突風が吹き飛ばしていった。
「あ、髪が……」
咄嗟に前髪を押さえる私の元へ、その声はまっすぐ目の前から飛んできたのだった。
「───お~、かわいい顔してるねぇ」
風上からふわりと舞い込んできたその声は驚くほど緊張感を感じさせない長閑な音色をしていた。
まっすぐこちらを見つめていた彼女は私より一回り背が高く、艶やかな瞳から伸びる長い睫毛やシャープな顔立ちは、その幼い口調からは想像もできないほど大人びて見えた。それに付随する長い手足と引き締まったボディライン。
総じて、彼女の表向きは大都会で見上げる絢爛豪華なクリスマスツリーとか、手のひらサイズのステンドグラスみたいに、それはもう憎たらしいほどキラッキラに仕立てられていた。
「えっ……と、あの……」
前触れもなく話しかけられて私が戸惑っている間に、彼女は他人のパーソナルスペースなど気にもかけず、お互いの鼻先が触れそうな距離にまで色気薫る麗顔を寄せてきた。
「キミ、会ったことない子だね~。新入生の子かな?」
「ちッ!? 近っ……!」
私がその距離感にたじろいでいる間に、彼女は悪気のない笑顔で私の前髪をめくった。
「……あっ! ちょッ! やめてくださいっ」
私が反射的に拒否反応を見せると、彼女は小さく残念そうな表情を見せた。
「えー、どうして? 可愛いのに」
「だ、だから嫌なんです。前髪がないと私、子供っぽく見えるから」
私がそれだけはっきり拒絶しても、彼女はまだ不満そうに口を尖らせていた。
「というか、アナタは?」
「わたし? わたしはこの学校の二年生だよ~。キミのひとつセンパイだねぇ」
「いえ、そうじゃなくて……」
どこか噛み合わない私たちの会話を打ち切るように、誰かが彼女の肩を引いた。
「こら、朝っぱらからあんまり新入生に絡むなよ。ヒナ」
「あー、ナギサちゃん」
『ナギサ』と呼ばれたその人はやれやれといった表情で彼女をたしなめた。
その“ナギサ”さんは芯の通った低めの声音や短く整えられた黒髪からどこか少年のように思えた。その堅い表情やキチッとした制服の着こなし、遊びのないスクールバッグから性格の一端が伺い知れるようだった。
「これから入学式で緊張してるだろうし、あんまり絡んだらかわいそうだろ?」
「えー、わたしはただ楽しくお話してただけだよぉ?」
「アンタは身長も高いし、他人との距離感近いから初対面の子からしたら十分怖いよ」
互いに気兼ねのない会話を聞くに、2人はかなり親しい間柄のようだ。
「入学式前にごめんな。ちょっと変なヤツだけど悪気はないから許してやってね」
「あはは、じゃあまたどこかでね~。新入生ちゃん」
それだけを言い置くと、彼女は引きずられるようにして通学路を去っていった。
「……何だったんだろう、あの人」
入学式前のたった数分。
名前も知らない、学年も違う彼女との出会いは、これから新生活を迎える私にとっては何週間も経てば記憶の底に埋もれてしまうような、そんな取るに足らない出来事になるはずだった。
「────あ~!やっぱり朝の子だぁ。奇遇だねぇ、また会えたね~」
その午後、グランドで再び彼女と顔を合わせるまでは。
「もしかして、アナタも野球部……なんですか?」
「そうだよぉ、一之瀬陽葵。これからよろしくね~、かわい子ちゃん!」
「津代です……津代葵」
新生活に不安ばかりを抱えていた私にとって、野を舞う蝶のような気まぐれなその笑顔は何だか少し恐ろしく見えた。
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