万年バレンタインの真実
突然だが、皆は「バレンタインデー」という行事を知っているだろうか。
日本中の女子という女子が、某お菓子メーカーの戦略やらチョコレートなディスコのメロディーにまんまと乗せられ、愛を語らうだの友情を育むだのに張り切っちゃう……そう、そんなイベント。
そしてさらに突然なのだが、俺はそんな二月十四日のことなどこれっぽっちも特別視していないのだ。別に、俺自身がモテないことへのコンプレックスでもなければ、今日から数えて丁度明日がその " Xデイ " だからなんて白々しい理由でもない。
なら、一体何故か。
今日は二月の十三日。重ねて言うが、今日はそのバレンタインの前日だ。
───が。
「お、やっぱ今日も入ってんのな、『チョコレート』」
ロッカーを開ける俺の背中から、いつもと同じ声で、いつもと同じ台詞が聞こえる。
「……一応聞くけどさ、今日ってホントに二月の十四日とかじゃないよな」
「あぁ、バッチリ二月の十三日。ついでに言うと昨日も一昨日も、バレンタインデーじゃなかったことは確かだぜ」
「だよなぁ」と、俺はロッカーに入れられていた " チョコレート " を手に取り、慣れた手付きで鞄の中へとしまい込む。
……そう、俺は毎年間違えられるのだ。バレンタインのチョコレートを入れる日にちを。
もっと言うと、俺は " 毎日 " 間違えられている。雨の日も風の日も。汗滴る夏の日も、凍える冬の日も。
台風による休校の連絡が俺にだけ周って来なくて、間違えて登校した日のロッカーにすらも、そのチョコレートはさも当然であるかのように、上履きの上に居座っていた。普通にドン引いた。
つまり何が言いたいか。俺は、俺だけは。
毎日がバレンタインデーなのだ。
だから肝心の二月十四日がやって来ようと、特別女子の目を気にしたり、スーパーやコンビニのバレンタインフェアに特別目を向けることもない。もはや「チョコレートが下駄箱に入れられていること」が日常なのだから、イベントもクソもあったものではない。
「まったく、羨ましい話だよな。毎日ロッカーにチョコが入ってるなんて」
「馬鹿言えよ。誰からかもわからないチョコが毎日、ロッカーの中に放られてるんだぞ？ いっそ何かのイジメだろ」
「でもそのチョコ、食べるんだろ」
「食べるに決まってんだろもったいねぇ」
食べ物を粗末にできるほど、俺の育ちは悪くない。確かに恐いといえば恐いのだが、入れられているチョコレートが全て既製品であることに甘え、貰ったチョコレートは残らず胃に収めてきた。そのせいでここ数年、おでこのニキビが治らないという些細な問題にさえ目をつむれば非常に美味しい思いをさせてもらっていると、俺はもっぱらのポジティブ思考で事に臨んでいる。
「まったく、俺の下駄箱は家の冷蔵庫か何かかってな」
「ちがいねぇ」
俺は友人と笑いながら、ロッカールームを後にした。
「おはよっす！ 今日も相変わらずチョコ臭いなお前」
「そういうお前は汗臭いぞ、千夜。今日も朝練か？」
「女のコに『汗臭い』はないでしょ。デリカシーなし男が」
教室に入った途端、俺を出迎えるのは幼馴染みで腐れ縁の「森永 千夜」。部活だかなんだかで、毎朝必ず俺より先に教室にいる、言わば朝の象徴みたいな女だ。こいつの顔をこの教室で見ないことには、俺の一日は始まらないと言っても過言ではない。
腰まで伸びた長い髪は、安っぽい天使の羽の形をしたヘアアクセで束ねられており、チラッと見えるうなじからは汗が光る。クラスの男どもはよく「色っぽい」と騒ぎ立てるが、幼馴染みフィルターのせいなのかよくわからない。個人的には汗臭いし、風邪引かないか心配になるので早急に拭き取ってほしいくらいだ。
俺はいつもの習慣で、千夜にタオルを差し出す。が、鞄の中にある " 例のチョコレート " がうまい具合に引っかかり、音を立てて落ちてしまった。
千夜は落ちたチョコレートのパッケージを見るや否や、ブッと吹き出し俺の肩を思い切り叩いた。
「お前、明日がバレンタインデーだからってアピールが露骨すぎるっての！ そこまでして欲しいのかね、女子からのチョコレート」
「はぁ？ このチョコは別にそんなんじゃねーよ！ ってか、誰がお前みたいなガサツ女のチョコ欲しがるかっての」
「あら、何も私は『私からのチョコレート』なんて一言も言ってないわよ。やっぱり期待してんじゃない」
「───ッ」
売り言葉に買い言葉。
プークスクスとわざとらしく嘲笑する千夜に、俺は柄にもなく声を荒らげて言ってしまった。
「こちとら毎日食わされてんだよ！ チョコチョコチョコチョコって、『万年バレンタイン』なんてあだ名付けられる俺の身にもなれってんだッ」
「何よ……、そんな怒ることないじゃない。そんなこと言って、あんただってそのチョコの送り主の気持ち考えなさいよ！」
「うるせー！！ どこの誰のイタズラか知らねぇけどよ、ハッキリ言って気持ち悪りぃわ」
興奮気味に吐き捨てる。
千夜の方も相当怒ってるらしく、顔を真っ赤にしながらわなわなと肩を震わせていた。
「阿呆ッ」
バチッと、右の頬に強い衝撃が走る。耳がキーンと悲鳴をあげ、俺はたまらず蹲った。
「痛ってぇな」と片膝をついたまま見上げると、そこには拳を振り下ろした状態で硬直する千夜がいた。
千夜は、およそ女子がすべきでない程の恐ろしい形相で、俺を睨んでいる。そして俺は、その顔から目を離すことができないでいた。
千夜が、泣いていたからだ。
さっきまで中学生の活発さを凝縮したように騒がしかった教室が、水を打ったように静まりかえっている。
まるで永遠の中に閉じ込められてしまったのではないかと錯覚する静けさの中、数秒後千夜は走って教室を出て行った。
ガコン！
と、千夜の胴が机にぶつかる反響音を残し、教室は徐々にいつもの賑やかさを取り戻していった。
時は流れてその翌日。バレンタインデー当日だ。
俺はいつものように複数人の友達と登校を共にし、いつものように中学校の正門をくぐり、いつものようにロッカールームを目指した。
「今年は貰えるといいな、チョコレート」
「うるせ。今日くらいは胃を休ませてほしいぜ」
なんて言い合いながら、俺は自分のロッカーを開けた。
ロッカーにチョコレートは無かった。
「……やっぱ、 " 今年も " なんだな」
「そうだな」
俺は何処か寂しそうなロッカーに別れを告げ、上履きを装着して教室に向かう。
───これは、いつもと違う、「いつもの流れ」だ。
どういうわけかいつもロッカーに入れられているチョコレート。しかしその「いつも」とは、年に一日、「二月十四日」を除く「いつも」なのだ。
したがって、「万年バレンタイン」なんて呼ばれるこの俺も、肝心の、真の意味での「バレンタインチョコ」は貰ったことがない。
悪質な嫌がらせか、はたまたほぼ毎日チョコをくれるという良質な嫌がらせか。
「バレンタインって何だっけ」なんて哲学じみた自問自答を繰り返しながら、俺は教室のドアを開けた。
「……？」
そこで、俺はまた「ある違和感」を感じる。
いないのだ。あの、一日の始まりを告げる朝の象徴たる「森永 千夜」が、どこにも見当たらないのである。
今日は休みなのか、なんて軽く考えようとも試みたが、どうにもうまくいきそうにない。あの、元気と健康体だけが取り柄の千夜が体調を崩したとは到底思えない。
朝練が長引いているという線も考えたが、そもそも俺は千夜の所属する部活を知らない。朝は早くに登校し、誰よりも早く帰宅する女だ。もしかしたら外部のスポーツチームに入っているのかもしれないし、新聞配達のバイトでもやっているのかもしれない。
考えれば考えるほど、本筋から離れた余計な可能性まで模索してしまっている自分に、俺は動揺していた。
別にどうだっていいだろ。まだ休みだと決まったわけじゃないし、だとしても俺が千夜の遅刻に動揺する道理はない。そう、自分に言い聞かせながら、俺は平静を装い静かに着席した。
「おい」
突然背中から声をかけられた。もしかして千夜か！？ と期待するも、そこにいたのは友人の一人。ただの男だった。
「なんだ、お前かよ。……俺になんか用？ 宿題なら俺もやってねーべ」
「馬鹿、ちげーよ。───これを、お前に」
そう言って、友人は俺に小さく折られた紙切れを一枚手渡してきた。俺はそれを受け取ると、とりあえず広げてみる。
どんな秘密の暗号かと思ったが、結論から言うとそれはただのレシートだった。
「ゴミはゴミ箱に。自分で捨てやがれ」
「そうじゃねーよ。ほら、そのレシートに書いてある商品名、よく読めや」
「商品名……？」
俺はもう一度、今度はじっくりそのレシートを睨みつけた。
2023年2月13日（月）
【領収書】
チョコレート菓子 180
「百八十円のチョコレート菓子……しかも日付が二月十三日───って、これ昨日俺のロッカーに入ってた『ボッキー』じゃねーか！」
俺の言葉に、友人は静かに頷く。
「これ、どこで見つけたと思う？」
「……？ 何だよ、一体どこで拾ったってんだよおい」
「お前、鈍すぎな。このレシート、昨日『森永』がポケットから落としたんだよ」
「なんだって」
俺は思わず、椅子にくっつけていた尻を浮かす。
聞き間違い……なんかじゃないよな。俺はそのレシートと友人の呆れたような顔とを交互に見た後、もう一度改めて尋ねる。
「これ、ほんとに千夜のポッケから落ちたんだな！？」
「昨日あいつ、お前ぶん殴って教室飛び出したとき扉の近くの机に身体ぶつけてただろ。あのときだよ」
そう言われて、俺はあの「ガコン！」という反響音を思い出した。
じゃあ、まさかほんとに……。
「あのなぁ、別にこのレシートが無くたって普通気付かねぇか？ 森永千夜が、お前のこと少なからず想ってるって」
「そんなの、言ってくれないとわかんねぇよ」
「言えねぇから、毎日『チョコレート』の差し入れなんてしてたんじゃねーのかよ」
「だからわかんねぇっつってんだろッ」
押し潰す勢いで、俺は机の木目を思い切り叩いた。
乾いた炸裂音が、昨日と同じように賑やかな教室を静寂の間と化させる。
「───それを、俺に言ってどーすんだ」
切れるような眼差し。
普段一緒にバカやってるこいつが、こんな顔するとこなんて見たことなかった。
無言の圧に、俺の右頬が疼き始める。
「俺、早退するわ」
「せんせーには、何て言っときゃいい？」
未だ冷たい友人の声音に、俺は数秒の間返事ができなかった。
でも、ここで止める訳にはいかない。何だか無性に、そんな気がして仕方ないのだ。
「『下駄箱に入ってたチョコに当たった』……って、言っといてくれ」
俺は無理矢理ニヤけ面貼り付けて、友人の方に向き直る。
そこにはいつもと変わらない間抜けづらの、馬鹿仲間がいた。
「なら仕方ねぇな。漢みせて、気張ってこい！」
「ありがとよ」
そう言い残して、俺は走った。
廊下でたむろする男女の群れを裂き、チョコ片手にスキップする野郎を押し退けて、ロッカールームで乱暴に靴を履き替えると、俺は朝来た道を猛スピードで逆走した。
途中生徒指導のゴリラに名前を呼ばれた気もしたけど、聞こえないことにして風となった。
───待ってろよ、森永千夜。俺はお前の顔見ないと一日が始まらないし、ロッカーのチョコを食わないと胃の調子も出ないんだっての！
額に汗を滲ませながら、とにかく走る。
目的地は、もう目と鼻の先である。
「……何しに来たのよ。ってかあんた学校は？ もう一時間目始まってんじゃない」
チャイムを押して出てきたのは、まさかの千夜本人だった。その目は赤く腫れており、髪はボサボサ。これで「ただの体調不良だ」と言われてしまえば、簡単に信じてしまえそうだから困る。本当にただの風邪で休まれては、困るのだ。
とりあえず何をどう言っていいのか分からず、俺は意味もなく両親の在り処について尋ねた。「共働きで二人とも出社済み」と手短極まりない返しをされた。
「で、用が無いならさっさと学校行きなさいよ。私今体調不良───」
「落とし物ッ、届けに来た」
先手を打たれる前に、俺は千夜の言葉をゴリ押して遮る。
「……落とし物？」と訝しげな表情で俺の顔を見る千夜。俺は急いで、例の紙切れを千夜に投げる。
「何、これ」
つい数分前の俺と同じように、千夜は雑にその紙切れを指で広げた。
「…………！？！？！？」
その瞬間、人の顔色をうかがうことに難のある俺ですらはっきりと視認できるレベルで、千夜の顔は真っ青になった。
レシートを握る手は小刻みに震え、顔は脂汗まみれ。瞬時にそのレシートをグシャグシャに丸め握りこぶしの中にしまい込むが、すでに何もかもがバレていることを悟ったのだろう。俯いたまま、動かなくなってしまった。
「随分とまぁ、病人らしい顔になったな」
「……あ、あんた……これどこで拾ったのよ」
「昨日教室飛び出してっただろ。そんときだってよ」
「そ、そう……なの」
「まぁな。だからあれだ、全部知っちゃったんだよ」
多分、俺のその言葉がトリガーになったんだと思う。
俯いた千夜の瞳から、大粒の涙が一粒、落ちた。
「私よ。毎日あんたのロッカーにチョコレート入れてたの」
消え入りそうな声で、千夜は言った。
別段衝撃とか、罪悪感だとか、そんな感情は湧いてこない。俺はただ、安心したのだ。その、一言が聞けて。
「あのさ……」
言いかけて、俺は馬鹿仲間の言葉を思い出す。
『漢みせて、気張ってこい』
たしかに、そうだな。ここから先を口にしちゃ、俺は多分怒られる。
───すぅ、と。
一息、深く息を吸い込み、吐き出す。
よし、言うぞ。
俺は、実は……
「千夜のことが、好きだ」
また時が、止まってしまったかのように思えた。身体中の毛が逆立ち、硬直する。
千夜の方も、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔で、固まってしまった。
近くを走る車のエンジン音。
飛ぶ鳥のさえずり。
そして俺と、千夜の心臓が脈打つ音。
そのどれもが、いつもより一際大きく、鼓膜を揺らした。
「…………私みたいな汗臭い、ガサツ女のチョコレートなんて、いらないじゃ……ないの？」
千夜のその一言が、世界を再び動かした。俺は自分の意識が戻るのを肌で感じ、すぐさま「それは違う」と否定した。
そんなわけ、あるもんか。
幼馴染みとして、今まで距離感がわからなかった。
俺と千夜の間にある距離のとり方も、縮め方も、馬鹿で鈍くて要領が悪い俺には難しかった。だから、気付かないふりをしてたんだ。
でも、今日。千夜のいない朝、千夜のいない教室で、何となくわかった。気付かせてくれたのは友人だったけど、この気持ちを嘘にしないと決めたのは、この俺だ。
だから俺は言う。
「俺は、お前からのバレンタインチョコが食いたい！ いつものやつも美味かったけど、今日俺のために用意されたチョコが食いたいッ！！」
言った後、顔が溶けてしまいそうなくらい熱くなる。
千夜は泣きながら、……いや、泣きじゃぐりながら、コクコクと頷くだけ。
正直、ここから先がわからない。俺の方から何か言うべきなのか。それとも、千夜の言葉を待つべきなのか……？ ってか、これっていわゆる「告白」ってやつなんじゃないのか？？ バレンタインデーに、男の俺から女の千夜に、こんなこと言ってよかったのか？？？
頭の中であらゆる自問がぐるぐると回り、気がおかしくなりそうだ。とりあえず、まずはチョコは貰えるのかを確認しないと───
「私、本当はずっと渡したかった」
突然、千夜が口を開く。
あんなにも暴れ回っていた思考は驚くほどに静けさを取り戻し、俺はぎこちない動きで千夜の方に向き直る。
千夜は手で涙を拭いながら、ぽつぽつと話し始めた。
「チョコレート。本当は一昨年のバレンタインに渡したかったの」
でも、できなかった。
そう、自分を責めるように千夜は言葉を綴る。
「私、今年こそは絶対にチョコ渡すんだって……ロッカーに毎日チョコ入れてたのも、予行練習のつもりだった。本番で尻込みしないための、練習だったの」
「……」
「そうだったのか」とも、「なるほどな」とも言えない。俺は何も言うことができずに、千夜を見ることしかできなかった。
千夜は何かのたかが外れたように、万年バレンタインの真実を吐露し始めた。
「私、馬鹿だった。予行練習を重ねるうちに、バレンタインじゃなくなって、こうしてチョコを送り続けていれば、いつかきっと想いに気付いてくれるんじゃないかって、夢見てた」
「……ごめん、俺鈍いみたいでさ。馬鹿だし、気付けなかった」
「あんたの鈍さ、わかってたつもりだったけど、多分見ないふりしてた。理不尽だよね？ 一番人の気持ち考えてなかったの、私だった。……今まで、ごめんなさい」
千夜は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、俺に謝ってきた。こんな、俺に。
「謝んなよ。俺も、ビビって自分の気持ちに嘘ついてたんだ。───だから、謝んなよ」
俺は引っ下げてきた鞄の中から、いつものタオルを取り出し、千夜に差し出す。
「ありがとう」と、はにかみながら受け取ってもらえた。
チーーーーーーーーーーーーーーーンッ！
うん、鼻水だった。
涙を拭いてもらうために渡したタオルが、鼻水に犯されていく。
「うわ、きったねぇ……」
「───はい？」
やば、声に出てました？ バッチリ出てました。タオルの淵から除く千夜の眼光が答えてくれた。女子がやっちゃいけない顔やめれ。
「汚いってあんた……ほんとにデリカシーないわね」
「いや、普通に考えて鼻はティッシュでかむよなァ！？」
「じゃあティッシュも寄越しなさいよ！」
「理不尽ッ！！」
バレンタインがどうとか、告白の返事がどうとか。そんなものは、一枚のタオルで吹き飛ばされてしまった。
さっきまでのしおらしい彼女は何処へ。眼の前には、いつもとなんら変わりのない腐れ縁の幼馴染みが、理不尽にも拳をポカポカと振りかざしてくる。
───そうだ。
俺は " こういう " 千夜のことを、好きになったんだ。
「やっぱ、俺千夜のこと好きだ」
「───ッ！？ い、いきなり何言ってんのよ……」
別にいきなりではないと思うが。
それよりも今は、千夜の答えが聞きたい。俺は千夜のくれるチョコレートが食べたくて、ここまで走って来たんだった。
それを思い出した俺は、千夜に尋ねる。
「チョコレート、あるんだろ？」
「無いわよ」
「は？」
「いや、だから無いってば。……あんた昨日言ったじゃない、『誰がお前みたいなガサツ女のチョコ欲しがるか』って。私それですっごい悩んで、徹夜して考えた結果作らなかったのよ」
「間に受けてんじゃねーよ！ チョコ貰って嬉しくない男とかいるわけねぇだろ！！」
「じゃあそれを言えやッ！ 自分の気持ちに嘘ついてんじゃないわよ」
仰るとおりだ。ぐうの音もでない。
「えっ……、じゃあ俺、バレンタインチョコ貰えない感じ……？」
「自業自得よ」
嘘だろッ……？
俺は頭の先から、血の気が引いていく感覚に目眩を覚えた。
チョコが貰えないということはつまり、自動的に告白の返事はノーセンキュー……ということになる話の流れからして。
呪った。俺は昨日の自分を呪いまくった。そして自分を呪う度、「玉砕」という二文字が頭に重くのしかかる。
「───でも、そうね。もしかしたらあげられないこともない……かも？」
「何ッ！？」
千夜をよそに絶望の淵を彷徨っていると、一筋の光が挿し込んできた。
俺は食い入るように光の方へ身体を向ける。
───と。
「これが、私の答えよ……」
唇に、柔らかくて温かい何かが触れる。
しっとりとしていて、それでいて熱い、チョコレートなんかよりももっと甘い、 " 何か " 。
それが千夜の唇であることに、俺は最初気付けなかった。しかし、そうであると気付いてしまった。
その一瞬は永遠のように。儚く、脆く、優しい。
数秒の後、二つの唇はそっと離れた。
「……チョコレート、また改めて渡すわね。今度はちゃんと、手作りで」
「お、おう……」
『また改めて』。とどのつまり、この戦いはまだ終わっていないということなのか。そもそもこれは戦いだったのか。だとしたら俺は一体何と戦っていたのか。
無理矢理思考を整理しようにも、うまくまとまらないし繋がらない。
あの温もりが、愛しすぎて。
「さ、着替えるからちょっと待っててよ。今からならまだ二時間目に間に合うわ」
「え、結局行くのかよ学校」
「なんだか体調、良くなっちゃったから。……だから、これからよろしくね」
「───あぁ、そうだな」
こうして、俺と千夜は動き出した。幼馴染みとしてじゃなくて、その先にある何かとして。
人はそれを、「恋仲」と呼ぶのだろう。
街を包むチョコレートの香りが、背中を押してくれている。
そんな、気がした。
本日2023年2月14日が、皆様にとって幸せなバレンタインデーでありますように……
