罪のない者だけが、石を投げよ
今までの全てが夢であったとか、あの意識が飛んだ瞬間に、実は私という存在が、消されていたんじゃないかとか、そういった淡い理想は儚くはじけ、気がつくと私の五感は、完全な状態を取り戻していました。
ひんやりとした空気、古びた本の匂い、静寂ゆえに響き渡る、子鳥のさえずり。その全てが、私を押し潰そうとしてくるようで。
嫌だ。何も受け入れたくない。
そんな思いから、意識が戻ってからもしばらく目を閉じ、逃避を続ける。
しかし、
「転生者の方、ですよね」
と、年季の入った声で話しかけられ、いよいよ逃避にふけっていられなくなった私は、ようやく覚悟を決め、
「は、はい。多分、そうです」
となんとか言葉を発しながら、目を開ける。
話しかけてきたのは還暦ほどに見える男で、灰色のチュックの上にそれっぽいローブを纏っていたため、それなりの身分の聖職者であるような印象を受けました。
周囲を盗み見ると、色とりどりのガラスに光が差し込み、その光の中央に、祭壇がありました。そしてその祭壇の前に配置された、途方もなく多い長椅子の一つに、私は座っているようでした。
美しい光景だなと、頭では理解しましたが、私の体の奥底がどういうわけか、深い深い拒否反応を示していました。
「ようこそ、神の御国に最も近い世界、地球へ、大罪人さま。私は召喚の儀を承りました、コーヘンと申すものです」
戸惑う私を気にせず話し始めた男の声色は、ちっぽけな温和の上に、精一杯の皮肉を塗りたくったようなもので、その隠す気の無さが気味悪く、身震いしました。
それに何故。
「な、何故、私が、大罪人であることを..?」
「我が全能の主、神からお告げをいただいたまでですよ」不気味な笑みを浮かべ、コーヘンはそう言いました。
「そうそう、神より、貴方へ御言葉をいただきました。ずっと、貴方を見ている、とのことです」
「っ..」
見ている。見て、いる。
それは確かにあの老人が、別れ際に放った言葉でした。あの老人はつまり、神。たしかにそう考えると、色々と腑に落ちる。
しかし、私の感情は何故か、脈絡のない怒りで満たされていました。
何故? なんだ、この怒りは。
そんな疑問を抱いた刹那、私は普段の私を取り戻し、私の感情はまた、あの老人、神に対する恐怖へと突き落とされました。
「どうやらとても動揺しているようですね。ですが、あいにく礼拝の時間が迫っているのです。早く、外に出てもらえますか?」
ゴミを見る目で見られた私は、ゴミらしく、そのまま裏口まで彼の視線に蹴飛ばされ、とうとう正門を見ることは叶いませんでした。
「それではさようなら、お元気で」
そう淡々と言い捨てられ、私は、この荘厳な建物を後にしました。
別れ際、彼の目にあの老人、神が映ったような気がして、彼に対する身震いは、強さを増す一方でした。
あの建物を後にしたはいいものの、次に何をすればいいのか、この世界に降り立って間もない私には、分からない。
とりあえず近くにいた人の後をつけ、路地を歩き、歩き、気づくと大通りについていました。あちこちからの騒ぎ声がぶつかり合い、生まれた巨大な騒音が、私の気を紛らわしてくれてる。
そこでは人々が、壮大な建物の正門に向かい吸い込まれているかのように、足を進めていました。私も吸い込まれるのに身を任せていましたが、突然水門が閉められたように、足が止まる。
あの男、コーヘンの顔が見えたのです。
逃げるように近くの木陰に隠れ、そのまましばらく、恐怖で動けないでいました。そうしてじっとしていると、これまで気にかけていなかった喧騒が、具体性を持って押し寄せてきました。
「許してください許してください許してください許して」
「きっと今日の献金で、救われる、救いをいただける..」
「誰か、誰でもいい、パンを一切れ、お恵みください」
「ルキウスの野郎、今日も教会に来ないつもりか? 全く、お怒りを買っても知らんぞ」
…
吐き気がしました。これだけの声がありながら、前向きなものが一つとしてないのです。
そしてこの阿鼻叫喚の中にもかかわらず、彼らは足を止めないのです。ただがむしゃらに、あの正門へ向かうのです。
これは私が間違っているのでしょうか。あの老人、神は、私を異世界に送ると、たしかにそう言いました。
つまり私が持っている感覚は前の世界のもので、今の世界では、これは地獄と形容される光景ではないのではないか、と。そう考えたのです。というか、そう考えないとこの状況を、説明できませんでした。しかしどうも、この説が正しいとは思えませんでした。
それからしばらくして、ようやく人々が、教会?という建物の中に入り切りました。そうしてコーヘンもいなくなり、元の静寂が戻ったのを確認し、ようやくほっと一息つく。
落ち着いてあの正門を眺めてみると、その荘厳さに少し心惹かれて、気づくと私の足は正門に向かっていました。
正門は灰色のレンガで埋め尽くされ、他の部分と比べ突き抜けて高い双塔の間には、薔薇を模したような窓があり、さらにその上には、大人一人ほどの大きさがある、巨大な十字架が立てられていました。
近くで見るとより厳かな雰囲気が増していき、それに圧倒されながらも、一つの違和感がありました。
先の地獄の様子が、まるで感じられないのです。
静かに門を少しだけ開け、中の様子を見ると、奥の方でコーヘンが何やら喋っているのが分かりました。そうしてその声が、ここまで届いてきたのです。つまりあの嗚咽に似たものを放っていた人々が、物音一つ立てずに彼の話を聞いていたのです。
気味が悪い。いくら世界が違うといっても、これが異常であることは、流石に分かりました。
そして目眩がし、扉にしがみついたちょうどその時。
「ところで皆さん、今日この街に、いや世界に、新しい住人がおいでになりました。恥ずかしがらず、前に出てきたらどうですか?」
突然、コーヘンがそう言い放ったのです。そして次の瞬間、急に正門が開かれ、それにしがみついていた私は、地に叩きつけられました。
「ほーら、奥にいらっしゃるあちらの方ですよ。皆さん、歓迎してあげてください!」
その声を皮切りに、礼拝堂に座る人々が皆、何かを手に持ち、それを投擲してくる。
「う、あ、やめ、ああぁっ!」
その大半は石やゴミで、強烈な痛みとともに、私の体が、急激に重くなっていくのを感ました。
情けなく上ずった声を恥じる余裕すらない。
血の匂いと腐臭の混じったものに嗅覚もひどく苛まれながら、急いで重い体を反転させ、逃亡を試みました。が、振り返るといつの間にか、目の前に広がる家々の扉が開かれており、その間からも、例の投擲を受ける。
「こ、こっちに寄るな大罪人」
「神よ、我らにご加護を、彼の者天罰を!」
などと叫ぶ彼らは、口角が少し上がり、その目の中に、あの神が映っているような気がして、体全身を駆け巡る痛覚など、気にもならないほどの恐怖で満たされました。
震えの止まらない手で、唯一所持している物である、あの神から受け取った分厚い本を取り出し、それで頭を守りながら、なんとかこの地獄から抜け出そうと足を進める。
走って、走って、...。
「っ!」
しかし恐怖と痛みでぎこちなさを極めた私の足は、足元に投げつけられた石に抗うすべを持たず、とうとう倒れ込んでしまいました。
転げ落ちる視界。頭の中を埋め尽くす、死の文字。けれどもその死すら、叶わぬ幻想でした。
どうやら彼らは、私をすぐ殺すつもりはないらしいのです。先程から全く、急所に投擲を食らわないのです。
自分から死のうにも、それはあの神との再開を意味し、それを自から選ぶ勇気はありませんでした。
それ故薄れゆく意識の中、この状況から逃れるという、果てしなく儚い可能性にすがり、私は這いつくばりながらも前進を続ける。
辛い。この仕打が。重い体が。いつの間にか嘲笑に変わった、人々の声が。そして、このような罰を受けるに値する行いを犯した、前の世界の自分が、たしかに存在していたという事実が。
そうしてとうとう前進する気力も尽きた、ちょうどその時の事でした。私の横を、鋭く爽やかな風が通り過ぎたような気がしたのです。
頭を上げると、木造で骨組みも丸見えである、馬小屋の側面が見えました。辺り全体が、甘く、またどこか苦い、没薬のような匂いで包まれているその小屋の脇には、巨大な黄金のラッパが。頂点には、天使の背についているような翼が、飾られていました。そのどちらも、何故か初めてみた気がしませんでした。
どうやらその翼から吹く鋭い風が、私を囲むようにしているらしく、その風の通る道に沿い、幾つもの羽が駆け抜けていく。
そうして、意識が朦朧としてきたからか、はたまた風が守ってくれたおかげか。私は背後の投擲と叫び声から切り離され、感覚全てが徐々に、無という幸せに、落ちていきました。
最近猫にとても懐かれて嬉しい。