どうでもいい事
「――待って!」
店を出ていくらも歩かぬうちに、背後から怒声にも似た声で引き留められる。
振り向くと、息を切らして女将が桃馬を追って来ていた。
「何か?」
「春瀬の両親にいくら積まれたかは知らないけど……春瀬の居場所は、あの子の両親には言わないで」
敵意を剥き出しにしていた先程と打って変わって、女将は必死な眼差しで懇願する。
「手紙を届けるだけ、なんて都合のいい事言ってたけど、本当の目的はあの子を探し出して、両親に報告する事なんでしょ? 春瀬の両親が払ったお金の二倍、いえ三倍払ったっていいから、あの子をこれ以上苦しめないで、放っておいてあげて」
「………」
桃馬は女将と向き直り、真意を探るような眼差しを向ける。
「あんたがあの子を探し出す過程で掴んだ情報も全部、両親には秘密にして。あの子はもう成人してるんだし、こっちに住民票とかもあるの。男とか女とかそれ以前に、もうこっちでちゃんとやってるんだから、生きてるって事が分かりさえすれば、後は関係ないでしょ?」
桃馬は微かに眉を顰める。
「失踪した息子を探す親って肩書に探偵として同情したのかもしれないけど、あの子の両親はあの子の心を深く傷付けた加害者よ。春瀬の気持ちを少しでも汲んでくれる気があるなら、春瀬の心をこれ以上掻き毟るような事しないで」
必死で詰め寄る女将に、桃馬は小さなため息と共に目を伏せた。
「言って。春瀬の両親は貴方にいくら払ったの? 私は貴方にいくら払えばいい?」
「……どうにも勘違いがあるようですが、俺は春生さんの親御さんに、彼の居場所を報告する気はありません。その義務まではないので」
「え……?」
桃馬の言葉が思い掛けないものだったようで、女将はぽかんと間の抜けた顔をする。
「先程から申し上げているように、俺の仕事は想いを届ける事です。届け先が何処に居るか分からない相手である以上、相手を探すうちにあらゆる情報を入手することは多々あります。
しかし、いくら俺が元探偵でも、届け屋の仕事をしていても、その知り得た情報を無闇矢鱈と人に言いふらしたりはしません。これは職種に関わりなく、個人情報保護の観点から言っても、当然の事です」
それは貴方もそうでしょう? と返すと、女将は僅かに罰が悪そうに桃馬から視線を逸らした。
「で、でも。その春瀬のお父さんに居場所を教えてって言われたらどうするの? 探し出したのに教えないなんて、納得してくれるの?」
「俺は元探偵ですが、今は違います。繰り返しになりますが、俺の仕事は想いが綴られた手紙を届ける事です。受取人が、差出人に自分の連絡先を教えてやってくれと仰るならばそうしますが、そうでないならば受取人の住所その他を、差出人に教える義理も義務も生じないんですよ」
「……でもそれって、人によっては“屁理屈だ”って怒るんじゃない?」
「そうですね。しかしそれは俺の関知する所ではないので、どうしようもありません。俺の仕事は届ける事、それ以上でもそれ以下でも、ましてやそれ以外でもない。それだけが事実ですので」
実を言えば、今女将が言ったように、屁理屈だとか理不尽だとか、約束が違うとか、そう怒鳴られる事も多い。
何処に居るのか分からない相手に想いを届けたいという事は、相手が何処に居るのかを突き止めて欲しい、という事でもある。
それ故に、確かに手紙を届けた、と依頼人に報告すると、半数以上の人が無条件で相手の居場所を当然のように教えて貰えるものだと思う。
だが、先程と同じ言葉で、桃馬はそんな勘違いをいつも突っ撥ねていた。
自分の仕事はあくまで、伝えたい想いや届けたい想いを、何処に居るのか分からなくなってしまった相手に届ける事。
居場所を突き止めなくては届けられないから突き止めているのであって、無闇にその居場所を明かす義務も義理もない。
「受取人がそうしてくれと仰るならそうしますけどね。アフターサービスで」
「……人の想いを届ける、なんて言っている割に、案外ドライなのね」
「言っても所詮商売ですからね。それに……」
そこでふと、桃馬は一瞬瞳に影を落とす。
誤魔化すように体を半分翻して、悪戯な笑みを零して。
「――俺、こんな稼業やってますけど、実は人間に全然興味ないんですよ」
届け屋の仕事も、ただ元探偵という性に合っているから、やっているだけ、で。
つい今し方、人の大事な想いを届けたばかりの男の台詞とは思えない言葉に、女将は一瞬、僅かに絶句する。
どう言葉を返せばいいか迷う女将に、桃馬はもう一度、人の好い笑みを浮かべて、深々とお辞儀をして。
今度こそ彼は、女将に背を向けて、歩き去って行った。