届ける事、ただそれだけ
暖簾を潜って現れたのは、女将と同じ着物姿の女性だった。
ドアを開けた瞬間に漂って来た雰囲気に、一瞬困惑した表情を見せた彼女だったが、すぐに笑みを作り、女将と桃馬それぞれに丁寧にお辞儀をして挨拶をした。
「おはようございます。いらっしゃいませ」
「……おはよう、春ちゃん」
硬い口調で、女将も返す。
事前の聞き込みで、出勤時間は把握していたから、桃馬は別段驚きはしなかった。
「っ、待って!」
桃馬は席を立つと、彼女の側に歩み寄る。
女将が慌ててそれを止めようとしたが、桃馬は聞かない。
「突然すみません。……瀬戸春生さん、ですね?」
「……っ!!」
「怪しい者ではありません。東雲桃馬と申します」
少し身を屈めて、両手で名刺を差し出す。
女性の姿で現れた瀬戸春生は、困惑と恐怖を露わにしながらも、それを受け取った。
「想い届け人……?」
「何処に居るかも分からなくなった人に、伝えられなかった想いを届けてくれるんだって」
嫌悪感を滲ませながら、女将が桃馬の代わりにそう説明した。
桃馬は苦笑を浮かべつつ背筋を正すと、今度は内ポケットから封筒を一枚取り出す。
言うまでもなくそれは、瀬戸春生の父から託された、春生宛ての手紙だった。
「瀬戸浩二さんに依頼されました。行方が分からなくなってしまった息子に、どうしても、届けて欲しい、と」
「……どうして、ここが分かったんですか」
差し出された手紙を半ば憎悪すら滲む目で見つめて、春生は絞り出すように言う。
その声は、先程の女声にしか聞こえぬ声とはまるで違って、明らかな男声だった。
「私は、私の手で瀬戸春生を殺しました。顔を変えて、名前も変えて、誰にも連絡もせずに……ここで、春瀬として生まれ変わったんです。誰も私の事を知らない。誰も私を蔑んだり否定したりしない。男だとは言わない。それなのに、何故……どうやって」
恨み言のように言われて、桃馬は苦笑交じりに肩を竦めた。
「貴方が失踪した日、貴方が大きな荷物を抱えて新幹線に乗る姿を見たっていう人を見付けました。どの駅まで行くのかは勿論その人は知りませんでしたが……貴方にとっては決意の家出です。貴方が御両親と喧嘩した原因を考えれば、何処に行ったのかは容易に見当が付きます」
その新幹線は、日本で性適合手術が受けられる病院がある地域にも乗り入れている列車だった。
「まあその辺は警察もすぐ分かったでしょう。きっと捜索の手はすぐに伸びた筈ですが、警察は貴方を見付けられなかった。ただの家出だと思って、あまり真剣に探さなかったのもあるかもしれませんが、この時既に貴方は女の姿でその地域に降り立っていたんでしょうね」
春生は俯いた。恐らくは図星なんだろう。
「貴方はここで女として生きる決心を決めて、いつか手術を受けるために働き始めた。でも――現実はやはり、そこまで簡単じゃなかった」
すると彼は一旦席に戻り、持って来ていた鞄から、いくつもの写真の束を取り出した。
その内の二、三枚を適当に手に取り、春生達の前に差し出す。
「これって……」
春生は唖然とした。女将も少々間の抜けた顔になる。
それは全て、同じ写真だった。
元々、瀬戸浩二から借り受けていた写真。
数にして十数枚。つまりは複写である。
しかし、原物は全て同じだが、一枚一枚写っている姿は違っていた。
「貴方はまだ、性適合手術を受けていませんね?」
「……、はい」
「ということは、言ってしまえば貴方のその姿は女装という事になる。つまり、元々の男の顔に女のメイク、女の服装、女の髪型。俺なりに色々この写真を加工して、町の人達に片っ端から見せて回りました。この中の誰か見覚えはないか、似ている人はいないか、ってね」
店のパソコンでスキャンして色々書き加えたり、はたまた手書きで髪の毛や服装を上から落書きしてみたり。
「中卒で、しかも見知らぬ土地で生きるには、手術どころか当面の生活費を稼ぐので精一杯だったんですね」
春生は苦し気に、両目をきつく閉じた。
「ほんと……探偵ってムカつくわよね。人の秘密とか根掘り葉掘り勝手に荒らして……失踪した人を探すって、そりゃ美談かもしれないけど、思い余って失踪した人だって、世の中には居るのに。何も知らない癖に、正義感とか人情とかを笠に、放っておいてはくれないんだもの。でも、どうして私の事まで分かったの? 私が本当は男だって、それこそ親以外は誰も知らない筈よ」
剥き出しの敵意を向けて、女将が桃馬に問う。
桃馬はそれを苦笑で躱して、少し困ったように答えた。
「当時、彼をスタッフとして招き入れた事、近所では結構な噂になってたみたいですよ。この店はずっと一人でやっていくつもりだし、人を雇う必要がそもそもない、と笑ってた貴方が、突然、この辺りでは見掛けない女の子を働かせ始めたから。下世話な噂をする人も中には居たようですが、兎にも角にも不思議がられても無理はなかったようです。人を雇うつもりなど更々なかった筈の女将が、素性の知れない女を受け入れて匿うような真似をする理由は、余程のお人好しか或いは……自分と重なってしまってどうしても放っておけなかったか」
まあ、確信したのはついさっきでしたけど、と肩を竦めて笑う桃馬に、女将は恨みがましそうな視線を向けた。
桃馬はもう一つ苦笑交じりに息を零して、改めて瀬戸春生に向き直った。
「さて、本題に戻りましょう。瀬戸春生さん。貴方のお父上、瀬戸浩二さんからのお手紙です。お受け取り下さい」
そうして、もう一度封筒を春生に差し出す。
「……受け取りたくないです。どうせ、何処で何をしてるのかとか、みっともない事は止めろとか、そういう事でしょう」
「だったら捨てるなり破るなりして下さい。貴方が貰った手紙です。どうしようと貴方の自由だと思います」
頑なに受け取ろうとしない春生に、無理矢理手紙を握らせながら桃馬は言う。
「何それ……あんた、そんな事言っていい訳? 想いを届けるのが仕事なんでしょ?」
そんな少々乱暴な桃馬の言葉に、今度は女将がぎょっとして言った。
「ええ。まあぶっちゃけ、俺の仕事はただ届ける事だけですからね。差出人と受取人の間に何があったかなんてどうでもいい。ただ、届けて欲しいと依頼を受けた以上、ちゃんと届けるのが責務であり、ちゃんと受け取って頂く責任があります。宅配便と一緒ですよ。要らないものを持って来られたからって受け取りを拒否されても、配達員にはどうしようもないんです」
女将も春生も呆然と桃馬を見遣る。
だがやがてすぐ、春生は眉を吊り上げて、茶封筒を乱暴に取り上げ、両手で引き破るような仕草を取った。
桃馬の背後で女将が息を呑む。
桃馬は然程動揺はしなかった……けれど。
「っ……」
寸での処で、春生は手を止めた。
破れたのは封筒のほんの端の部分、数ミリにも及ばぬ程度。
くしゃりとなった封筒を、破らんとしようとした手のまま握り締めて、春生は唇を噛み締め身を震わせていた。
そんな春生の様子を、桃馬は感情の読めない瞳で暫く見下ろしていたが、やがて、小さく息を零して、くるりと身を翻す。
上着を取り、鞄から財布を取り出して、一万円札をそっとカウンターの上に乗せた。
「ご馳走様でした」
「……、待って、お釣りを……」
「結構です。お騒がせしたお詫びに、取っておいて下さい」
さっきまで笑みを浮かべて春生を半ば追い詰めていた男は、少しだけ淋し気な笑みで丁寧に頭を下げて、女将にそう言った。
そのまま、桃馬は未だ動けずにいる春生の横を通り抜けて、店を出て行った。