点と点を結ぶ糸
□□□
小さな店だった。
七人程が座れるカウンター席と、二人が向かい合って座る広さしかない座敷席が二つ程の、小さな小料理屋。
着物を着た綺麗な女将が、開店を知らせる役も担う暖簾を、軒先に掛ける。
それと同時に、桃馬は彼女の前に歩み寄った。
「いらっしゃいませ。御予約の方ですか?」
「いえ、予約はしてないんですが、良いですか?」
「ええ。勿論でございます。さあ、どうぞ」
上品に挨拶をして、女将は桃馬を快く受け入れてくれる。
店内もとても落ち着いた雰囲気だった。
和の空気が優しく漂い、思わず安堵の笑みを零したくなる。
それでいて結構格式高いような印象も併せ持っているから、少しだけ自然と肩に力も入ったけれど。
「何になさいます?」
「生を一つ。それから、枝豆なんかがあればそれを」
「はい。少々お待ち下さい」
居酒屋みたいな注文にも女将は気を悪くした素振りを見せず、手際良くおしぼりとコースターを桃馬に差し出し、次いでコップとビールを用意する。
どうぞ、と言ってグラスにビールを注ぐと、女将は妖艶ささえ滲む微笑みを浮かべた。
「お客様、この辺の方ですか?」
他に客もいない為、自然と女将は桃馬に会話を振って来る。
「いえ、ちょっと出張で。九州から来たんです」
「まあ、はるばる九州から。それはお疲れでしょう。どうぞ、ゆっくりなさって下さいね」
「ありがとうございます」
「そうだ、丁度、馬刺しとかあるんですけど、召し上がります?」
「いいですね、お願いします」
流石、仕事で疲れている勤め人への労わり方を心得ている。
女将は優しく笑って、すぐさま支度に取り掛かった。
二杯目は自分でグラスに注ぎ、慣れた女将の手付きを眺めながら、その二杯目のビールも一気に煽る。
「――ところで女将さん」
「はい?」
「こういう人、最近店に来たりしてませんか?」
上着の内ポケットの中から一枚の写真を取り出して、桃馬が女将に問うたのは、綺麗に皿に盛られた馬刺しを受け取った時、だった。
笑みを崩さぬまま、女将は差し出された写真を覗き込んで、女将は首を傾げる。
「さあ……覚えがありませんけど、でもその方、高校生ですよね? うちは未成年のお客さんは、大人の方と一緒でないならお断りしてますし」
その写真は無論、十五年前の瀬戸春生の写真である。
言うまでもなく今は未成年ではないし、写真とは随分印象も変わっているだろう。
だが……。
「すみません、写真が古いものしかなくて、これ、十五年前の写真なんですよ。ここに写ってるのは高校生ですが、今は三十二とか三くらいの筈です」
「そうですか……でもどっちにしても、覚えはないですね。うんと小さい頃ならまだしも、高校生だったのなら十五年経っていてもそんなに顔付きは変わらないでしょうし。仕事柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なんです。間違いないですよ」
女将はそう言って、自信に溢れたにっこり笑顔で断言する。
しかし桃馬も、決して行き当たりばったりだけで、小料理屋の女将に瀬戸春生の事を訊ねた訳ではなかった。
「では質問を変えましょう」
意味深に前置いた瞬間、桃馬は空になったビールの瓶をカウンターの上に置く。
「瀬戸春生、という名前に聞き覚えはありますか?」
「、っ」
瞬間。
女将の笑みが消え、その目が僅かに瞠られた。
「……この写真の高校生の名前です。聞いたことはありませんか?」
「……さあ、存じません」
追及するように問いを重ねれば、女将は再び笑みを装着して淀みなく答える。
が、その口調は先程より固く、声色に警戒が滲むのを隠し切れていなかった。
「少々訳あって、彼は名を変えているそうです。一回聞いただけじゃあ、彼だと誰も気付かれないし気付かない、男でも女でも居そうな名前に」
「………」
曲がりなりにも元探偵である。
当人は鉄壁の営業スマイルで躱しているつもりかもしれないが、桃馬は、言葉を重ねるごとに女将が動揺していることに、気が付いていた。
「生戸井春瀬――と」
――再び、女将から笑みが消えた。
唇を引き結び、何処か挑むように、探るように桃馬をじっと見据える。
「……ビールをもう一本、いいですか?」
一瞬で張り詰めた緊張感の中、桃馬は先程カウンターに置いた瓶を指差しながら、そう言った。
女将は一つ頷いて、空いた瓶を下げて、新しい瓶を用意する。
栓こそ開けてくれたが、先程のように注いではくれなかった。
「……誰なんですか、貴方」
やがて、女将がそう言った。
凄味さえ帯びた、今までよりずっと低い声音で。
「怪しい者じゃありません。こういう者です」
そんな女将の警戒を躱して、桃馬は自身の名刺を差し出した。
「……想い届け屋……?」
「女将さんにも居ませんか? 届けたくても届けられなかった想いを届けたい相手。すっかり疎遠になってしまって、今となっては相手が何処に居るかも分からなくて、届ける術がない、そんな相手。誰かのそんな想いが綴られた手紙を、相手を探し出して届ける。それが、俺の仕事です」
「……何それ、胡散臭……」
「よく言われます。でも、一応それなりの実績はありますよ。実は俺、元探偵でしてね、人探しはかなり得意なんです」
言って、桃馬はにこりと笑う。
女将は眉を顰めるばかりだった。
聞いた事も見た事もない商売をしている男を前に、流石にこれ以上警戒を隠し切れなくなったのだろう。
「それで……その元探偵さんが、春瀬に何の用なの?」
「おや。やっぱり、彼を御存知なんですか?」
「……瀬戸春生なんて知らないわ。知っているのは、生戸井春瀬のことだけよ」
「政治家の討論みたいな掛け合いは止しましょう。生戸井春瀬とはつまり、瀬戸春生なんですから」
「あの子は、もう瀬戸春生じゃないの! そうしたのは貴方達周りの人間環境じゃないの!!」
どすの利いた怒鳴り声、だった。
女性でも本気で怒れば男性でさえも圧倒する程の声は出る、けれど。
今のはそもそも、声の質が今までとまるで違うように聞こえた。
よく、アニメ等で女性声優が男性キャラの声を当てるけれど、それとはまた違う。
着物を着た女と、その口から発せられた音が、その性質が、まるで噛み合わないのだ。
「……貴方がそうやって、お客さんに怒鳴ってまで彼を庇うのは……彼が、貴方と同じ境遇だから、ですか?」
「……っ」
決して動じずに冷静に問い返せば、女将は息を詰めて僅かに後退った。
口調は女、だが、音は低くどすが利いている。
女にしては大きく、妙にごつごつしている手。
噛み合わず、不一致な点と線。
女将の唇が震え出す。
得体の知れない目の前の男に、言い知れない警戒と恐怖を覚えて。
――その時、その緊迫した空気を裂くように、店のドアが開かれた。