理解の境目
「――瀬戸春生? ああ……まあ、憶えてるけど、あんま思い出したくない名前ね」
疲れ切ったような声でそう言ったのは、春生が初めて交際した相手の女性だった。
ゲームセンターの店長と会った、翌日の事である。
「結構イケメンだったからさ、私から告って付き合い出したんだけど、何ていうか……男らしくないっていうかさ。キスとかエッチもいつまで経ってもしてくんないし、妙に女々しいとこがあって。なんか可笑しいな、と思って色々問い詰めたら、“私は女の子だから、女の子とそういう事、本当はしたくない”とか言い出して」
ケーキを口に運びながら盛大なため息を吐いて、女は途中から半ば投げ遣りな口調になった。
因みに、ケーキは桃馬の奢りである。
「まあ昔はほら……そういうの病気みたいな扱いだったじゃん? だから本人も、“ちゃんと”男に戻らなきゃって、それなりに苦悩してたみたいで、それで、私と付き合ったんだって。でも駄目だったみたい。どうしても、自分が男だなんて認められないみたいでさ。結局、私とも三ヶ月も続かなかった」
しかし彼女の後悔は、違う所にあるようだった。
「だけどあいつさ、その辺の女子より余程女子力高くてさ。女の子が好きな話題で話をすると、ともするといつもつるんでる友達よりずっと盛り上がれたの。別れた後は普通に気の合う友達として付き合ってたんだけどさ、周りからは結構変な目で見られる事も多くて。別れたのに何で? みたいな」
そこで、彼女はケーキを食べ終わって、フォークを皿の上にそっと乗せた。
「そんな時、学校中で噂が立っちゃったの。“瀬戸春生はオカマ”だとか、“元カノはレズ”だとか……やってもいないのに、学校で隠れてエッチしてるんだ、とかね……」
「……、」
「それで私、急に恥ずかしくて嫌になって……春生と居るから私までそんな目で見られるんだ、私は普通なのに、どうして春生と一緒にされなきゃならないんだ、って悔しくて堪らなくなっちゃって……。ある日突然、一方的に私、春生の事無視するようになったの」
――それ以来、彼女は春生と口を利かなくなり、卒業してからも一度も、会ってもいないし連絡も取っていないのだという。
「……私、最低な事しちゃった。謝れるなら謝りたいけど……もう、何処に居るかも分かんないしね……」
彼女も、瀬戸夫妻に春生の失踪を知らされていた。
初めての交際相手であり、別れてからも暫く友達付き合いがあったという事で、僅かでも手掛かりを求めて連絡があったらしい。
ここへ来て桃馬は、昨日から抱えていた遣る瀬無さが、少しだけ和らいだのを感じた。
そうか、瀬戸春生には、こんな友人も居たのか……。
「……その想い、どうしても届けたくなったらいつでも俺の店に来て下さい」
そう言って、桃馬は最初に手渡した自身の名刺を指差した。
「……本当に見付けられるの?」
「見付けてみせます。必ず。――届けたい想いを、託された以上は」
心の中で、桃馬は彼女に礼を言った。
思春期故の行き違いで、彼女は春生を裏切ってしまったけれど。
きっと彼女の存在は、春生にとって救いだったと思う。
そして今も尚、その後悔と向き合っている彼女に、桃馬は少なからず安堵したのだ。
春生はきっと、姿を消すその日まで、独りではなかった時期があったのだという事に。
一番最後に会ったという人物と会ったのは、瀬戸夫妻からの依頼を受けて十四日後の事だった。
「瀬戸春生? ああ、よく憶えてますよ」
良くも悪くも印象深い瀬戸春生の名は、誰に訊いても“よく憶えている”という答えが返って来る。
白髪の目立つ男性は、瀬戸春生の通っていた高校の校長で、当時は彼の担任をしていたという。
「いなくなった、って聞いた時は心底びっくりしたんですよ。その日も普通に学校に来てたし、帰る時に私、明日は三者面談だからな、って言ったんですけどね。その時も普通に“はい”と返事をしていましたし」
「何か変わった様子はなかったんですか?」
「前日、親と喧嘩したとかでイライラしてはいたみたいなんですが、まあ、帰る頃にはいつも通りでしたよ」
「……春生さんが、心と体の性が一致しない事については、御存知でしたか?」
少しだけ躊躇いがちに問うと、校長は困ったように息を吐き出した。
「……何度も注意したんですよ。十七にもなってみっともない、男らしくした方がいいって。でないと世間から変な目で見られて、将来痛い目を見るぞ、と。どんなに認められなくても、認めたくなくても、瀬戸は男ですからね。生物学上男なんですから、嫌でも認めて、治療を受けろとも言ったんです。知り合いに精神科医師がいましてね、紹介するぞ、とも」
「……、」
「本人がどんなに自分は女だって言っても、顔付きとか体付きは年齢と共にどんどん男になる訳じゃないですか。今でこそ割と寛大な世になりましたけど、例えばそれで、女子トイレや温泉で女湯とかに無理に入ったりしたら、犯罪者になってしまいますし」
校長は、掛けていた眼鏡を外して、レンズを徐に拭き始める。
「貴方も、そういった方々には理解を示せないというお考えですか?」
静かに桃馬が問えば、校長は再び息を吐き、眼鏡を掛け直した。
「理解はしてますよ。仮にも教育者ですからね。実際、今の生徒達の中にも、同じような子が居ると認識しています。その認識を踏まえて、当時の私の発言は失言だったと反省もしています。しかし、世間として国として、理解が広がっても受容は広がっていないのもまた事実。学校として彼等を受け入れ、差別や偏見は止めろと説いても、国がそうやって区別している以上、我々としても難しい所があるんです。令和の世になって尚、そういった子供を持つ親御さんの中には、その“異常さ”をどうにかしたい、と思っておられる方も、まだ多くいらっしゃいます」
だから、春生が居なくなった原因が学校にあるのではないか、と警察に疑われた時、彼は断固として否定した。
何度も訪ねて来る瀬戸夫妻に、何度も包み隠さず報告した。
そんな事を言わなければ、と瀬戸夫妻に責められたこともあったが、障害としての認識が根強かった当時、学校側の対応は大きな問題とは見做されなかった。
「……瀬戸君の今の居場所は皆目見当は付きませんが、居なくなった日の放課後何処に行ったかは知っていますよ」
短く重い沈黙が下りて、僅か後、校長がふとそう言った。
「本当ですか?」
「ええ。警察の方にも当時話したんですがね。本を買いに、隣町の大きな本屋に寄ってから帰る、と言って、その日は私と別れたんです」
言って校長は、その書店の最寄り駅を教えてくれた。
桃馬は丁寧に礼を言い、彼に背を向けた。
最後にふと、桃馬は校長の方を振り返る。
深いため息と共に彼は額に手を当てて、椅子に沈み込むように座り込む。
教育者として、校長として、十五年前に失踪した教え子の事を、彼はもう否定していないのかもしれないけれど。
彼個人としてはやはり、瀬戸春生は理解の外に居るのかもしれない。
誰にも理解されず、誰にも受け入れられず、そのままでは犯罪者になるぞとまで言われて。
いつも通りに振る舞って日常と別れを告げた瀬戸春生は、いつも通りに担任の先生に手を振った時、何を思ったのだろうか。