受け入れられず、受け入れて貰えず
届けて欲しい相手は、十五年前に失踪した、自身の息子だった。
「倅が、十七歳の時です。些細な事で家内と三人、かなり派手に揉めまして……」
息子の名は、瀬戸春生。
十五年前の冬、春生は両親と半ば掴み合いの大喧嘩をして、その翌日、学校に行くと出掛けたきり、行方が分からなくなっていた。
「警察に捜索願は出したんですが、部屋に置手紙があった為に、喧嘩の末の単なる家出として処理されて……一応捜索はして下さいましたが、それももう、ほんの半年程で打ち切られてしまって」
「置手紙、ですか」
「はい。“もうこんな家、住んでるだけで頭がおかしくなる。父さんと母さんの顔も見たくない。今までありがとう。俺は勝手に生きるからそっちも勝手にやってくれ”と」
「……失礼ですが、喧嘩の原因、というのは?」
桃馬が少し躊躇いがちに問うと、瀬戸は苦し気に顔を歪ませて、益々顔を俯かせる。
「……申し訳ございません。お話しになりたくなければ、無理にとは言いません」
努めて優しく柔和な口調で詫びると、瀬戸は意を決したように顔を上げて、首を横に振った。
「……喧嘩をした二日後、学校で、三者面談が行われる予定でした。面談には、妻が行く事になっていて、その前に、進路の事をどう考えているか、家族で話し合う時間を作ったんです」
その時から春生の様子は少し変だった。
妙にそわそわしていて、何処か怯えているようで。
だが、いざ家族会議のテーブルに着いた時、彼は持てる全ての勇気と覚悟を総動員したような鬼気迫る表情で、衝撃の一言を口にした。
「性適合手術の為に、大学には行かずに働いてお金を貯めたい、と」
「……、」
――今でこそ、そういった事もわりかし打ち明け易くなっては来ているが、当時はまだ、そういった人々は特別且つ異常者扱いされる事の方が当たり前だった。
同性を好きになる事も、心と体の性が一致しない事も、病気だと言われた。
ちゃんと育てたのに、と当人の両親は我が子を責め、己の子育てを嘆き悔いた。
春生本人にしてみればそれがどれ程苦しく、辛い事であったのか。
それは春生にしか、本当の意味では分からないだろう。
「私も妻も、春生を責めました。私達は誰に対しても恥ずかしくないように、きちんとお前を育てたのに、よりにもよって何でそんなとち狂った事を言い出すんだ、と。お前は男だ、男として生まれたんだから当たり前だ。何より、産んでくれた母さんに申し訳ないと思わないのか、と」
だがきっと、それは……春生本人が一番、葛藤した事、で。
「妻は泣いていました。一体何処で間違ってしまったのだろう、と。私の育て方がいけなかったんだ、ごめんなさい、と」
「………」
「もういいよ、と春生は怒って自室に籠り、その日は夕飯にも顔を出しませんでした。朝になると普通に顔を出したので、とりあえずはお互い頭が冷えたのだと、私は安堵しました。いつもと変わらない様子で朝食を食べて、いつもと変わらず“行って来ます”と言って、息子は家を出て行きました……」
けれど瀬戸春生は、それっきり、瀬戸の家に帰って来ることはなかった。
慌てた夫妻は部屋に何か手掛かりはないかと、春生の自室に入り、そこで、机の上に置かれていた手紙を見付けた。
置手紙の文面に少なからず腹が立った瀬戸夫妻は、どうせ行く所もないだろうし、行き詰って腹が減れば帰って来るだろう、と直後は大して大事として捉えなかった。
だが、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎ、四日目になっても帰らず、そこで漸く、瀬戸夫妻は息子が本当に姿を消したのだと気が付き、蒼白になった。
警察に届けたが、置手紙の事もあり、ただの家出ならそのうち連絡を寄越すだろう、とあまり真剣に取り合って貰えなかった。
連絡どころか帰って来る気配さえない状況に、遂に夫妻は情報提供を呼び掛けるチラシを作成、駅前等で配布して回り、ネットへの書き込み等を頻繁に行った。
そこでやっと警察も動いてくれるようになったが、寄せられる情報はどれも冷やかし半分の出鱈目ばかり、手掛かりは何一つ得られることなく、捜査は打ち切られた。
「……去年、妻が死にました。春生に一目会って謝りたかった、と、繰り返し泣きながら……。妻はずっと、後悔していたんです。自分が春生を女に産んであげていれば、きっとこんな事にはならなかった、私のせいで、春生を傷付けてしまったんだと……」
そこで、瀬戸は泣き出した。
彼が実年齢よりもずっと年老いて見えるのは、きっと、絶望と後悔を背負いながら、それでも懸命に希望を信じて生き続けて来たが故なのだろう。
「……私達が間違っていました。あの子の願いも、想いも、決して、奇異な事でも可笑しな事でも、ましてや病気な訳でもなかった。今更遅い、と罵られるかもしれません。あの子の気持ちを分かろうともしてやらなかった私達です。親だなんて思われてもいないでしょう。ですがどうしても……どうしても、一言、謝りたくて、この手紙を書きました。ここなら……新月堂さんなら、何とか届けてくれると聞いて……」
言って瀬戸は涙を袖で少々乱暴に拭うと、テーブルに両手を着いて、額がぶつかりそうな程に勢い良く頭を下げた。
「どうか……どうか、お願いします……! 私の元に帰って来てくれなくてもいいから、せめて……私が死ぬ前に、あの子に、私の……妻の想いを、届けて下さい……!!」
必死に懇願する瀬戸に、桃馬は一つ、切なげに息を零した。
疎遠になってしまった相手、何処に居るのかも分からない相手に想いを届けるとは、つまりこういう事だ。
誰もが、長い間抱えたまま伝えられなかった想いを、どうしても伝えたくて、届けたくて、桃馬の所に藁にも縋る思いでやって来る。
一体何人の涙を、何人の必死な背中を、こうして見下ろして来ただろう。
「――分かりました」
テーブルの上で震えるしわがれた手に、桃馬はそっと自身の手を重ねた。
「瀬戸春生さんは、俺が必ず見付けて、貴方からのこの手紙を、必ず届けます」
だから、もう一人で苦しむ事はありませんよ。
そう、言うと。
瀬戸は弾かれたように顔を上げて、声を上げて泣きながら、もう一度深く頭を下げた。