第四章:04
・・・
天津はフェイスダウン総帥からの指令連絡を確認し、いつものように消去する。
内容は――彼への"褒章"をあたえる、というものだ。
いよいよ、始まった。
フェイスダウンにとって荷物であった、改人。
しばらく前から、エリニスの戦闘訓練における標的として利用されていたようだが、
ついに本格的な粛清が開始されるのだろう。
「……」
ぱちり、とペンダントロケットを開けそこにはさまれた写真を見つめる。
彼は写真が嫌いだった。どうにも、人に撮られるということがむしがすかない。
だから――彼女との写真は、この一枚だけなのだ。
我ながら、痩せこけていながら猛禽のようにぎらついた目をした顔だ。
だがそこに写っている表情は今よりだいぶ若く、そして少しだけ柔らかい。
その彼の横で微笑んでいる少女に目がいく。あの当時の自分にとって、
彼女は人生のすべてだった。
19年前だから――自分が36歳、彼女が14歳の時か。
ありていにいって、自分の半分以上も年下の相手に熱をあげるなど
大人げもなければ良識もない。
だが、今振り返っても思う。やはり、彼女は自分にとっての人生そのものだった。
他人がどう思うと、どう揶揄しようとも彼女を深く愛していたし、彼女もまた
自分を愛してくれていた。
(――稚彦さんって、大人っぽくないですよね)
そういってしとやかに笑う彼女自身、学生とは思えない大人びた空気を纏わせた
清楚な女性だった。そしてそんなことを自分に言うのも、彼女だけだった。
今、考えてみても思う。当時からとっつきづらいと周囲から思われていた自分だが、
それは単に他人との距離感を測りかねていただけにも思う。
周りからは、寡黙な冷徹漢などと思われていたようだが。
自衛官だった八雲、官僚だった征矢野だけはそんな天津の本質を見抜いていた。
高校時代からのつきあいなのだから、当然だったかもしれないが。
当時、友人と呼べるのはその二人ぐらい。彼らとは時にばかをやりながらも
切磋琢磨し、それぞれの道で大成し邁進していった。
……そんなある日だったろうか。
警察官僚として順調に出世街道を走っていた天津が――ある時、大きな失敗をした。
うちのめされた。何しろ、ミスらしいミスをしたのはその時が初めてだった。
それまで付き従いよくしてもらっていた上司にも、掌を返すように
冷たくあしらわれた。
もはや自分の道は閉ざされたものと絶望し、雨の降る街の中を傘も差さずに
ただたださまよい歩き――彼女と、出会った。
(――お風呂、入ってきません?)
思い返せば唐突な言葉だった。もっとも、当時の自分は抜け殻のようなもので、
彼女に導かれるままふらふらとついていってしまった。
彼女の家はいまどき珍しいタイプの銭湯だった。
のろのろと服を脱ぎ、一度も入ったことのない大衆浴場につかり、
茫然とすること十数分――湯船からあがるころにはようやく、自分の姿に
恥じ入った。
二十も年下の少女に捨て犬のように拾われ、風呂にはいるとは何をやっているのか。
エリートとして邁進してきた自分もずいぶん落ちぶれたものだと、自嘲した。
そんな自分をやや強引にテーブルに着かせ、冷たいお茶を出した彼女は
笑って言ったものだ。
(なにか失敗でもされたんですね。でも、身体があったまったら
またやるぞー、って気持ちが沸いて来ません?)
そのときの彼女の顔は、いまだに心に焼きついている。
少女らしくない、子供を諭すような大人の顔。
幼児のような、屈託のない少女の笑顔。
その両方の魅力を兼ね備えた表情をみていると、確かに生きる気力が
沸いてくるような気がしたものだ。
(今日の失敗なんて、お風呂で洗い落とせばいいんです。
それより明日は開き直って、図太く生きてみませんか?)
その言葉の含蓄は、年齢に見合わぬみょうな深みを感じさせた。
そうして何かが吹っ切れた天津は――彼女の言うとおり、開き直ることにした。
自分は失敗した。周りの見る目も変わった。だからなんだ?
蔑む視線などどうでもいい。ならば、今度は違う角度から攻めてみよう。
それはけして平坦な道ではなかった。風当たりも、弱くはない。
だがへこたれる度に彼女の銭湯に通い、話をするとそんな障害が
どうでもよく感じられるものだった。
ばかにされても、見返してやればいい。
それは、普通の人間ならあたりまえのことだったかもしれない。
常に周囲の期待に応えることばかり気にしていた天津にしてみれば、
世界が一変するほどのカルチャーショックだったのだ。
そんなあたりまえのことを、年端もいかない少女に教えられてしまった。
そのことがかえって自分のくだらないプライドを捨て去るきっかけに
なったのかもしれない。
それ以降の天津は、かつての硬く折れやすい枯れ枝からよくしなり衝撃を
受け流す生木のような強さを手に入れていた。
そして、他人を愛することも初めて知った。
滑稽な話だ。三十年も生きてきて、女性との交際など自身のステータスのためとしか
思ってこなかった男が、半分以上も年下の娘にぞっこんになるとは。
が、そんな天津を受け入れた少女も、そして揶揄しながらも応援していた
征矢野と八雲も変り種の類ではあった。
……。
なつかしい、追憶だ。
ばかげていながら、幸せな頃の記憶。
――もう戻ることのない日々だ。
ぱちり、とペンダントを閉じる。
ずっと、諦めてきた。
もはや彼らを救うには、縛られた生から解放させるしかないのだと。
かつて夢見た光景は、もはや叶わぬものだと。
だが、今自分の手元に力がある。
その諦めた夢を、もう一度取り戻す力が。
……その光景は、ひどく歪で狂ったものとなるだろうが。
それでも――
「……もう一度、四人で集まろうじゃないか。
四人で……また、遊ぼうではないか……」
・・・
闇に潜むことは得意だ。
ずっと昔から、そんなことばかりして過ごしていた気もする。
物理的な闇ではない。人の意識の背後に忍び寄り、その行動を
つぶさに観察するのだ。
誰にも見られていないと思った人間のすることは、面白い。
時にひとりごとをつぶやいたり。
時に全裸になってみたり。
時に――裏切りをはたらいたり。
そんな人の隠された所作を暴くのが、自身のライフワークになっている。
その理由などないのだろう。ただ、好きなのだ。
こちらに来てからは、その性癖を利用して生きていくことに決めた。
紆余曲折あって――桜田は、CETにて偵察班として働いている。
CETは光の組織だ。彼女はそう思う。
明確な悪たるフェイスダウンと戦うため、日夜備える彼らに後ろめたさなどない。
その彼らを尾けまわし、暴露するのが自分の役割の一つでもある。
光の中にいる、闇。自分の本質はそんなところだろうか。
心の奥底では、他人に対して絶対の信頼など寄せていない。
けしてきらいなわけでも、疑っているわけでもない。
ただ一線を引いて、「この人なら絶対こんなことはしない」という
信頼をしたことがないだけなのだ。
火之夜だけは違う。
彼だけは、心の底から信頼している。あの男が誰かを裏切るなど、ありえない。
そんな思いを自分が抱くなど、想像したことすらなかった。
だからこそ、彼を裏切る者は許せない。
ずっとずっと、探し続けていた。CETを真に裏切る邪悪な存在を。
ふつふつとした怒りと憎悪を心に秘め、おなじく火之夜を誰よりも信じる
彼女と共に、本当にしとめなければいけない相手を探っていた。
その彼女が倒れたのは、ある種のチャンスだった。
今なら、"裏切り者"も油断している。
彼女と話し合い、その機会を存分に利用することにした。
結果は実を結ぼうとしている。
――ようやく、尻尾をつかんだ。
「……私は、私の太陽を汚すものを、認めない」
ぽつり、と呟いたその言葉に怒りを押し隠し、
桜田はふたたび闇へとその身を押し沈めた――。
・・・




