第二章:砕かれた鎖
・・・
「天津」
「――! 征矢野、か……」
豪雨の中から自分の名前を呼ばれて思わず身を固くし、とっさに少女の肩を
掴んで自分の陰に押しやる。
その相手が馴染みの顔であることに気づくと、少しだけ力を抜いた。
が、少女の姿は半身に隠したままだ。
同僚の顔に敵意はないが、それでも彼が自分を止めにきたのだということは
わかりきっていたから。
「……バカなことをしたもんだよ、ホント」
「わかってはいるが、もう後戻りはできない」
「できるさ」
強張った口調で決意を告げたが、同僚――征矢野はやや疲れを滲ませた苦笑を浮かべ
ひらひらと封筒をかざしてみせた。
「――。お前が最初に見つけたか……」
「悪いな」
ボッ、と彼がライターで封筒を焼く。
中の便せんが燃え尽きる様子を苦々しく見ながら、手紙の書き主――
天津稚彦は十年来の友人へと不平を鳴らした。
「……何時間もかけて、書いた手紙だったんだがな」
「知ってるよ。お前がこういう文章を書くのが苦手ってことぐらいはな」
ピッ、とほとんど灰になった手紙を征矢野が投げ捨てる。
難産でありながら結局誰にも読まれず燃え尽きたその紙切れは、むなしく
雨に打たれて散り散りになった。
「こいつは他の誰も見てない。だから、お前がやったことだってのも、バレてない。
今ならまだ、反抗期のお嬢さんがちょっと家出した程度の話でおさまる。
戻ってくるんだ、天津」
「……別に俺を誘拐犯に仕立て上げてもよかったんだぞ?」
「バカ言え」
がしがしと髪をかきむしる癖のせいで、征矢野の髪はいつも乱れてる。
だがいつにもましてその乱れっぷりがひどいのは、いかに彼に心労がかかっているかの
表れでもあるだろう。
(……迷惑をかけているとは、思うが)
だからといって譲れるものでもないのだ。
「なあ、嬢ちゃん。アンタも賢い子だ。わかってるだろう?
こいつは破滅する。アンタのために」
「そうね」
黙っていた少女が、口を開く。
いつものように棘のある言葉で、だがかすかな震えを声音に乗せて。
冷たい鎌のようにすずやかな声で、征矢野を難詰した。
「彼には将来がある。それを守るためには戻らないといけないわね。
代わりに、私の将来を破滅させて」
「まあ……それは、な……」
ぐりぐりと髪をいじる手つきが荒くなったのは、
彼にとっても痛いところだからだろう。征矢野とて、悪い奴ではない。
彼女を取り巻く状況が望ましいものではないと、彼もわかってはいるのだ。
「――今どき、親が決めた政略結婚に娘が従わなけりゃいけないなんて、
時代錯誤だってーのは……ああ、認めるよ。
それに相手も――んん」
うっかり口をすべらせそうになるも咳払いでごまかす。
征矢野が言いたいことは天津もわかった。彼女が婚約させられた相手は、
見目はともかく中身は腐っている。
「父は、充分に儲けた。次は政界にパイプを作りたいのよ。
いえ、娘をパイプにしたいの」
「……別にそれを肯定しているわけじゃない」
「あらそうなの? 下妻財団の従順な飼い犬さん」
「……警察は企業の飼い犬じゃないよ」
いつもながら毒が含まれた彼女の言葉に征矢野が鼻白む。
強く言い返さなかったのは大人としての矜恃というより、
先ほどの自分の言葉にしっぺ返しをくらったからだと理解していたからだろう。
「……確かに嬢ちゃんが嫌がるのもわかるし、やめさせるべきだとは思う。
だが、なあ、何も今すぐ結婚ってわけじゃないんだ。
まだ何年も先の話で、それまでに何とかすれば――」
「そうね。父も大学までは通わせるつもりらしいし」
「だから――」
「でも、『結婚を前提としたお付き合い』は始まるの。
その意味、わからないほど箱入り娘じゃないつもりなのよ」
少女がぎゅっ、と袖をつかむ手に力を込める。
そのちいさな白い指に、自分のごつごつした指をそっと重ね合わせる。
強い言葉で言いつのってはいるが、彼女――下妻鷹姫もおびえているのだ。
ここでもし、連れ戻されたら――その恐怖が、彼女の小さな身体を震わせている。
「警察は、性犯罪を推奨しているのかしら」
「性は――いや、あのな。あー……」
直球にぶつけられた言葉に鼻白みながらも征矢野が何か言い返そうとするが、
そこで声が詰まった。それはそうだろう。
鷹姫が婚約させられた相手の噂は彼も知っている。『婚約者』という大義名分を得た
あの男が彼女に何をするか――それこそ火を見るより明らかだった。
「~~~~~~! ああ、わかったよもう!
確かにお嬢ちゃんには逃げる権利がある、そいつは認める!
だがな、天津!」
口では彼女にかなわないことを悟り、こちらへと矛先を変えてくる。
口下手な自分の方が与しやすいとみたのだろう。
だがそれは誤りだ。
「それにしたってこんな方法があるか、ええ!?
おまえ今年いくつだ!?」
「33だ」
「そうだよ、33歳! 三十路を越えたいいおっさん、警視庁のエリート様だ!
そのエリート様が――
14歳の少女に懸想して、駆け落ちってのはどうなんだ!?」
「それについては、面目ないな」
征矢野からしたら痛いところを突いたつもりだろうが、
実のところどうとも感じなかった。
そう。自分はこの少女に恋をしている。
19も年下の女性を、愛している。
それはきっと他の誰から見ても滑稽で、おそらく政略結婚と同じくらい
許されざる想いのはずだ。
だが、彼女は受け入れてくれた。
あの日出会ってからずっと、受け入れつづけてくれたのだ。
「一つだけ言っておくが、純愛な関係だ」
「んなこた聞いてねぇんだよのろけ野郎! 手ぇ出してたらロリコン野郎に
格下げだからな、わかってんのかこのアホ!」
強い雨音に負けないよう大声でがなり立てる征矢野。
こればかりは、彼に同情する。親しくしていた同僚が、未成年と密通していたなど
彼自身のキャリアにすら影響しかねない。
ましてやお互い、警察官と言う身分なのだから。
「お前だって――いや。お前自身は破滅してもいいんだろうな。
その嬢ちゃんを救って、添い遂げられればよ。
だが周りのことは考えたか? お前さんの家族はどうだ。
両親のことは考えたのか?」
「……」
少し、違和感を覚えた。
現実主義者の彼らしい言葉に見えて、友人として知っている彼の説得方法には思えない。
「なあ、さっきも言ったろ。今すぐどうこうされる、どうにかなるってわけじゃ
ないんだ。確かに、あのスケベ野郎と婚約するなんて身の危険を感じるのは、
そりゃあわかる。だが、なにもこんな手じゃなくたってやりようはあるだろ?
三十路も過ぎた男が、駆け落ちなんて古臭い――」
「なあ征矢野。やっぱりお前、飼い犬なんだろ?」
ぐしゃり、と髪をかきわける手が止まった。
薄く張り付いた笑いを手元で隠し、天津は征矢野の様子を見る。
「おかしいものな。その手紙、鷹姫の私室に置いたはずだったんだ。
それをおまえが真っ先に見つけるってのは――理に合わない」
「……」
ぴっ、と髪からつたった滴を征矢野がはじく。
さきほどとはまた違った色の苦さを、顔に浮かばせていた。
「考えてみれば婚約が成立したばかりの娘が、二十近くも年上の男に誑かされて
駆け落ちした――なんて知られたくないのは、父親も同じはずだ。
うまく丸め込んで、内々に収めるよう頼まれたのか?」
「……」
「見返りは、なんだ。出世――を約束できるコネは、まだあの男にはないか。
この婚約で結ばれる政界の繋がりを担保に、将来的なツテにでも――」
「そこまで見くびるんじゃねぇよ」
今度の言葉に込められた怒りは、本物だった。
濡れた指先を乱暴にスーツでぬぐいながら、征矢野が吐き捨てる。
「俺がとりつけたのは、全部なあなあにしろって約束だ。
何もなかった、警視庁にロリコンなんていなかった。それで済ませる。
それを条件に、説得を引き受けた」
「彼女を犠牲にしてか」
「さっき言ったことは嘘じゃねぇよ。今すぐどうにかなるって話じゃないんだ。
もっとクレバーなやり方を思いつけよ」
「それはどうかしら」
一歩身を引いていた下妻が、口を挟んでくる。
「あの父のことだもの。相手が変な心変わりをしないよう、
同衾ぐらいならさっさとさせてもおかしくないけど?」
「悪いがそいつぁ自分の父親を恨みな。
俺は最終的な勝利を収められれば、過程には目をつぶるのが賢いと思ってるよ」
「……お前は現実的な男だよ、征矢野」
「そいつが誉め言葉じゃないってわかる程度にデリカシーはあるつもりだぜ、天津」
どこかに緩んだものがあった空気が一変し、ぴりぴりと張り詰めてくる。
征矢野は用心深い男だ。"絶対に連れ帰る"という意志があるとわかった以上、
多少手荒い真似にでてくることは考えられた。手勢もいるかもしれない。
「見逃してくれ、征矢野」
「言っただろ。周りのことは考えたのかって。
今回の件で、警視庁は――いや、お前の上司や部下も、どんな目で見られるか。
そいつを考えもせずに動いたてめぇの浅はかさを省みろよ」
そう言われれば、天津としても反論しがたい。
征矢野の言うことにも一理はあるのだ。大の大人として、浅慮な行動ではあった。
それでも、彼には彼女があんな男のものにさせられるのが許しがたかったのだ。
「征矢野――」
ばしゃり。
時間稼ぎのためにさらに言いつのろうとした天津の耳に足音が届いた。
びくりと撥ねた少女の恐怖を感じながら彼自身強張るが、向かい合った征矢野の
顔を見て敵ではなく味方がきたのだと察する。
「八雲か!」
「くそ! やっぱ、お前もそっち側だったんかよ!
わかっちゃいたけどさあ!」
くやしそうな征矢野を尻目に振り返る。
果たしてそこには八雲――自衛官の巨漢が雨でずぶぬれになるのもおかまいなしに
立ち尽くしていた。
だが、その表情は異様に硬い。
「逃げろ」
いつもながら八雲の言葉はシンプルだった。
だからこそ意味をはかりかね、天津は聞き返した。
「何?」
「いますぐここから離れろ」
強くしがみついてきた下妻の手を握り、険しい表情で確認する。
「追手か?」
「違う」
質問を否定され、さらに面食らう。その時天津は初めて気が付いた。
豪雨にさらされ、黒くずぶぬれになった八雲のスーツ。
そのあちこちに、さらに黒い染みがついている。
「お前――怪我しているのか!?」
「お前も逃げろ」
演技には思えない驚愕の声をあげる征矢野にも、八雲が告げる。
鷹姫が震える声で、確認する。
「まさか、父が――父が、関係者を消そうと……!?」
「違う」
その答えに、今度こそその場にいる全員が混乱した。
いったいこの巨漢は、何を言っているのか。
「違う。そうじゃない。
俺たちとは、まったく無関係のナニカだ」
「な――なんだ。ナニカって、一体――」
「知るか! とにかく、走れ! ここから――」
鬼気迫る声で叫んだ八雲の声がとぎれ、かわりにゴボリという水音が口から溢れる。
一瞬何が起きたのかわからなかったが――どしゃり、と男が膝をついて崩れて
ようやく理解する。
その分厚い胸板から、何かが突き出ている。いや、人の腕だ。
血まみれの腕が、八雲の胸から生えていた。
「おいおい、それじゃ人間は死んじまうぞ。
オレたちとは違って、デリケートなんだからなあ」
場に似つかわしくない軽い声が、背後から響く。
胸から血を流して雨の中に血だまりを作っていく八雲からゆっくりと視線を外し、
再び後ろを――征矢野がいる方を、向いた。
べぎり、とイヤな音が耳に入る。それが天津を止めに来た同僚の、
首の骨が折れる音だと理解できたのは――変な形に曲がった彼の首を、
誰かが握り締めているのが目に入ったからだ。
「ほら、こうやるんだよ。こんな風に、死なないようにな」
「了解シマシタ」
人を縊り殺したとは到底思えない気楽な声で、その『誰か』が教える。
その相手はおそらく八雲の胸を貫いた者なのだろう、だが返事をしたその声は
まるでボイスチェンジャーを使用したかのように抑揚のないものだった。
恐怖にひきつる鷹姫を抱きしめながら、呆然と征矢野の首を握る男を見る。
いや、男なのか女なのか、区別できない。
その相手は、中心に赤い光を灯した妙なフルフェイスヘルメットを被っていたから。
「ああ、心配するな。
話は聞いていたが、オレたちは別にアンタらを連れ戻しにきた追手じゃあない。
むしろ父親の手が届かないところに連れて行ってやるから、安心するんだな」
鷹姫を脇に抱え、踵を返して走りだそうとする。
だが振り向いた瞬間、目の前にあの赤い光があった。
がしり、と首に手がかかる。
「――悪いなあ。特段、アンタらに目をつけてたわけじゃないんだが。
たまたま、狩りに来たのがここだっただけでな」
「~~~~~~!!」
何を言っているかわからないが、なんとかその手から逃れようと暴れる。
が、びくともしない。到底、人間の力とは思えないほどの膂力で掴まれているのだ。
息がつまり、意識が遠のいていく。それでも、鷹姫をつかんだ手は離さない。
滅多に声を荒げない育ちのいい彼女だが、今は錯乱したように泣きわめいている。
その声に混じって、目の前の仮面が何かを呟いているのが聞こえた。
「――ああいや、むしろこれは都合がいいのか?
どうやらこいつは警察官僚のエリートらしいし、成金にもつながりがある――
ふむ、一人はそのまま連れ帰ってみるか――」
視界が暗くなる。全身の感覚が消え失せ、繋いだ手の感触さえもなくなり――
・・・
――ヒュドールは微睡からゆっくりと醒めていった。
「……懐かしい夢だ」
もう二十年近くも昔の夢を、見ていた気がする。
ゆっくりと手を持ち上げる。その姿は、人間天津稚彦のものではなく
アルカー・ヒュドールとしてのものだ。
最近は――警視庁を離れ、フェイスダウンからさえも離脱して改人たちの長に
なってからはほとんど、人ではなくヒュドールとしての姿でいる。
理由付けはいくつもある。が、心の奥底では別の思いがあった。
「……今の私は、人間なのか、ヒュドールなのか」
手をかざして、見つめる。
その疑問は人によっては――例えばあのアルカー・エンガやノー・フェイス、そして
彼らを取り巻く仲間にとっては、つまらないものだろう。
だがヒュドールには……天津稚彦には、どうしても気になることだった。
今の は、人なのか。それとも――
・・・




