⑨ 決別
頬に走った鈍い痛みに、レヴェリーに叩かれた一撃よりも重いなと、どこか他人事のように思ってしまう。
口の中はあの時よりも、鉄の味が酷い。
ミネレーリは拳で殴ってきた父親を一瞥して、無言でハンカチを取り出した。
血を出せば予想よりも多く、養母が悲鳴を噛み殺す。
「気がすまれましたか? お父様」
「この恥知らずがっ……!」
なにが恥知らずなのか、ミネレーリにはわからなかった。
理不尽に娘に手を上げるほうが、よっぽど恥知らずではないのだろうか。
怒りに肩を震わせている父親を見ても、ミネレーリはなんの感情も動かされはしない。
ただ滑稽だと思うだけだ。
「恥知らずなことはなに一つしておりませんが? 私よりもリリーローザのしたことのほうが問題があるようでしたね。リリーローザ、貴方なにをしたの? ミンティがとても怒っていたわ」
口元にハンカチをあてたままリリーローザに問いかければ、青白い顔をさらに青白くさせてリリーローザはミネレーリを見る。
父親は憤怒を隠しもしなかったが、そのミネレーリの言葉に顔色を変えたのがわかった。
舞踏会には父親も養母も出席していた。ミネレーリよりリリーローザのしたことを理解しているのだろう。
舞踏会でカクトスに求婚されたものの、ミネレーリはあまりのことに頭が回らなくなってしまった。
そんな様子にカクトスは返事は急がないと告げて、ミンティにミネレーリを任せたのだ。
今日はガルテン公爵家に泊まらせたほうがいいとシェルツに耳打ちまでして。
けれど、いったんヤヌアールの屋敷に帰って父親がどう行動にでるのかミネレーリは知るべきだと思ったし、避けては通れないことだと思い、心配するミンティを説得してヤヌアール家に戻ってきた。
結果は予想通りだったが。
それよりもミネレーリには気になることがあった。
ミンティが帰り際、リリーローザのことを淑女として恥ずかしいと言い、顔を顰めさせたのだ。
ミンティは口が悪いが公爵夫人として立派な立ち振る舞いを心がけている。
誰かになにか思うところはあっても、あまりにも酷くないかぎり本人に言うことは決してない。
リリーローザのことは昔から諦めている節があり、ミネレーリに愚痴っても、それだけだったのだ。
なのに今日のミンティの顔は、いずれリリーローザに正式に注意するという意思表示だとミネレーリは察した。
そこまでミンティが怒ることをした理由を、色々な出来事のせいで聞きそびれたミネレーリは直接リリーローザから聞こうとしたのだが。
当の本人は青ざめたまま、なにも言おうとしない。
「ミンティは貴方のことだけは私に任せてくれていたわ。けれど、今日のあの様子からすると正式に抗議をすると思わざるお得ない。公爵家からの抗議がどういうものかわかっているの?」
格下の伯爵家に公爵家からの抗議。
それがどれだけの醜聞になるかわかっているのかと暗に問えば、リリーローザの瞳から涙が零れてくる。
泣くのではなく、話を聞かせてほしい。
「だって……アモル様が…………! わたくし、気付いてほしくて…………!」
まったく要領を得ない言葉に頭痛が再発してくる。
ミネレーリはなにをしでかしたのかを聞きたいのだ。
言い訳を聞きたいのではない。
「リリーローザ。なにをしたのかを私は聞きたいと言っているの」
いつもと違うミネレーリの強い口調に、大袈裟にビクついたリリーローザに父親が間に割って入ってくる。
「お前はまだ妹を苦しめたいのか!」
「ではこのまま正式な抗議がガルテン公爵家から届きます。私には一切関係ないことだとご承知ください」
その冷静なミネレーリの口調に父親の怒りは頂点に達したのだろう。
再度振り上げられた手を無感情にミネレーリは見ていた。
避けようと体をずらそうとした刹那、その冷たい声は応接間に響き渡った。
「わたしの目の前でミネレーリに手を上げたら、ガルテン公爵家が黙っていませんから」
「ミンティ?」
応接間の扉の前にいたのは、先ほど別れたばかりのミンティだった。
その後ろでは執事が慌てた様子で父とミンティを交互に見ている。
無言で入ってきたミンティはミネレーリの傍まできて、頬を優しく撫でてくれた。
「……どうしてこうなるってわかっていて帰るなんて言ったのよ」
「避けては通れないことでしょう?」
叫びだしそうなミンティを宥めるように言うが、きっと怒りはおさまってはくれないだろう。
「わたしに聞けばよかったでしょう。リリーローザのしたことを」
それが目的で帰ってきたと思っているミンティに緩く首をふる。
そのことが、すべてではないと伝えるために。
なんとなくだが察したようなミンティは複雑な表情をしながら溜め息を一つはいた。
「カクトス様に詰め寄ったのよ。お姉様に騙されていますって」
「……ええっと」
「舞踏会の時のことでしょ。リリーローザがカクトス様にお姉様に騙されているんです。目を覚ましてくださいって詰め寄ったの。アモル様がわたくしのことでお姉様が、あることないことカクトス様に吹きこんでいるって聞いたんですって。呆れを通り越して笑ったわよ、わたし」
せっかくおさまりかけていた頭痛が襲ってくる。
絶対に後で薬を飲もう。
ミネレーリは額に手をあてながら、現実逃避を試みていた。
「シェルツがカクトス様は騙されていないって何度言っても聞かないんだもの。しまいにはカクトス様の服を掴むし」
公爵家当主の言葉を否定するなんて。
顔見知りではあるけれど、シェルツは公爵家当主。リリーローザは伯爵家の令嬢だ。
シェルツが普段温厚で優しいからミンティと違ってリリーローザは安心していたようだが、立場はまるっきり違う。
しかもカクトスと友人同士でもあるシェルツの発言を信じないとは。
「で、さすがにカクトス様が怒ったのよ。令嬢にあまるじき行為だって。姉を乏しめる発言も聞いていて不愉快だって」
その光景が目に浮かぶようだ。
リリーローザはボロボロと泣いていて、養母が必死に落ち着かせようとしている。
「わたしもさすがに不愉快だったから抗議しようと思ってたのよ。当然でしょ。従妹をバカにされたんだから」
「わ、わたくし…………そんな……つもりじゃ……」
「ミネレーリがリリーローザを酷く言ってる? なによ、その妄想。わたしからすればあまりにも寛大すぎる姉だと思うわ。他の御令嬢達もそう言ってるわよ。ミネレーリ嬢は苦労していますねって」
「え……?」
「ミンティ……」
瞠るリリーローザに、ミネレーリはミンティを止めようとするが、やめる気はさらさらないのだろう。
リリーローザに厳しい視線をむける。
「バカな男に簡単に騙されそうになって、いつもミネレーリが庇って。リリーローザの不始末もすべてミネレーリがして。なのにそれをすべき父親と母親はミネレーリは姉なんだから当然だと放置。ヤヌアール家でまともなのはミネレーリだけって噂が流れるほどよ。知らなかったの?」
「私の耳に入らないようにしてくれていたんでしょう?」
ミネレーリだって言われていた。都合のいい姉で、あんな風にはなりたくないと。
だからこそミンティが噂がミネレーリの耳に入らないようにしてくれていたのを知っている。
結局はミネレーリの耳に入ったが、ミンティの行動が、とても嬉しいと思えたことだった。
ミンティは恥ずかしいのを隠すように、ミネレーリから顔を背ける。
「ミネレーリがなにも言わないから今まで我慢していたけど、もう限界。今日をもってミネレーリをガルテン家に引き取ります。お祖母様もご承知済みよ。それでは失礼いたします」
「……公爵夫人が勝手に決めてもいいという道理でもあるのですか?」
顔を盛大に顰めた父親を放って、ミネレーリの腕を掴んで出て行こうとしたミンティに、父親が低い声を出す。
そんな怒りののった声にも、ミンティは鼻先で笑い飛ばす程度だ。
「夫が話をつけてくれますわ。ねえ、シェルツ?」
「置いて行かないでほしいな。馬車を飛び出したと思ったら、すぐに見えなくなったから困ったよ」
困ったと言っているのに、全然困っていない、むしろ楽しそうに笑っているシェルツが応接間に顔を出した。
まさかシェルツまで来ているとは思わなかったミネレーリはミンティを見て説明を求めようと思うが、ミンティはすぐにこの場を去りたいのだろう。シェルツに後はよろしくと言って、ミネレーリの腕をひく。
このままガルテンの屋敷に行けば、ヤヌアール家に戻ってくることはもうないだろう。
だからなのか、ミネレーリはミンティを引き止めた。
「ミネレーリ?」
振り返って部屋の中で、未だ立ったままの父親を見ると、まだ怒りのせいか顔が赤い。
聞きたかったことがあった。
でも、きっと答えてはくれないだろうから、ずっと胸の内にしまっておいたもの。
「私を愛せないのなら、お母様と結婚などしなければよかったのに、なぜしたんですか?」
父親と養母が面白いぐらいに顔を強張らせる。
今までミネレーリはこんなことを言ったことはなかった。
押し黙る二人は話す気など微塵もないのだろう。それが答えなのだと知っていても、ずっと聞いてみたかったのだ。
「お母様が嫌なら全てを捨てればよかっただけだと思うのは、私の甘い考えなのでしょうか?」
貴族はなにもかもそう簡単には捨てられない。
それでも王都から追いやるぐらいなら、愛せないミネレーリを産ませるなら、捨てたほうが何倍も楽ではなかったのだろうか。
父の祖父母は亡くなるまで、いつも申し訳なさそうにミネレーリを見ていた。
いつも謝っていた。
罪悪感だらけで亡くなっていった父の祖父母のことを、父も養母もなんとも思わなかったのだろうか。
そんなことを考えて、ふと苦笑してしまう。
ミネレーリだってなんとも思っていなかったではないか。人並みに感情を持たないミネレーリがなにか言えるわけがない。
『お姉様!』
もう出て行こうとミンティを促そうとした時、記憶の底から可憐な声が蘇ってきた。
リリーローザを見れば、未だ泣いていて養母が背を擦っている。
ミネレーリが見ていることに気付いたリリーローザは、肩を震わせてますます泣いてしまう。
『お姉様! お姉様にリリーがつくったの!』
まだヤヌアール家の屋敷に来た頃のことだ。
あまり会わせないようにしようとする養母の目をかいくぐって、リリーローザは庭園の花で編んだ花冠をミネレーリに差し出してきたことがあった。
躊躇いがちに花冠を頭にのせれば、リリーローザは無邪気に笑ってミネレーリの手を握ったのだ。
『お姉様! とってもにあってる! きれい!』
お返しにとミネレーリも花冠を編んでリリーローザに渡せば、もっと喜んだ。
『お姉様! 大好き!』
「リリーローザ、貴方は変わってしまったわね。私は貴方だけは……家族として愛していたわ」
あの頃のままでいてくれたなら。
叶わない願いだとわかっていても、寂しい。
リリーローザの顔を見ずに、そのままミネレーリはミンティとともに屋敷の前に止まっていたガルテン公爵家の馬車に乗り込んだ。
「……さようなら、リリーローザ」
決別の言葉が口から滑り落ちた。




