⑬ 二度目の出会いで知る願い
偶然だった。
それを聞いてしまったのは。
その日はリリーローザと養母はオペラを観劇に行っていて、比較的自由に屋敷内を動くことができる日だった。
ミネレーリ自身気にはしていないが、面倒なのも嫌なので、父達の部屋がある辺りには近付くことは普段しない。ミネレーリの部屋は屋敷の奥の奥にあり、故意に父が遠ざけたのだと引き取られた時からわかっていた。
それすらも興味がなく、最初は不憫な目でミネレーリを見ていたメイド達はミネレーリのあまりの父達への関心の無さに、ひそひそと噂話をするようになって。
本当は強がっているだけだという意見と、いや、母親を死に追いやった父を憎んでいるのではという意見に最終的にわかれていたが、どれも違う。
父に興味がなかった。
養母にはそれ以上に。
リリーローザには……不思議と愛おしさがあったが、もう忘れてしまって思い出せない。
ちなみに噂をミネレーリに教えてくれたのはミンティだった。
ちょっとメイド頭をつつけばすぐに話してくれたと笑っていたけれど、ミンティを見る度に怯えるメイド頭を見て脅したのだなと嘆息した。
そのことを思い出して、ミンティには、あまり過激なことはしないように頼むしかないか、でも聞いてはくれないだろうなと思いつつ書庫から自室へと一番近い応接室の前を通った時、
『もうここに来るなとは、どういうことだ!?』
いつもは父とすれ違うのを避けるために通らない廊下だった。
今日は二人が出かけているために書斎に籠って仕事をしているのだとメイドが言っていたから通った廊下の前方に見える応接室から、何度か聞いたことのある男性の怒声が聞こえたのだ。
ゲヴィヒト・ぺザンテ子爵。
父と養母の昔からの旧友で、父と同じ歳なのに未だに結婚をしていない貴族としては珍しい人物。
子爵家は事業を手広くやっていて、資産もかなりのものだと小耳にはさんだことがある。女遊びも激しいから、結婚をする気がないのかもとお金を食い潰して破産寸前の貴族が負け惜しみで嘲るように言っていた。
けれど、それは違うとミネレーリは知っていた。
ぺザンテ子爵は養母に好意を抱いている。
そんなのは最初に出会った時、養母に向ける恋慕の視線ですぐに気付いた。
おまけに子どものミネレーリを睨んでくるので、母に対して、よほどいい感情を持っていないのだとも。
お見合い話も沢山あっただろうに、ぺザンテ子爵はそれを全て断り、養母だけを瞳に映す。
盲目で愚かだけれど、養母に無理じいをしたくはないのか気持ちを打ち明けることはなかったようで、ぺザンテ子爵にいつも養母は麗しく微笑んでいた。
父はぺザンテ子爵の想いを理解していたくせに放置の姿勢で。
きっと優越感というのもあったのかもしれない。
爵位は上なのに財力では劣る友に対する。
そんなぺザンテ子爵は養母によく似ているリリーローザを大変に可愛がっていた。
毎月リリーローザにはぺザンテ子爵から贈り物が届き、それはどれも高価なもので。
その贈られてきた物を抱きながら笑うリリーローザに危機感を抱いたのは、数年前からだっただろう。
年々養母に似てくるリリーローザに向けるぺザンテ子爵の目が、なにか気味の悪いものを孕んでいるとミネレーリは感じ取り、父の了承を早々に取り付けて、リリーローザとぺザンテ子爵の距離を離した。
『おじさまは素敵な方なのに、どうして近付いてはいけないの?』
リリーローザは不満がったが、父も反対していると言えば納得はしないもののミネレーリの言葉を聞いてぺザンテ子爵とは会わなくなった。
けれど、ぺザンテ子爵はそれに抗議をしてきて。
何度も何回も養母とリリーローザがいない時を見計らって、父と話し合いの場が設けられていた。
『言葉の通りだ。もう話すことはなにもない。今後一切ヤヌアール家とは関わらないでくれ』
父の硬い声が聞こえる。
話し合いが平行線になるのは目に見えていたし、いずれこうなることもわかっていたが、タイミングが悪いとミネレーリはげっそりとした。
『私が気付いていないとでも思ったのか? お前がリリーローザに向ける邪な目を』
『……っ!』
『お前が妻に長年想いをよせているのは知っていた。だが、それを告げることは一切せずに私達に接してくれていたから、付き合いを続けてきたのだ』
白々しいと思わずにはいられなかった。
優越感に浸りたいから、危うい関係を続けてきたの間違いだろうにとミネレーリは思う。
『だが、まさかリリーローザを身代わりにしようとしているとは思わなかった』
『違う! そんなつもりなどない! 彼女は彼女でリリーはリリーだ!』
『娘を愛称で呼ぶな。吐き気がする』
『わたしがどれだけお前に力を貸してきたと思っているんだっ! そのわたしにこの仕打ちか!?』
『いつも感謝していたさ。それは言葉にもしていたし、礼もしていたはずだ。その気持ちを無下にされるとは思わなかったぞ』
『だから、違うと言っているだろう!』
『違わない。さあ帰れ』
『あの娘か!? あの娘がお前にあることないこと吹き込んだんだな!?』
平行線の会話を続ける二人の話しに、いきなりミネレーリが登場させられて軽く瞠ってしまう。
あの娘などとぺザンテ子爵が指すのは、この場においてミネレーリしかいない。
八つ当たりもここまでくれば滑稽の極みだ。
もう気持ちの悪い会話など勝手にやってくれと、ミネレーリが応接室を通り抜けようとした時だった。
『あの娘はわたしを恨んでいるんだ! あの女から贈られた雑巾のようなマフラーを目の前で暖炉に放り込んでやった時から!』
足が止まった。
その後も応接室からは耳障りな大声が響くが、もうミネレーリの耳には入ってこない。
崩れていた記憶が形をなして、ミネレーリの元へと戻ってくる。
忘れていた。
そういえば、あのマフラーはぺザンテ子爵に暖炉に放り込まれたのだ。
放り込まれても顔色一つ変えないミネレーリを気味の悪い顔をして見た後、思っていた反応が得られなくて悔しそうにミネレーリの前から去って行った。
燃えてゆくマフラーをミネレーリは、ただただ見つめて。
忘れていた。
忘れるような些細なことだった。
なのに…………。
気付けばミネレーリはいつも訪れる湖の近くのベンチに腰かけていた。
読書をするでもなく、編み物をするでもなく。
ミネレーリは湖を見ながら、漣のように波紋を広げている心を持て余していた。
あのマフラーを母から渡された時、父への贈り物だとわかっていても、失敗したからミネレーリに渡されたとわかっていても、胸になにか暖かいものがあった。
あのなにかがミネレーリにはわからない。
けれど、それが今ミネレーリを蝕んでいる。
暖かさではなく、黒い靄になって。
わからないから。
どうしてなのか、わからないから。
「君は忠告を聞かない人だね」
ふと気付けば、馬の手綱を握りながら、呆れ顔でこちらにやってくるカクトスがいた。
「こんなところに一人でいたら危ないと注意したはずだけどな、僕は」
「……申し訳ございません」
最低限の礼をとり、けれど心はうわの空だった。
そんなミネレーリを見抜いたのだろう。
「どうかした? なにか様子が変だけど」
「いえ…………なんでもありません。お気になさらないでください」
否定の言葉を紡いでも、カクトスは信じていないのか難しい顔でミネレーリを見ている。
早くここから立ち去ってしまえばいい。
そう思うのに、体が動いてくれない。
離れない。
離れられない。
答えがもうすぐでわかりそうで、でも、その答えを知るのを躊躇っている気がした。
カクトスから視線をずらして湖に向けると、母が亡くなった日のことが思い出されてくる。
そういえば、母を探しに出た朝方もこんな風に落ち着かない気持ちではなかっただろうか。
「君が思い出しているのは大切な人なんだね」
「……たいせつ、な人……?」
カクトスに目を向ければ、優しく微笑んでいた。
「最初にここで会った時と同じ表情をしているよ。大事な人を思い出しているんだよね」
ミネレーリにとって母とは気薄な存在だった。
今も昔もその事実は変わりようがない。
『……ありがとうございます。あの、お母さん……ずっと……』
記憶の蓋が無理矢理にこじ開けられる。
マフラーを渡された時、ミネレーリは言いたいことが最後まで言えなかった。
ずっと?
なにも母に求めてはいなかった。
だって母が求めているのは父だけだったから。
そんな母を傍で見て。
なのに、ミネレーリは確かに母に願い事を口にしようとした。
ただ…………。
「どうしたの!? ミネレーリ嬢!?」
いつの間にか目からは大粒の涙が零れていた。
急に泣きだしたミネレーリに慌てるカクトスを気遣うふりすらできないまま。
ミネレーリはずっと声も上げずに、泣き続けた。
母に願ったことは一つだけ。
一緒に居てほしい。
ミネレーリはそう言いたかったのだ。
ミネレーリを見なくても、狂っていても。
一緒にいてくれれば、それだけで。
涙は止まることはないのに、嗚咽は一切出なかった。
カクトスがいるから俯いて止めようと必死だったが、泣きやむまで随分と時間がかかってしまって。
その間、カクトスはミネレーリの傍らでなにも言わずに立ち続けていた。
『わたくしを誰かと重ねている人の手はとりたくないわ』
「レ、ヴェリー、殿下……」
「ミネレーリ!? 目が覚めたの!?」
視界に入ってくる光が眩しくて、ミネレーリは目を細める。
ぼやけた輪郭しか視認できなかったが、傍にいてくれたであろうミンティの泣きそうな声が聞こえて。
重たい瞼がまた閉じようとする。
その通りです、レヴェリー殿下。
私は貴方様に母を重ねていたのです。
眠りに落ちていくと感じながら、ミネレーリは一滴、瞳から溢れるものを止めることはできなかった。




