⑪ それは狂喜
父親に殴られた頬は数日間腫れ、ミネレーリはレヴェリーに叩かれた時より十日も屋敷の外には出れず、静養を余儀なくされた。
その間におこなわれた、ヤヌアール家との話し合いをメイディアがすべて済ませ、ミネレーリは正式にガルテン公爵家の一員となり。
話し合いの席は、さながら戦場だったとシェルツは笑っていた。けれど、圧倒的戦力差はガルテン家にあったのは確実で、勝利したよとウインク付きで微笑まれ、そんなシェルツを鬱陶しいとミンティは蹴り倒していた。
色々な問題が片付いていく中で、人前に出れないために事情をカクトスに伝えたところ、毎日のように贈り物がガルテン家に届き。
贈り物を手渡される度にミンティの言葉を思い出して、ミネレーリは複雑だった。
恋や愛とは違う。
けれど、嫌われたくはない人。
確かにそんな人はミネレーリにとって貴重な存在だろう。
けれど、求婚をしてきている相手に失礼なのではないだろうかとも思うのだ。
きっとカクトスはミネレーリが、待ってくれと言えば待ってくれる。
それでも答えがでなかったら?
「すごい顔してるわよ。今までに見たこともない顔だから面白いと言えば面白いけど」
ミネレーリが悶々と考え込んでいると、夕食を運んできたミンティが笑ってくる。
「自覚しなさいと怒ったのはミンティだったと思うのだけど?」
「言ったわね。でも、そこまで考え込めとは言ってないわ。ミネレーリがそこまで考えるとは思わなかったもの。……もう答えは出ているようなものなのにね」
最後のほうのミンティの声は小さくて聞き取れなかったミネレーリだったが、ミンティが特に気にした様子もないのでミネレーリに向けてではなかったのだと思い、遅めの夕食をとろうとした。
「あ、待って! ミネレーリ、今週中には医者から外に出てもいいって許可がおりそうって言ってたわよね」
「ええ。腫れもだいぶひいたし、後三日もすれば痛みもなくなると思うわ。お祖母様が少し大袈裟に言ってしまったから、お医者様も今週までは屋敷から出ないようにと言っているだけだし」
ほとんど治っているガーゼが貼られた頬をさすれば、じゃあ、とミンティは続ける。
「来週の最初の日なんだけど、テーヴィア殿下がミネレーリに会いたがっているのよ。城に上がる準備をしておいて」
「テーヴィア殿下が?」
「そう。従兄のカクトス様がミネレーリに求婚したことを知って、是非お会いになりたいんですって。経緯とか聞いてみたいんじゃないの?」
固まったミネレーリにミンティは意地の悪い笑みを浮かべる。
「わたしも聞いてみたかったしね。そういうことミネレーリは絶対話してくれないけど、テーヴィア殿下になら話すだろうから」
「……ミンティはその場にいないでほしいわ」
「無理な相談ね~」
テーヴィアがミネレーリに会いたいと言っているのであれば会わなければいけないし、カクトスとのあれこれも隠し立てはできないだろう。
でも、ミンティには知られたくない。テーヴィア殿下に二人きりになれないかお願いしてみようか。
「二人きりでなんて考えないことね。わたしも同席しますってテーヴィア殿下には、もうお伝えしているから」
従姉は恐ろしい魔女かもしれない。
「なにか失礼なこと考えたでしょ?」
こ・わ・い。
「ミネレーリ~」
優しく微笑む顔をつくるミンティのきつい眼差しを避けて、食事を口に運ぶ。
そんなミネレーリに睨み続けていたミンティは諦めたのか溜め息をつく。
「そういえば、最近城に上がる度にブラインド王国の使者が出入りしているのよね。ゴタゴタの後片付けだとは思うんだけど、レヴェリー殿下には会わないようにしていてほしいわ」
「まだ元王太子様のことを想っていらっしゃるのかしら?」
「そうみたいよ。近頃は大人しくなったそうだけど、前までは日に何度も元王太子様の名前を叫んでは暴れていたそうだから」
そこまでレヴェリーを突き動かす感情がミネレーリには理解できない。
恋をしていた。
それだけで狂うほど人に執着できるのはどうしてなのかと思ってしまう。
母もどうして、自我を失くすほど父を恋うていたのか。
食事をしながらも、ミネレーリは母とレヴェリーを交互に思い出しては考え続けていた。
でも、レヴェリーは母とは違う道を行く。
元王太子とはこれから会うこともないのだし、時間がかかっても、前を向いていくだろう。
そうミネレーリは思っていた。
それが浅慮な答えだとは思いもせずに。
間違いだと気付いたのは、頬の腫れがひき、テーヴィアに会うために登城した時だった。
ミンティはすでにテーヴィアに社交を教えるために先に城に上がっていた。そのため、ミネレーリ一人、ガルテン公爵家の馬車で城へと着いたとき、ミネレーリを待っていた人物がいた。
「レヴェリー殿下……!」
驚いたのも束の間、ミネレーリの姿を見つけると、レヴェリーは駆け寄ってきた。
礼をとると、すぐに「まあ、顔をあげて!」と涼やかな声がかかる。
以前話しかけられた声は綺麗だったが、硬く他者を値踏みするような高圧的なものだったのに、今日は優しく穏やかで、あまりの違いにミネレーリは顔をあげる瞬間に気をひきしめた。驚きすぎて粗相をしないようにと。
レヴェリーはにこにこと満面の笑みで笑っていた。
まるで幼子のようでいて、女性らしい艶やかな笑み。
ミネレーリは背筋になにか冷たいものでも押し当てられたような感覚がした。
だって、この笑みは……。
「先日のことをどうしても謝罪したくて待っていたのよ」
「恐れ多いことでございます。全ては私の落ち度がまねいたこと。レヴェリー殿下がお気になされることなど、なにもございません」
「そういう謙虚なところは素敵だけれど、わたくしの立場もあるのだから謝らせて? 本当にごめんなさいね」
謝罪を受け取っている間、ミネレーリの手は微かに震えていた。
記憶の片隅で眠る箱の中で、レヴェリーと同じ顔をした人が笑っている。狂喜している。
『旦那様! 旦那様からの手紙! きっと許してくださったんだわ!』
「わたくし色々と考えて反省しましたのよ。今度ゆっくりとお話でもしましょうね。ヤヌアール伯爵令嬢、いえ、今はガルテン公爵令嬢でしたわね」
「レヴェリー殿下……! 不躾なことをお伺いすることをお許しください。その、なにかとても嬉しいことがおありになったのでしょうか? とても……輝いていらっしゃるので……」
「まあ! ガルテン公爵令嬢はお世辞がお上手ね! ふふふ、秘密ですわ」
なにかを言わなければいけない。
けれど、なにを言えばいいのかわからない。
見当もつかない。
ミネレーリが乾ききった口を開きかけた時、レヴェリーの従者から声がかかった。
「あら、もうなの? 残念ね。またお話しましょうね」
「……勿体ないお言葉です」
軽く手を振り去ってゆくレヴェリーを呆然と見送り、ミネレーリはその場から動けずにいた。
いつの間にか迎えにきていたミンティが顔の近くで手を振るまで、ずっと。
「どうしたのよ? 恐いものでも見たような顔をして」
「……ううん。ごめんなさい、ミンティ。行きましょうか」
「それが今日はテーヴィア殿下の時間がなくなってしまったのよ。だから後日にしましょう」
「え? 急な公務でもはいられたの?」
「違うのよ。実はね……」
ミンティは辺りを一瞥して、声を落として扇で顔を隠しながらミネレーリに耳打ちをしてくる。
「レヴェリー殿下がテーヴィア殿下に謝罪したいと言われて、茶会をすることになったらしいの。二人きりで」
声が出ない。
いや、それよりも上手く息ができているかも怪しい。
「テーヴィア殿下がすごく喜ばれてね、申し訳ないけど今日の予定をキャンセルしたいとおっしゃったのよ。まあ、仕方ないわよね。それにしてもレヴェリー殿下にいったいどんな心境の変化があったのかしら?
気になるわよね。ミネレーリ?」
一向に話に相槌をうってこないミネレーリをミンティは訝しがる。
「……お茶会って、どこでされるの……?」
「レヴェリー殿下が謹慎させられていた離宮でよ。ほら、前にミネレーリに教えたことがあるでしょう、って、ミネレーリ!?」
その場所を思い浮かべて、考えるよりも先に足が動いていた。
確証など、どこにもない。
それでも頭のどこかで酷く鳴り響いているのだ。
危ない、と。
レヴェリーとテーヴィアが危ないと。
走ることは令嬢として恥ずべき行動だ。
けれど、それでも走らなければいけないと体が言う。
ミネレーリが走っている姿を瞠る騎士や侍女を無視して離宮に辿り着いたとき、甲高い悲鳴が離宮に響き渡った。