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7. 六月一五日
また自殺のようだ。
このところ、非常に多く感じるのは気のせいだろうか。今年は雨が少なく、もう真夏のような日々が続いている。それでも梅雨の六月は、人の心を憂鬱にさせる魔力を有しているのかもしれない。
首吊りだった。
片瀬仁は、やはり我慢ができなかった。
「大丈夫か?」
毎度のように、緒方が声をかけてくれた。
吐いたばかりだ。口に酸っぱいものを残しながら、片瀬は立ち上がる。
「はい、心配かけてすみません」
すでに、ご遺体はおろされていた。二〇代後半の男性が、天井にかけたロープに首を引っかけたのだ。登山で使うザイルのようなものだ。天井の板は、約五〇センチ四方に切り取られ、天井裏に金属製の棒を通して、即席の首吊り具を作っていた。
太いはずのロープは、男の首をまるで針金のように締めつけ、絶命にまで追い込んだ。死後四日が経っていた。今日が日曜だから、死亡したのは水曜日ということになる。
第一発見者は母親で、このところ様子のおかしかった息子を心配して、仙台から上京したのだという。それがなければ、発覚はもっとさきになっていたかもしれない。
せっかく会いに来た息子の姿が、あんな見るも無残な姿になっていたなんて……。母親の心情を考えただけで、涙腺がゆるみそうだった。
鬱血はわずかだったが、それでも顔は紫がかり、眼球も飛び出しかけていた。長く伸びた舌が、なにかの冗談のようだった。
尿と排泄物の匂いが鼻につく。
断末魔の形相が、網膜から離れない。それでいて、生からの解放を悟ったのだろうか、どこか晴れやかなものがあったのも事実だ。
疑う余地はないと思うのだが……。
一〇〇%の自殺ではない。
わずか数パーセントの不完全ぶりが、自分たちをここへ引き寄せることになった。
遺体の頸部には、首をくくった跡とは別のものがついていた。
白蝋のような肌に、いくすじかの引っかき傷。法医学用語で『吉川線』という。首を絞められたとき、抵抗のためにつく、掻きむしった跡だ。この傷があるかどうかで、他殺か自殺かの決め手になることがある。
ただし、自殺でも吉川線がつくことは少なくない。覚悟の自殺であっても、やはり人間は本能で生きようとするのだ。
人は首をくくった瞬間から、頭への血流が止められる。個人差はあるが、酸欠をおこして意識を失うまでに、一〇秒。柔道の絞め技で落とされるように、苦痛はなく、むしろ気持ちがいいとされている。そのわずかな時間に、本能がはたらくか、後悔の念が勝ったならば、首を掻きむしることもある。
もしくは、ロープの当たり位置がズレていた場合に、血液が送りつづけられてしまうことがある。通常は、首から後頭部に向かって斜め上方に力が加われば、酸欠を引き起こすはずだが、首の太さやロープの材質によっては、うまくいかないケースもある。そうなってしまったら、首を絞められるのと同じことだ。絞殺は、酸欠死ではなく、窒息死だ。相当な苦しみがあるという。
今回は傷が浅いので、前者であると思われる。意識を失う、ほんの数秒間につけたものだろう。
本当は死にたくなかったのではないか……。
もう本人に確認するすべはないが、そうであってほしい──片瀬は、強く願った。
現場は、江東区亀戸にある古びたアパートの一室だった。死亡したのは、この部屋の住人である山本武司、二九歳。昨年末に派遣切りにあってからは、無職だった。部屋に遺書らしきものはない。かわりに何枚もの履歴書がみつかっている。片瀬にはなぜか、その履歴書が、遺書がわりのように感じられた。
就職できない焦り。将来を悲観しての自殺とみるのが妥当なところだろう。
あとは検視官による首の鑑定にかかってくる。ロープの跡に不審なところがなければ、自殺と断定されるはずだ。
「どうした?」
「い、いえ……」
片瀬のなかには、なにか得体の知れない違和感がわだかまっていた。
それがなにかは、わからない。
乱雑とした狭いアパートの部屋。そこの主が死を選んだ。
三〇前の人間が、将来の不安や生活苦を理由に自殺を選ぶことは、けっしてめずらしくはない。いや、それどころか昨今の不景気の世においては、これからもっと増えていくだろう。
しかし、そういうことではないのだ。
動機や境遇の問題ではない。
では、なんなのかと問われると、片瀬にも答えは用意できていなかった。
しいていえば、ただの勘だ。
「おい、自殺にまちがいなってよ。引き上げるぞ」
どうやら熟慮してる最中に、結論が出てしまったようだ。緒方をはじめとして、ほかの捜査員たちは撤収を開始していた。
「ん?」
片瀬は、あるものに気づいて、眼を見張った。
部屋の壁に貼ってあるポスター。
アニメ絵の少女が、水着のようなコスチュームをまとって、笑顔でポーズをとっている。
片瀬には見えた。その瞳のなかに、文字が書かれていた。
高鳴る鼓動。
『GOD BLESS YOU』
瞳──正確には、光の反射部分。マンガやアニメ独特の表現方法として、光の反射を白い円で描く。そのなかに書かれているものなので、近づいて、よく眼を凝らさなければ見ることはできない。
片瀬だから気づくことができた。
このあいだのものと筆跡は同じに見える。
今回はマジックのような太いものではなく、細いボールペンのようなものが使用されているようだ。そうでなくては、こんなに小さく文字を記すことはできない。
鑑識の何人かが、まだ帰り支度の最中だったが、かまわずに片瀬は、そのポスターに近寄って、携帯で撮影をはじめた。
「どうしたんですか?」
声をかけられたが、愛想笑いでなんとかごまかした。鑑識員にはアニメ好きだと誤解されたかもしれない。
この文字は、だれが書いた?
もう一度、片瀬は部屋中を見渡した。
ある疑問が浮かんだ。
本当に自殺なのだろうか!?
今日だけではない。このまえの飛び降り自殺もだ。
だれかが自殺にみせかけて、殺した……。
(バカな……)
考えすぎだ。
名刑事にでもなったつもりか?
それこそ、本の影響をうけすぎている。
これは読み物ではない。真実とは、いつでも残酷でつまらないものだ。だいたい、首吊り自殺にみせかけて殺人をおこなうことは、簡単ではない。
おかしな妄想は、この現場から持ち帰ってはいけない。
ここに捨てていくのだ。
* * *
警視庁刑事部捜査一課──。
東京都内で発生する殺人・傷害・強盗・放火などの凶悪事件を専門に捜査するセクションである。
四〇〇名近い人員を誇る巨大組織だ。
映画やテレビで、その存在を知る機会も多いだろう。しかし、スクリーンのなかの虚像と実態とは、一致しないところが少なからずある。
かなりのハードワークのために、平均年齢は想像されるより、だいぶ若い。大半の捜査員が二〇代であり、三〇代にもなればベテランと呼ばれる域に達する。四〇代以上の人員は、管理職として後進の指導にあたっているのが普通だ。ドラマのように、定年間際の老刑事が捜査一課の最前線に立っていることはない。
みな武道の達人で、筋肉隆々の猛者というイメージは、誇張以外のなにものでもない。人並みよりは鍛えられているが、格闘家のように屈強な男は、まずいない。外見も普通のサラリーマンとかわらない者がほとんどだ。幼少から空手道場に通う女子高生のほうが、よっぽど強かったりする。
拳銃の使用についても、嘘が多い。捜査一課に配属されたからといって、拳銃をつねに所持できるわけではない。というより、所持できる機会すら、在任中、一度もないこともある。ましてや発砲することなど、ほぼ無いといってもいいだろう。警察学校での射撃実習が、唯一の発砲経験だったという者がほとんどだ。じつは、もっとも拳銃と身近な部署は、市民と一番ふれあうことの多い地域課の「おまわりさん」だ。
また、大所帯のため、自分の所属する係から離れると、同僚の名前すらわからないことはざらだ。所轄署とはちがい、本庁でアットホーム感は期待できない。
職業意識は予想どおり高く、プロフェッショナルを貫くあまり、所轄署や他部署との軋轢がうまれやすいのは事実だ。ただし、手柄を自分たちのものにして、出世のためのプラスにしようというわけではない。最初からそういう人間は、捜査一課にはむいていない。昇進試験の勉強すらままならないほどの重労働が毎日続く。通過点ではなく、捜査一課で働くことが「ゴール」と考える人間がやるべき仕事なのだ。
本庁の職員といっても、いざ事件がおきて捜査本部が設置されれば、設置された所轄警察署につめることになる。だから、捜査一課のある広いオフィスは、総人数とは比べ物にならないほど静かだ。デスクワークをする課長と理事官、在庁組と呼ばれる待機捜査員だけがいるというのが現実だ。さらに一課長には専用の個室が用意されているので、フロアで見かけることは少ない。理事官にしても書類との格闘は午前中だけで、午後からは捜査本部を飛び回ることになる。つまり、本庁を舞台に事件を解決していくドラマは、本来ならばおかしいことになる。
捜査一課のなかでも、殺人事件をあつかう係は、その名のとおり『殺人犯捜査』というところで、書物やインターネットなどで調べると、一から一二の係に分かれているということになっている。
が、そのデータは古い。年々増加する凶悪事件に人員も比例して増やさなければならない。実際には、一六係まで存在しているという。
しかし、その知識すら、もう古くなった。
この春──。
急遽、第一七係を増設することになったのだ。上層部の意向ということだが、詳細は明らかでない。
各班から一人、二人を出し合うことで、一つの係をつくった。急場をしのがなければならなかったので、そういう措置もやむをえない。それゆえに、殺人犯捜査第一七係は『オールスターズ』と呼ばれている。もちろん、皮肉も込めてだが……。
六月一六日
その第一七係のエースは──。
結局、捨てきれなかった妄想に、苦悩していた。
翌日になって、思い切りのない自分を悔やみながら、意を決して先輩刑事・緒方に声をかけた。
「すみません、見てもらいたいものが……」
「は!? なぜ、ここで?」
という疑問符が返ってきたのも当然だ。
トイレで用をたしていた緒方は、不快感を隠すこともなく表情に出した。
「これです」
自宅でプリントした二枚の写真だった。
「この英字がどうした?」
場所を廊下に変え、まじまじと写真を確認した緒方は、そう問いかけた。
やはり力になってくれるようだ。第一七係『影の主任』と呼ばれているほどだ。警部補の主任が本当はいるのだが、そちらよりも巡査部長である緒方のほうが、みんなから信頼されていた。顔つきもそれらしい。
「どういう意味があると思いますか?」
「みつけたのか……?」
緒方の声のトーンが、一段上がった。
「昨日の現場か?」
「一枚はそうです」
「まてよ……」
緒方は、なにかを思い出したようだ。
「どうしたんですか?」
「ここじゃなんだ、昼飯行くぞ」
『万新』と揶揄される以外にも、片瀬仁には、あるあだ名が存在した。
それが捜査一課刑事としての、片瀬の生命線ともいえるものだ。
《万眼》
万の眼をもつという意味が、その呼び名には込められている。
どんなに些細なことでも見逃さない眼力。
それは、伝説の漁師と称された父親から受け継いだものだった。素潜り漁の名人で、地元では知らぬ者のいない海の戦士。
そんな父親をもつというのに、片瀬は泳げない。
いや、小さいころは父ゆずりの泳者だったが、ある事件をきっかけに、水が怖くなってしまった。
漁師としては落ちこぼれたが、そのかわり陸の上で獲物を追うことをおぼえた。
それが、片瀬の特殊能力だ。
テニスコート五面分ほどの敷きつめられている砂利のなかから、一目で真犯人が落とした、たった一個のボタンをみつけたこともある。
競馬場に逃げ込んだ逃走犯を、大勢の観客のなかから検挙したこともあった。
被害者の身体を貫通した弾丸を、鬱蒼とした竹林からみつけだす神業もやってのけた。その弾丸の施条痕から犯人にまで行き着けたのだ。
所轄時代に、三件もの重要事件を解決した実績をもつ。たとえ本人が望まなかったとしても、本庁にヘッドハンティングされたのも当然の人事といえる。
ただし本庁に来てからは、その力はあまりパッとしない。発見しているものは、的外れのものが多かった。
『万新』がさきではない。《万眼》とさきに呼ばれていたが、その眼力が曇ったとされ、万年新人に格下げされてしまったのだ。
「どうして、そのときに言わなかった」
「そういわれても……」
怒ったような緒方に、片瀬はたじろぎながら応じている。
二人は警視庁内の食堂に移動していた。
時刻は、十一時三〇分を過ぎたところだった。お昼には、まだ少しはやい。食堂内は閑散としている。
「まあ、仕方ないか……おまえの虫眼鏡がスランプなのは、よく知ってるからな」
虫眼鏡──緒方は、片瀬の力をそう呼んでいた。
「失敗を恐れたんだろ?」
「は、はい……」
「昨日の首吊りと、そのまえの飛び降りだな?」
「そうです」
写真の文字を、緒方はもう一度だけ確認した。
「神のご加護がありますように……」
つぶやくように声を出してから、視線を二枚の写真から、片瀬に移した。
「これは、俺があずかる。上に話を通しといてやるから、おまえは二件の自殺を洗いなおせ。俺が許す」
そんなことを言えるのが、『影の主任』たる所以だ。
「……わかりました」
そう返事をしたものの、片瀬は、まだ緒方から話を聞き出したかった。
「なんだ?」
「あ、いえ……さっき、なにかを思い出されたような……。この文字について、なにか心当たりがあるんじゃないですか?」
「……それは、まだ聞かないほうがいい。先入観が邪魔になるかもしれん」
そのときの緒方の表情に暗い翳のようなものがさしたことを、片瀬は見逃さなかった。
一抹の不安がよぎる。
イヤな予感だ。
……ならば、大丈夫。
生まれてから一度も、そのテのものが当たったためしがない。
そして、すぐに思い出した。
いつも不幸は、なんの前触れもなくおとずれていたからだ。