6
6
一二年前──。
その惨劇は、狂おしいほど激しかった夕立のあとにおこった。
夏。
病的な蒸し暑さが、突然の豪雨で溶かされた。
まだ五歳だった雪耶は、幼稚園から帰ってずっと、二階の子供部屋で遊んでいた。雨がやんだことにも気づかなかった。
積み木で家を建ておわったとき、母の悲鳴を聞いた。
一階に下りると、両親はすでに血だらけだった。いまでも、あのときの『真紅』は眼球に焼きついている。
犯人の男は、まだそこにいた。
握られた刃物が、ギラリと銀色に光った。
当時の雪耶には、それがどういう光景なのか、すぐには理解できなかった。
犯人はそのとき、なにかを言った。
「×××××××××」
思い出せない。
鮮明な記憶であるはずなのに、その言葉だけが脳裏の奥に埋もれたままだ。
他人を殺すのも、自分を殺すのも、最低のおこないだ──。
同日昼
『茅場町、茅場町──』
思わず降りていた。
すでに正午は過ぎている。念のため制服を着てきたとはいえ、学校は休みをとってあるので、本来ならここで下車する必要はない。
自分でもわかっていた。自殺予告のあった南砂町駅に行くのだということは。思案して結論を出したことではない。自然に足がそこを目指してしまうのだ。
階段を下って、東西線に乗り換えた。
「え?」
見覚えのある男が、列車内、吊革に左手首をかけるようにして立っていた。その手だけを見ていると、まるで手錠につながれている囚人のようだった。
瞬間的に悟った。
わたしと、同じ場所に行く──と。
問題の駅までは、七、八分ほどでたどりついた。
やはり、男も降りるようだ。
自殺を止めに行く目的が、男の動向をうかがうことに変化していることを、雪耶自身も認識していた。
ホームの人影は閑散としている。平日の昼間なのだから、それも納得か。
男は、予想どおり改札には向かわず、中央付近のベンチに腰をかけた。一番線──西船橋方面への列車が止まる側を正面にしている。
雪耶は、男の視界をさけ、反対側を向くようにして、柱の陰に寄りかかった。
まわりには、だれもいない。
と──。
そのとき、中野方面への各駅電車が到着した。
男にとっては背後、雪耶にとっては前方に列車を見ていることになる。
降りる人の数は、やはりまばらだ。
もうじき、午後一時一〇分になろうとしていた。
予告では『一三時一三分一三秒』となっていた。一三が不吉な数字とされているからだろうか。不謹慎なユーモアだ。
電車でこの駅を訪れるつもりならば、これに乗っているはずだ。
この駅は地下鉄としてはめずらしく、快速がホームを通過する。ほかにも快速が停まらない地下鉄の駅は存在するのだが、そのほとんどはホームを通らない。
当然のことながら、停まるよりも、停まらない電車のほうが、致死率は高い。地下鉄ならば、逃げ場所もないに等しい。
さらに駅の構造として、この南砂町駅は、両側に電車が発着する『島式』と呼ばれるプラットホームだ。上下線ともに、中央の同じホームを使用している。つまり自殺志願者にとっては、ホーム間の移動をする必要がなく、上り下り、チャンスが二倍あるということになる。
男が立ち上がった。ホームの東陽町側に向かって歩いていく。
そのさきには、二人の姿があった。一人は品の良いおばあちゃんで、案内板を食い入るように眺めている。もう一人は、二〇代後半から三〇になるであろう小太りの男だった。
大きなバックパックをからい、色褪せたジーンズに、しわしわのシャツを着ている。
雪耶も、あとを追った。
電光掲示板を見ると、次の電車は『通過』になっている。
決行の時間まで、もうまもなくだ。
* * *
〈また邪魔だ〉
声は、たしかに聞こえていた。
それが、自分の耳にしか届いていないものだということも、長年の経験で、すでにわかっている。
耳?
いや、脳裏にだけ響く声。
自身のうちなる声ではない。まったくの他人のものだということは、確実なのだ。
幻聴ではない。明確な意志をもっている。
この声の主に、心当たりがないわけではなかった。
その人物は、すでにこの世にはない。
だが、そいつの怨霊が、声として自分にとり憑いているのではないか──そう疑っている。
〈後ろに、あの女がいる〉
(女?)
南波は、声に思考で応えた。
会話ができるということは、二重人格でもない。
なにかしらの精神障害の可能性はあるが、社会生活に支障をきたすほどでもなかった。
不安と恐怖は、ときおり感じる。
そして《ヤツ》の過激な性格に、羨望を抱いていることも事実だった。
〈このあいだの女子高生だ〉
南波は振り返ってはいなかった。しかし、《ヤツ》には見えているようだ。野性的なもので、気配を感じ取っているのか。
〈そういえば、会ったことがあるような気がするな……〉
(だから、このあいだ西新井で──)
〈ちがう。そういうことではない〉
心の声をさえぎって、ヤツは主張した。
(どういうことだ?)
〈さあな。俺様にもよくわからん。そういう気がするだけだ。よく思い出せん〉
「……?」
〈それよりも……最近の女は、若いうちから、いい身体をしている〉
(オレのなかで、下劣なことを言うな)
〈なにをいう。おまえは俺様だ。俺様はおまえでもある。俺様の考えは、つまり、おまえの考えでもあるのだぞ〉
(ふざけるな!)
〈真実が、いつも常識どおりだとは思うな〉
「黙れ!」
南波は、思わず声に出していた。
後ろを見なくても、女子高生がビクっと驚いたのがわかった。
自分にも、気配で察する能力があるのか。
──おまえは、俺様だ──。
〈ところで、今日の獲物はあいつか?〉
(獲物じゃない。何度言ったらわかる)
〈呼び方など、どうでもいい。おまえ好みに表現すれば、迷える小羊だ〉
(該当しそうな人物は、あいつだけだ。でなければ、彼女ということになる)
南波は立ち止まり、ホームを軽く見渡した。意識して背後の少女のことは見ないようにした。
〈彼女……、おまえと同じ、リストカッターだな〉
(もうオレは現役じゃない)
《ヤツ》に言われるまでもなく、彼女が経験者だということは、一目会ったときにわかっていた。かもしだす雰囲気と、長袖のシャツがそれを物語っている。
なによりも、経験者は経験者を知る。
『一番線を快速電車が通過します──』
アナウンスが鳴った。
〈時間だ〉
まもなく、ホームに『東葉勝田台』行きの快速が入ってくる。
〈どうする? かわってやろうか?〉
(その必要はない)
〈無理するな。なにを考えている?〉
(わからないのか? おまえの考えは、オレの考えなんだろ?)
〈減らず口を。いいから、俺様に渡せ〉
南波は声を無視して、線路に向かっていった。
一三時一三分一三秒──。
* * *
突然、男がふらついた足取りで、白線を越えた。雪耶は、背筋に寒いものがはしるのを自覚した。
落ちる。落ちてしまう!
この男の行動は、どこか異常だ。なにかがおかしい。
一分ほど前にも「黙れ!」と、なんの前触れもなく声を荒らげたのだ。
心が病んでいる!?
「危ない!」
身を隠すように距離をあけていた雪耶だったが、かまわずに叫びをあげた。
だが男は、泥酔者のような千鳥足のまま、線路に落下してしまったではないか!
電車は、すぐにやって来る。
雪耶は走り出した。
近くにいた小太りの男と、おばあちゃんも眼を丸くしながら、下を覗き込んでいる。
「助けて!」
悲鳴まじりの男の声が聞こえた。右手を伸ばしている。
右手。
《わたしを救って》
(え!?)
こんな緊迫感のなか、雪耶は不可思議な感覚に襲われていた。
既視感。これはなんだろう?
いや、いまはそんなことを考えている場合ではない。
おばあちゃんではムリだ。肝心の小太りの男も、驚きのあまり、あたふたとしているばかりで、なにもできないでいる。
自分しかいない!
なかば無意識のうちに、雪耶は男の手をつかんだ。
両手でひっぱりあげる。
「上がって!」
重い。持ち上がってくれない。自分の力だけではダメだ。
「あなたも手伝って!!」
小太りの男に向かって叫んだ。
われを取り戻したように、小太りが手を貸してくれた。
でも、動かない。
車体が視界のすみに映った。もう間に合わない。
雪耶は、ホーム下の男の顔を見た。
「なんとか上がって!!」
そこで気がついた。
男の顔がちがっていた。
同じ人間。
だが、別人!?
重かったはずの男の身体が、そのとき、ふわっと浮き上がった。
信じられないほど簡単に、男がホームに登っていた。
かすめるように、電車が通過していく。
自分たちの力でないことは、あきらかだった。
「た、助かった……」
男がつぶやくように言った。
その顔は、下で助けを求めていたときの顔だ。
「大丈夫ですか!? 怪我はありませんか!?」
駅員が、あわてて駆け寄ってきた。
「す、すみません……貧血ぎみなもので」
男は弱々しくそう答えたが、雪耶の眼には、しらじらしく映った。
「ご迷惑をおかけしました」
「救急車を呼びましょうか?」
駅員の申し出に、身振りをまじえながら辞退すると、男は改札に続く階段に向かって歩きだした。
怪我もないようだし、緊急停車もしていないので、駅員もこれ以上、ことを大きくするつもりはないようだ。
「本当に、ありがとうございました」
最後に、小太りの男と雪耶に礼をのべた。
雪耶は迷わず、男のあとを追っていた。
「待ちなさいよ!」
駅を出た男は、ようやくその呼び声で立ち止まった。すぐ地上にある公園の一角だった。
「わざと落ちたでしょ?」
雪耶は、瞳でも責めたてた。
「このまえだって、そう。あなたは止めにきたの? それとも、あなたが死ににきたの!?」
男は、しばらく無言を通した。
「答えて!」
ガラが悪くなっているであろう相貌を、男に叩きつける。
「《赤いイルカ》は、あなた? それとも、《ウェルテル》があなたなの!?」
雪耶の怒りに満ちた眼光をしばらくうけると、男は静かにしゃべりはじめた。
「《赤いイルカ》は、個人名じゃない」
「?」
雪耶は、眉根を寄せた。首をかしげるその仕種も、不機嫌さがにじみ出ていた。
「じゃあ、ウェルテルなの?」
こちらのほうは、否定しない。
雪耶のなかで、自然にこの男の名は《ウェルテル》ということになった。
「個人名じゃないって、どういう意味?」
「そのままの意味さ」
個人でないのなら、団体や集団の名ということだろうか。
「一人じゃないってこと……?」
《ウェルテル》は、ため息まじりにうなずいた。
「やつらは、日々、増殖している。《赤いイルカ》の名で予告を書き込み、それを見たべつのだれかが、また《赤いイルカ》になっていく。その繰り返しだ」
「なに……それ?」
唐突な話の内容に、雪耶はウェルテルの正気を疑った。
眼の色は、正常だった。
だが、気は許せない。さきほども、まるで別人のように変貌したではないか。それともあれは、錯覚だったのだろうか?
「荒唐無稽なことを言っているわけじゃない……だが、信じてくれとはいわない。むしろ信じないほうがいい。そして二度と、キミは首をつっこむな」
「一方的に、なに勝手なこと言ってるの!? 警察に駆け込んだっていいのよ。どうせ、やましいことしてるんでしょ!?」
半分、かまをかけるつもりだった。
「勝手にどうぞ」
だがウェルテルは、あっさりそう応えると、再び歩きだした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「オレにも、かかわらないほうがいい」
それでも雪耶は追おうとしたが、振り返った男の顔を見て、それをやめた。
まるで「殺すぞ」と脅迫しているような、恐ろしい形相だったからだ。