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囁き  作者: てんの翔
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 一二年前──。

 その惨劇は、狂おしいほど激しかった夕立のあとにおこった。

 夏。

 病的な蒸し暑さが、突然の豪雨で溶かされた。

 まだ五歳だった雪耶は、幼稚園から帰ってずっと、二階の子供部屋で遊んでいた。雨がやんだことにも気づかなかった。

 積み木で家を建ておわったとき、母の悲鳴を聞いた。

 一階に下りると、両親はすでに血だらけだった。いまでも、あのときの『真紅』は眼球に焼きついている。

 犯人の男は、まだそこにいた。

 握られた刃物が、ギラリと銀色に光った。

 当時の雪耶には、それがどういう光景なのか、すぐには理解できなかった。

 犯人はそのとき、なにかを言った。

「×××××××××」

 思い出せない。

 鮮明な記憶であるはずなのに、その言葉だけが脳裏の奥に埋もれたままだ。

 他人を殺すのも、自分を殺すのも、最低のおこないだ──。


         同日昼


『茅場町、茅場町──』

 思わず降りていた。

 すでに正午は過ぎている。念のため制服を着てきたとはいえ、学校は休みをとってあるので、本来ならここで下車する必要はない。

 自分でもわかっていた。自殺予告のあった南砂町駅に行くのだということは。思案して結論を出したことではない。自然に足がそこを目指してしまうのだ。

 階段を下って、東西線に乗り換えた。

「え?」

 見覚えのある男が、列車内、吊革に左手首をかけるようにして立っていた。その手だけを見ていると、まるで手錠につながれている囚人のようだった。

 瞬間的に悟った。

 わたしと、同じ場所に行く──と。

 問題の駅までは、七、八分ほどでたどりついた。

 やはり、男も降りるようだ。

 自殺を止めに行く目的が、男の動向をうかがうことに変化していることを、雪耶自身も認識していた。

 ホームの人影は閑散としている。平日の昼間なのだから、それも納得か。

 男は、予想どおり改札には向かわず、中央付近のベンチに腰をかけた。一番線──西船橋方面への列車が止まる側を正面にしている。

 雪耶は、男の視界をさけ、反対側を向くようにして、柱の陰に寄りかかった。

 まわりには、だれもいない。

 と──。

 そのとき、中野方面への各駅電車が到着した。

 男にとっては背後、雪耶にとっては前方に列車を見ていることになる。

 降りる人の数は、やはりまばらだ。

 もうじき、午後一時一〇分になろうとしていた。

 予告では『一三時一三分一三秒』となっていた。一三が不吉な数字とされているからだろうか。不謹慎なユーモアだ。

 電車でこの駅を訪れるつもりならば、これに乗っているはずだ。

 この駅は地下鉄としてはめずらしく、快速がホームを通過する。ほかにも快速が停まらない地下鉄の駅は存在するのだが、そのほとんどはホームを通らない。

 当然のことながら、停まるよりも、停まらない電車のほうが、致死率は高い。地下鉄ならば、逃げ場所もないに等しい。

 さらに駅の構造として、この南砂町駅は、両側に電車が発着する『島式』と呼ばれるプラットホームだ。上下線ともに、中央の同じホームを使用している。つまり自殺志願者にとっては、ホーム間の移動をする必要がなく、上り下り、チャンスが二倍あるということになる。

 男が立ち上がった。ホームの東陽町側に向かって歩いていく。

 そのさきには、二人の姿があった。一人は品の良いおばあちゃんで、案内板を食い入るように眺めている。もう一人は、二〇代後半から三〇になるであろう小太りの男だった。

 大きなバックパックをからい、色褪せたジーンズに、しわしわのシャツを着ている。

 雪耶も、あとを追った。

 電光掲示板を見ると、次の電車は『通過』になっている。

 決行の時間まで、もうまもなくだ。



       * * *


〈また邪魔だ〉

 声は、たしかに聞こえていた。

 それが、自分の耳にしか届いていないものだということも、長年の経験で、すでにわかっている。

 耳?

 いや、脳裏にだけ響く声。

 自身のうちなる声ではない。まったくの他人のものだということは、確実なのだ。

 幻聴ではない。明確な意志をもっている。

 この声の主に、心当たりがないわけではなかった。

 その人物は、すでにこの世にはない。

 だが、そいつの怨霊が、声として自分にとり憑いているのではないか──そう疑っている。

〈後ろに、あの女がいる〉

(女?)

 南波は、声に思考で応えた。

 会話ができるということは、二重人格でもない。

 なにかしらの精神障害の可能性はあるが、社会生活に支障をきたすほどでもなかった。

 不安と恐怖は、ときおり感じる。

 そして《ヤツ》の過激な性格に、羨望を抱いていることも事実だった。

〈このあいだの女子高生だ〉

 南波は振り返ってはいなかった。しかし、《ヤツ》には見えているようだ。野性的なもので、気配を感じ取っているのか。

〈そういえば、会ったことがあるような気がするな……〉

(だから、このあいだ西新井で──)

〈ちがう。そういうことではない〉

 心の声をさえぎって、ヤツは主張した。

(どういうことだ?)

〈さあな。俺様にもよくわからん。そういう気がするだけだ。よく思い出せん〉

「……?」

〈それよりも……最近の女は、若いうちから、いい身体をしている〉

(オレのなかで、下劣なことを言うな)

〈なにをいう。おまえは俺様だ。俺様はおまえでもある。俺様の考えは、つまり、おまえの考えでもあるのだぞ〉

(ふざけるな!)

〈真実が、いつも常識どおりだとは思うな〉

「黙れ!」

 南波は、思わず声に出していた。

 後ろを見なくても、女子高生がビクっと驚いたのがわかった。

 自分にも、気配で察する能力があるのか。

 ──おまえは、俺様だ──。

〈ところで、今日の獲物はあいつか?〉

(獲物じゃない。何度言ったらわかる)

〈呼び方など、どうでもいい。おまえ好みに表現すれば、迷える小羊だ〉

(該当しそうな人物は、あいつだけだ。でなければ、彼女ということになる)

 南波は立ち止まり、ホームを軽く見渡した。意識して背後の少女のことは見ないようにした。

〈彼女……、おまえと同じ、リストカッターだな〉

(もうオレは現役じゃない)

《ヤツ》に言われるまでもなく、彼女が経験者だということは、一目会ったときにわかっていた。かもしだす雰囲気と、長袖のシャツがそれを物語っている。

 なによりも、経験者は経験者を知る。

『一番線を快速電車が通過します──』

 アナウンスが鳴った。

〈時間だ〉

 まもなく、ホームに『東葉勝田台』行きの快速が入ってくる。

〈どうする? かわってやろうか?〉

(その必要はない)

〈無理するな。なにを考えている?〉

(わからないのか? おまえの考えは、オレの考えなんだろ?)

〈減らず口を。いいから、俺様に渡せ〉

 南波は声を無視して、線路に向かっていった。

 一三時一三分一三秒──。


       * * *


 突然、男がふらついた足取りで、白線を越えた。雪耶は、背筋に寒いものがはしるのを自覚した。

 落ちる。落ちてしまう!

 この男の行動は、どこか異常だ。なにかがおかしい。

 一分ほど前にも「黙れ!」と、なんの前触れもなく声を荒らげたのだ。

 心が病んでいる!?

「危ない!」

 身を隠すように距離をあけていた雪耶だったが、かまわずに叫びをあげた。

 だが男は、泥酔者のような千鳥足のまま、線路に落下してしまったではないか!

 電車は、すぐにやって来る。

 雪耶は走り出した。

 近くにいた小太りの男と、おばあちゃんも眼を丸くしながら、下を覗き込んでいる。

「助けて!」

 悲鳴まじりの男の声が聞こえた。右手を伸ばしている。

 右手。


《わたしを救って》


(え!?)

 こんな緊迫感のなか、雪耶は不可思議な感覚に襲われていた。

 既視感。これはなんだろう?

 いや、いまはそんなことを考えている場合ではない。

 おばあちゃんではムリだ。肝心の小太りの男も、驚きのあまり、あたふたとしているばかりで、なにもできないでいる。

 自分しかいない!

 なかば無意識のうちに、雪耶は男の手をつかんだ。

 両手でひっぱりあげる。

「上がって!」

 重い。持ち上がってくれない。自分の力だけではダメだ。

「あなたも手伝って!!」

 小太りの男に向かって叫んだ。

 われを取り戻したように、小太りが手を貸してくれた。

 でも、動かない。

 車体が視界のすみに映った。もう間に合わない。

 雪耶は、ホーム下の男の顔を見た。

「なんとか上がって!!」

 そこで気がついた。

 男の顔がちがっていた。

 同じ人間。

 だが、別人!?

 重かったはずの男の身体が、そのとき、ふわっと浮き上がった。

 信じられないほど簡単に、男がホームに登っていた。

 かすめるように、電車が通過していく。

 自分たちの力でないことは、あきらかだった。

「た、助かった……」

 男がつぶやくように言った。

 その顔は、下で助けを求めていたときの顔だ。

「大丈夫ですか!? 怪我はありませんか!?」

 駅員が、あわてて駆け寄ってきた。

「す、すみません……貧血ぎみなもので」

 男は弱々しくそう答えたが、雪耶の眼には、しらじらしく映った。

「ご迷惑をおかけしました」

「救急車を呼びましょうか?」

 駅員の申し出に、身振りをまじえながら辞退すると、男は改札に続く階段に向かって歩きだした。

 怪我もないようだし、緊急停車もしていないので、駅員もこれ以上、ことを大きくするつもりはないようだ。

「本当に、ありがとうございました」

 最後に、小太りの男と雪耶に礼をのべた。

 雪耶は迷わず、男のあとを追っていた。



「待ちなさいよ!」

 駅を出た男は、ようやくその呼び声で立ち止まった。すぐ地上にある公園の一角だった。

「わざと落ちたでしょ?」

 雪耶は、瞳でも責めたてた。

「このまえだって、そう。あなたは止めにきたの? それとも、あなたが死ににきたの!?」

 男は、しばらく無言を通した。

「答えて!」

 ガラが悪くなっているであろう相貌を、男に叩きつける。

「《赤いイルカ》は、あなた? それとも、《ウェルテル》があなたなの!?」

 雪耶の怒りに満ちた眼光をしばらくうけると、男は静かにしゃべりはじめた。

「《赤いイルカ》は、個人名じゃない」

「?」

 雪耶は、眉根を寄せた。首をかしげるその仕種も、不機嫌さがにじみ出ていた。

「じゃあ、ウェルテルなの?」

 こちらのほうは、否定しない。

 雪耶のなかで、自然にこの男の名は《ウェルテル》ということになった。

「個人名じゃないって、どういう意味?」

「そのままの意味さ」

 個人でないのなら、団体や集団の名ということだろうか。

「一人じゃないってこと……?」

《ウェルテル》は、ため息まじりにうなずいた。

「やつらは、日々、増殖している。《赤いイルカ》の名で予告を書き込み、それを見たべつのだれかが、また《赤いイルカ》になっていく。その繰り返しだ」

「なに……それ?」

 唐突な話の内容に、雪耶はウェルテルの正気を疑った。

 眼の色は、正常だった。

 だが、気は許せない。さきほども、まるで別人のように変貌したではないか。それともあれは、錯覚だったのだろうか?

「荒唐無稽なことを言っているわけじゃない……だが、信じてくれとはいわない。むしろ信じないほうがいい。そして二度と、キミは首をつっこむな」

「一方的に、なに勝手なこと言ってるの!? 警察に駆け込んだっていいのよ。どうせ、やましいことしてるんでしょ!?」

 半分、かまをかけるつもりだった。

「勝手にどうぞ」

 だがウェルテルは、あっさりそう応えると、再び歩きだした。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

「オレにも、かかわらないほうがいい」

 それでも雪耶は追おうとしたが、振り返った男の顔を見て、それをやめた。

 まるで「殺すぞ」と脅迫しているような、恐ろしい形相だったからだ。


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