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5. 六月一〇日
翌日、雪耶は学校を休んで、倉本心療医院を訪れた。
以前から、ここに通院している。
去年まで頻繁に通っていたが、最近は良好で、幸いなことに御無沙汰となっていた。
父も母も心配していたが、いっしょに行くという言葉を、大したことじゃない──と、ごまかして家を出てきた。
医院は、まるで病院とは思えないつくりをしている。両親に連れられて、最初に訪れたとき、雪耶は、ここをアンティークショップかなにかだと勘違いしてしまった。
洗練されたリビングのような空間に、不思議なものが散りばめられている。
まず一番に眼をひくのが、パズルのように組み立てられる大きな地球儀だ。二個のパーツが床に落ちているが、あきらかにわざとそこに飾っているとわかる。
世界は完全ではない、という意味があるらしい。
そのほかにも、側面に穴の空いている白い水瓶。すくい取ることの困難さをあらわしているそうだ。『すくう』=『救う』という連想もあるという。
紫色の猫の置物。緑、青いものも。
壁には、中央に小さな黒い丸だけが描かれた絵。殺風景だと感じるが、そんなものが数枚あることに違和感をおぼえる。一枚一枚だけでは孤独を表現しているのだが、それも複数集まれば、心のよりどころになる。
猫の絵画も何枚か飾られている。
ただし、猫関係のものは先生の趣味なだけらしい。
「夢は見ますか?」
「見ていません」
「かつては悪夢にうなされていましたね?」
「……もう、しばらく見ていません」
「悪夢をですか?」
「夢自体をです……」
男性医師──板垣の淡々とした質問に、雪耶もまた淡々と答えている。
「どんな夢でしたっけ?」
「思い出したくありません」
それは、この医院に通いはじめたころに見ていた夢だった。もう一〇年近くもまえになる。わずか七、八歳のころに、いつも襲われていた悪夢。
「がんばって、思い出してみてください」
「……両親です、本当の……」
「そうですね、ご両親が夢に出てくるんでしたよね。それで、どうなるんですか?」
この先生は意地悪だ。雪耶は、素直にそう思った。
口に出してしまいそうだった。
「父と母が見ています……」
「だれをですか?」
「わたしです……わたしに、きまってるでしょう!?」
思わず声を荒らげていた。
「どんな様子ですか?」
それでも冷静に、板垣はたずねてくる。
「ただ見ています……表情は……」
表情はない。無表情のまま、雪耶を見ているだけなのだ。
それが、雪耶の心に不安をつのらせる。
どんな心境で、両親は自分のことをみつめているのだろう?
自分だけが助かったことに、悲しんでいるのか……恨んでいるのか。
(恐ろしい)
そう感じたところで、いつも眼が醒める。
そこからの続きを見たことはない。
「きっとご両親は、あなたのことを夢のなかで見守っているんです」
しらじらしい板垣の言葉が、雪耶の心を素通りしてゆく。
そんなわけはない。死者が、生きる者を冥界に引っぱりこもうとしているような眼なのだ。
虚無の瞳。
いま思い出しても背筋が凍る。
「ちがいます……父と母は、わたしを恨んでいるんです……」
「そんなことはない。君のことを──」
「もうやめてください!」
たまらずに、板垣の声をさえぎった。
「わかりました。今日は、これぐらいにしておきましょう」
「一年ぶりぐらいでしょうか?」
「九ヶ月ですよ」
診察は終わったはずだが、板垣はゆっくりと話しかけてくる。雪耶の答えを聞くまでもなく、本当は板垣にもわかっているはずだ。そういう会話の組み立ては、この医師の困った癖だった。
手にしたカルテも手放していない。ここからが、本番なのかもしれない。
「あれをはじめたんですか?」
「……はい」
しばしの沈黙のあと、雪耶はうなずいた。
「あれ」が、なんのことを指しているのか、すぐに理解できた。
前回来院したときに、板垣にも打ち明けていたのだ。
「危ないことはしてないでしょうね?」
眼鏡をかけているその容貌は、悪い意味での精神科医そのままだ。
良く言えば知的で冷静だが、表現を変えれば、冷淡で、人の欠点を逃すまいと猜疑心にあふれているようである。
年齢は、三〇代後半であろう。最初に会ったころは、まだ二〇代の若手だったことになるが、幼かった雪耶の眼には、経験を積んだ名医に映っていた。
「心配しないでください。わたしは、人を助けたいだけです」
板垣の瞳をうかがうように、覗き込んでから続けた。
「先週も、西新井駅で……」
自殺を止めたんですよ──と言おうとしたが、それが自分のおこないではないことに思い至った。
不思議なことに、あの謎の男の行動を、自分の経験であるかのように混同してしまっていた。
軽い驚きがあった。
「西新井……に行ったんですか?」
「え?」
なぜだろう。板垣が、とても意外そうな顔をする。
「そうですけど……」
「そうですか」
そして、なぜなのかわかった。
「あ、大丈夫ですよ、もう」
それだけ言えば、板垣には通じるはずだ。雪耶の思い出したくない過去は、あの近辺でおこったことなのだ。それを心配したのだろう。
「それならいいんですけど……」
板垣の表情は、やはり冴えない。ポーカーフェイスを崩さない板垣にしては、めずらしいことだ。
きっと、自分がやろうとしていることに、賛成していないのだ。
「……反対ですか?」
「そうではありません。自殺を止めようとすることは、いいことです。ですが……自殺の行為そのものを阻んだとしても、自殺を止めたことにはなりませんよ。原因を取り除かないかぎり、いずれまたやります。今日はやめても、明日決行するかもしれない……」
「だったら、また止めます」
「いたちごっこですね」
「……じゃあ、どうしろっていうんですか!?」
むきになっていることは、自分でもわかった。
「落ち着きましょう。僕は反対しているわけではありません。おそらく、このところ北川さんの精神状態が安定していたのは、生きる目的ができたからです。百人を助けるまで、あなたは死ねない」
「そうですね……死ねません」
自分に言い聞かせるように、雪耶は声に出していた。
「今日ここに来たのは、そのことでなにかあったのではありませんか?」
「わたしにもわからないんです……昨日、帰りの電車が人身事故で遅れました。それから鬱状態になってしまったような気がするんですけど、そんなことぐらいでって、正直、自分でも思ってます」
「たぶん、それはスイッチですね」
「原因は、ほかにある?」
「なにか生活に変化はありませんでしたか? 自殺を止めようとすることで、ショッキングなシーンに出くわしてしまったとか。つらい言葉を投げかけられたとか」
「いいえ。ストレスになるようなことはありませんでした」
「では、学校や家庭でもいい。新しい人との出会いや、環境の変化などは?」
「……」
「あったんですね?」
一瞬の沈黙を、板垣は見逃さなかった。
「ありません」
雪耶の脳裏には、一人の男の姿が焼きついていたが、それを認めようとはしなかった。
「あいかわらず、嘘が下手ですね」
「嘘なんて……」
「あなたは嘘をつくとき、左の眉がわずかに動くんです」
「その手にはのりませんよ、先生」
「ははは、バレましたか」
板垣は、屈託なく笑った。見た目の印象からは、こんな無邪気な笑い方ができるとは思えない。
こういうやわらかさをもっているところが、この先生の魅力だ。部屋のインテリアもふくめ、独特のユーモアセンスは、追い詰められた心に余裕をあたえてくれる。
医院の名前になっている「倉本」についても、その一例といえるのかもしれない。
『倉本心療医院』の「倉本」。だが一人しかいない医師の名前は、板垣だ。そのことを質問すると、先生は理由にもなっていない理由を語ってくれた。
『倉本? 親友の名前ですよ。もっとも尊敬する心療内科医でもあります。催眠療法のプロで、暗示なども簡単にかけることができちゃうんです』
『どうして、その人の名前を?』
『自分の名をつけると、なんだか偉そうでしょ? 僕は謙虚なんです』
『え? それが理由なんですか?』
『そうですよ。ただ彼には、なんのことわりもなくつけちゃったんですが』
『いいんですか?』
『いいんです。彼は謙虚じゃありませんから──』
それを聞いて、唖然とした記憶がある。
「三年前だったら、ひっかかったんですけどね」
「ひっかかったのは、もっと小さかったころです」
雪耶もつられて笑いまじりになっていた。
その笑顔を見たからなのか、
「まだまだ大丈夫なようですね。僕も、これ以上は詮索しません。でも、いまより少しでも悪くなったら、すべてを話してもらいますよ。いいですね」
そう告げると、板垣はカルテを机に戻した。
「先生も、暗示、できるんですか?」
ふと、興味のわいたことを声に出してしまった。
「え?」
「親友の倉本先生みたいに」
「暗示をかけてもらいたいんですか?」
「じつはわたし、まわりの子たちの言葉が、あんまりよくわからないんですよね」
「言葉が?」
「チョーとか、ヤバイとか。なんでだと思いますか?」
「さあ。どうしてでしょう」
「暗示で、わかるようにできませんか?」
「無理ですね」
「どうして?」
「そんなことができるなら、僕がかけてもらいたいぐらいです」
板垣は、さらに微笑んだ。
なぜだか、ごまかされたような気がした。