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いま、自分がどちらなのかが、わからなかった。
南波夕介。
《ヤツ》。
不思議と痛みは感じない。
「生まれ変わるさ……」
無意識に、そうつぶやいていた。
雪耶は死んで、生まれ変わる。
ひざまずく女が、顔を上げた。名前は、美里というのか……。
この刑事ではないが、やっと知ることができた。
刑事も、こちらを見た。
いや、瞳はとどまらず、すぐに美里へ流れた。
「北川美里さん……殺人容疑で警視庁までご同行ください」
刑事の言葉に、美里は無反応だった。ずっとこちらを向いたままだ。
「南波……夕介さん」
そして刑事は、今度はしっかりと目線を合わせた。下の名前は、美里との会話からさぐり出したようだ。
「あなたにも、捜査を攪乱させた容疑があります」
「どういうこと、ジンくん?」
もう一人の女子高生らしき少女が、そう問いを発した。
まさかとは思うが、本当に同僚なのだろうか?
「『渋谷カリスマモデル転落死事件』……そして、二宮さやかの自殺です」
刑事は、はっきりと発言した。
「二件の『自殺』を殺人にみせかけようとした。そうですね?」
「証拠は?」
「ありません。否認しますか?」
「否認する」
「神に誓って?」
思わず、笑みが浮いてしまった。
美里同様、彼に説得されてしまいそうだったからだ。
「そうでしょうね。あなたは信念のためにおこなっている。しかし……あなたのせいで無駄に費やした労力と予算は、けっして軽いものではない」
「連鎖を防いだんだ。一人が自殺すれば、最低でも『五人』は、なんらかの影響をうける……必要悪だ」
「そんなことは許されない」
「オレは逃げも隠れもしない。証拠をつかんで逮捕すればいい」
「いえ……」
刑事は、ため息のように呼吸で間をあけた。
「あなたは証拠など残していない。完璧です……ぼくの《眼》にも映らなかった。わざと残した足跡も、あなたのものではなない」
まるで、いまこの屋上についた足跡すべてを把握しているかのように、刑事はコンクリート面を一瞥した。
「おそらく、べつの靴でつけたんでしょう。大量生産されたものです。そこから人物の特定はできない。靴も、とっくに処分しているでしょう」
「……」
「男性の叫び声も、あなたです。南波夕介、あなたには不本意でしょうが、二件は自殺と断定させてもらいますよ」
刑事は、そう宣告した。
──と。
「夕介……」
美里が、亡霊のように立ち上がっていた。
まるで生気を無くした幼子のよう。
「イルカは、自殺する動物よね?」
ふいに、問いかけられた。
「それは迷信だ。イルカは、自殺なんてしない」
そう答えた。
「そうです、自殺なんてしません」
刑事が、それに続ける。
「たぶん、ストランディングのことを言ってるんでしょうけど、原因は磁場の影響や寄生虫のためとされています。寄生虫におかされると、耳管や半規管の機能が弱り、方向感覚が狂ってしまう。そういうイルカが座礁し、陸に乗り上げてしまうんです」
「夢のない言い方ね」
嘲るように、美里は刑事のことを見た。次いで、こちらも。
「それは、人間がつけた、もっともらしい理由よ。どうして自殺しないなんて、言い切れるのかしら?」
「自殺をする動物は、人間だけです」
「はははは」
その哄笑は、夜空だけでなく、心のすみずみにまで浸透していくような魔力を有していた。
「もし人間よりも高等な生物がいるとして、その生物が人間の自殺を見たら、なんて言うかしら? 磁場の影響? 寄生虫におかされたから──そう言うんじゃなくて?」
なにも言い返せなかった。
刑事も同じ気持ちだったのだろう。
「自殺は、生きとし生けるものの正当な権利なのよ!」
なにかの決意のように聞こえた。
そして、つぶやいた。
「さよなら、夕介」
刑事にも一言。
「名前を呼ばれて、うれしかった……」
その直後、彼女は手のひらを自身の口許に近づけた。
すぐに、なにが起きたのかわかった。
刑事も理解したようだ。
「美里さん!」
彼女は苦しさを表現することもなく、その場に崩れた。
反射的に、彼女を抱きかかえた。
刑事も遅れて、彼女に寄り添う。
わずかに開かれた唇からは、ほのかに甘い芳香が漂ってきた。
青酸性の毒物──。
「わ、たしは……すくえ、ない……」
「雛形さん! 救急車をもう一台!」
「ゆ、ゆうすけ……赤い、イル……カは……じゃない……」
「なんだ、どうした!?」
「わ、たしが……さ、いしょじゃ……ない」
「どういうことだ!?」
もうこちらの言うことは、聞こえていないようだった。
それでも美里は、まだなにかを言おうとしていた。
しかし、声にならない。
耳を近づけた。
GOD BLESS YOU──
……そう口にしたような気がした。
サイレンの音が、夜の静けさに亀裂をうえつける。
雪耶は最初の救急車で、すでに運ばれていた。後続の救急車が二台と、パトカーが数台やって来るのだろう。
ドクン、ドクン。
鼓動が強くなる。
〈もういい。戻してやる〉
《ヤツ》の声か。
いや、自分がいま、どちらなのか判断できない。
──俺様は、おまえだ。
急に身体が重くなってきた。痛みが、腹部に結集している。
思わず、膝をついた。
「大丈夫ですか!?」
刑事が、心配げな声をかけてきた。
美里は横たわり、薄く眼をあけていた。
瞳に月が反射している。すでに……息絶えていた。
ドクン、ドクン。
気が遠くなってくる。
「あんたに頼みがある……」
刑事に言った。
「頼み?」
「それをやってくれたら、かわりに教えてやる……茨城の、これから言う住所を……調べてみろ……」
そこからの会話は、あまり覚えていない。頭は朦朧としていた。
失われゆく意識のなかで、《ヤツ》ではないだれかが囁いた。
〈二六人すべてを救え──〉
それが、自分とあの男の宿命なのだと思った。
贖罪の……。
* * *
光が、それぞれの顔をむしろ影にして、判別できないようになっていた。
何人?
七、八人はいるようだ。
だが、正確な人数は、どういうわけかつかめない。
とりとめのない集団だった。
「どうだね? 結果は出たかね?」
「うまいぐあいに結果は出ている」
「彼に埋め込んだ人格は、おもしろいように動いてくれているよ」
「どうやら、自分のほうが『埋め込まれている』人格だということには気づいていないようだが……」
「それは、それは」
「興味深い結果だな」
「あの男の遺伝子は、危険だからね」
「いまでは主導権を握っているようじゃないか。このまま、あの男の遺伝子を支配してくれればいいのだが」
「そう簡単にはいくまい。《あの男》なのだからな」
「そうだ。あの男は、かつてわれわれの仲間だったというのに、途中で馬鹿な正義感に目覚めおった」
「あれほど、敵にまわすと恐ろしい男もいなかった」
「たしかに……」
「だが、いまは過去を振り返っている場合ではなかろう」
「それもそうだ」
「では、観察を続けさせてもらうとするか」
われわれの崇高なる使命のために──。