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「はははは」
北川美里の高笑いだけが、不自然に響いた。
雪耶が落ちてゆく光景を、片瀬は呆然と眺めることしかできなかった。
「やっと、あなたに出会えた……廉太郎」
そう語りかけられた南波は、振り返って顔をみせた。
「ちがう……廉太郎じゃない」
愕然としたつぶやきが放たれた。
「どうして!?」
「なにを言ってる。オレは南波夕介だ……おまえも、よく知っているだろう?」
南波は答えた。
そうだ、その通りだ。美里は、なにが言いたいのだろう。
ゆらゆらと、美里は南波に近づいていく。
「どうして……廉太郎じゃないの!?」
「どういうことなんですか!?」
たまらずに、片瀬は声を投げかけた。
「美里さん、あなたの目的はなんですか!? なぜ、伊藤康文と山本武司を殺害したんですか!?」
「廉太郎なら、そうすると思って」
明瞭簡潔に彼女は答えた。動機にもなっていない。
まともな会話は成立しそうになかった。
べつの質問に変えた。
「南波と雪耶さんが出会うように仕組んだのも……あなたですね?」
「ジンくん……」
かえでが、そのとき寄り添ってきた。
美里の重圧から解放されて、助けを求めるようにここまで来たのだ。少しの距離しかなかったはずだが、やっとの思いでたどりついたのだろう。身体が震えていた。
「ど、どういうことなの?」
「昨日、美里さんは、雪耶さんが自殺を止めていたことを、あまり知らないような素振りをしていました。でも雪耶さんはぼくに、自殺を止めることは、姉からすすめられたと言っていました。美里さん……あなたのほうが嘘をついた」
「さあ、どうかしらね?」
とぼけているようにも聞こえたが、片瀬はそれを肯定と受け取った。
「だとすると、あなたには計算ができた。南波と雪耶さんが、いずれめぐり会うことを」
「ははは、そうよ。最初に喫茶店で出会ったときは、まさかここまでキレるなんて思わなかったわ」
「そうですか……ぼくとの出会いも、あなたに仕組まれてたんですか……」
ショックを隠しきれずに、片瀬は言った。
「いいえ、半分は偶然よ。現場に証拠を残していなかったか確認をするために、あの付近をさぐってたのよ。もし警察に殺人として捜査でもされて、あたりの監視カメラに映りこんでいたら厄介でしょ?」
美里は、淡々と答えた。まるで日常会話を交わしているような印象だ。
「すぐにあなたが刑事だってわかったわ。店員に聞き込みをしていたし、外を眺める眼つきが一般人じゃなかった。法務省時代に何度か警察官とも仕事をしたけど、警官って、みんな似たような眼をしているのね?」
苦いものが心にしみ入ってきた。
抱いていた恋愛感情は、完全なる片思いだったというわけだ。
もうこの話題にふれたくないという考えに支配されたわけではないが、片瀬は急激に膨れ上がる不安に、焦りを感じはじめていた。
(こんな、悠長に話を聞いていていいものか……)
雪耶は落ちて、南波も刺されている。
雪耶の安否は!?
いまは平然としたように立っているが、南波にしても早く手当てをしなければ、危ない。
片瀬は、なかば無意識に、ポケットに入っている携帯電話に手をのばした。
「あら、ヘンな動きはしないことね。あなたと、お嬢さんの二人だけなら、三分もあれば殺せるわ。わたしの強さは知っているでしょう?」
片瀬は手をもどした。
彼女の武道は本物だ。それに怪力があることも、山本武司殺害で証明されている。自殺にみせかけて首吊りをおこなうには、相当な力が必要だ。
ゴクン──と、となりから唾を飲み込む音が聞こえた。かえでも同じようなことを考えたのかもしれない。
「まだ、ほかにも聞きたいことがあるんでしょう?」
たしかに、色々と質問したいことはある。しかし、もうこれ以上聞きたくはないという感情も強い。
好奇心のほうが勝った。
「法務省に勤めていたときに、結城廉太郎となんらかの接点があったんですね?」
ほとんど勘のようなものだった。
「そうよ。でも、それよりもまえ……雪耶が、うちに来たときから話をしましょうか」
美里の父も、やはりかつては法務省に勤めていた。母親も弁護士で、厳格な家庭で美里は育ったという。
母親が結城廉太郎の弁護をしたことがきっかけだった。当時、美里は大学生。彼女の眼に結城廉太郎は、ただの殺人鬼にしか映らなかったそうだ。結城の弁護をする母が許せなかった。
嫌がらせの電話は毎日だった。友人たちも離れていった……。
そのころから、発作的に家のなかで暴れるようになったそうだ。
家庭内暴力。
通常のそれは、もっと思春期の時分におこるものだが、彼女の発症は遅かった。
心療科の医師に診断をしてもらったところ、境界性人格障害と診断されたという。この病気は、環境の変化などによって罹患するようなものではない。元来そういう因子をもっていたのだろう。母親の結城廉太郎の弁護──という事実から、それが具現化したのだと推測できた。
そんな荒廃しかけたある日、父親が一人の少女をつれてきた。
結城廉太郎の被害者の娘。
身寄りもなく、施設に入るはずだったものを、北川家の養女にしたという。
それが、雪耶だった。
「きっと、捨て犬を託せば、わたしの病気がおさまるとでも思ったんでしょう」
美里は、そう語った。
『捨て犬』という表現も、なぜだか不快な感じはしなかった。
「でも……確かにわたしは、守るものを手に入れた」
そう言った美里の瞳が、うるんでいるように見えたのは気のせいか?
「だって、わたしが守らなければ、雪耶の存在は煙のように消えてしまうのよ」
雪耶にしてみたら、義母は、親を殺した人間を弁護している。義父は、美里の暴力を止めるために「もっと不幸な少女」として、雪耶を家に招いたのだ。
それからというもの、美里の精神は落ち着いていったという。
そして大学を卒業し、法務省に入った。保護局という部署に配属され、しばらくして大臣の冬真紀三郎から、内々に呼び出しをうけたという。
いかにキャリアで在学中に司法試験も合格していた不世出の秀才といえど、一介の職員に大臣が極秘面会を求めるのは、異例なことのように片瀬には思えた。いまの自分たちに置き替えれば、雛形かえでが警察庁長官から、なにかの密命をうけるようなものだ。
美里は大臣から、結城廉太郎に関するある調査を依頼された。
結城廉太郎の処刑を早急に執行すべきかどうか──。
死刑囚との面会を何度か許された美里は、そこで結城廉太郎に惹かれたという。
「まるで神のような存在だった……」
恍惚の表情で、彼女は結城廉太郎を評した。凶悪犯罪者にカリスマ性を感じてしまう人間の典型のようだった。
いや、結城廉太郎という人物は、普通の人間をも魅惑する、甘美な蜜のような味がするのだろう。
「わたしは大臣に、早急に処刑すべきだと進言したわ。彼は危険だと。結城廉太郎の存在は、人々を狂わせてしまうわ……このわたしのように」
むしろ、魅せられたことを誇りに思っているかのように、美里は言った。
「でも、あの人がいなくなって、わたしは絶望したわ。わたしは、彼のことを愛してしまったのよ……」
一転して、泣きそうな顔になっていた。
「だけど、気がついた……この世には、もう一人、彼がいるということを……」
そして美里は、南波をみつめた。
「バカな……彼は、結城廉太郎ではない!」
「いいえ、廉太郎はわたしに語ったわ──自分の意志は、息子が継いでくれると……そして、その子供をわたしはさがしあてた」
歪んだ妄想。
「大臣が、彼を哀れんで援助していたのもつきとめた。だからわたしは、当時まだ法相だった冬真に耳打ちしたのよ……彼に、この仕事をさせようと──」
それで冬真紀三郎は厚労相に、そして自殺防疫研究所を立ち上げたというわけか。
「あとは、目覚めのときを待つだけだった。彼なら、自殺志願者をそのままにはしておけない。彼らを救うには、『殺人』以外に道はないのよ」
狂っていた。
「でも、夕介は目覚めなかった……それどころか、自殺者を『カムフラージュ』することしかしなかった」
そこで、フフ、と笑みを挟んでから、
「だから、次の手を打ったのよ」
「雪耶さんを使ったんですね?」
「そう。雪耶と会わせることにしたの。小さいときに会っていることは知っていたけど、雪耶の記憶は治療のために封印されているし、夕介にしても、幼い少女の姿から、現在の雪耶を連想することは難しいでしょ? うまくいくと思ったわ」
また、フフ、と笑った。
「偶然を演出しなければダメよ。最初から自分の親を殺した男の息子だということがわかっていては、意味はない。偶然出会って、惹かれあう……そう、二人なら必ず惹かれあうと確証があった」
「あなたの思惑どおりですか?」
「そんなことないわ。なかなか出会わなかったから、文庫本をくれた女の子も利用したのよ。あの子、この学校で、ずいぶん派手なことをしてくれたようね」
「二宮さやか……?」
「名前なんて知らない。『若きウェルテルの悩み』をくれた子よ」
まさかとは思ったが、二宮さやかも彼女に狂わされたのか……。
「あの二人を殺したのは、廉太郎に信念を思い出させるためよ。自殺者は救えない──ってね。フフ、ところで二人? 刑事さんの知らない、その他二名も殺してるんですよ」
恐ろしいことを、平然と告白していた。
では彼女が殺したのは、四名か!?
「とにかく……夕介と雪耶は、ようやくめぐり会い、恋をした。あとのシナリオは、こうよ。真相を知った雪耶は絶望し、夕介は廉太郎となって雪耶を殺す。いまだって見たでしょ? 夕介なら、たった一人でも雪耶を救えたはずよ」
片瀬は、大槻教諭を片腕一本で引き上げた、あの夜の光景を思い起こした。
「そうなのよ……夕介は、廉太郎になっているはずだった……どうしてなの?」
そう問いかけると、南波の表情をうかがうように眺めた。
南波は、無表情だ。
刺されているはずだが、それを感じさせない。まるで、別人であるかのように……。
「あ、あ……」
なんだ!?
美里から、歓喜の喘ぎがもれていた。
「れ、んたろう……」
「え?」
「ついに、ついに……! 廉太郎、よみがえったのね!?」
美里は、南波に抱きついた。
「ちがう」
しかし、南波からは冷たい囁きが。
「ちがう。オレは、夕介だ」
「うそ。あなたは、いままでの夕介ではない……」
たしかに美里の言うことは、片瀬にもなんとなく理解できた。どこか……南波であって南波でないような感覚が、さきほどからわき上がってくる。
「そうだ。いままでのオレではない。これが本当のオレだ」
「だったら……」
「しかし、父ではない。すべては、キミの妄想だ」
「妄想……!? そんなことはない! あなたは廉太郎なのよ……九人を殺害した、結城廉太郎なのよっ!」
片瀬も、そしてとなりに寄り添っているかえでも、この二人の不可思議な会話に黙って縛りつけられていた。まるで、幻覚のようなやり取りだ。
「わたしには、あなたの奥に、だれかが眠っていることがわかっていた。それが廉太郎、あなたなのよ」
説得するように、美里は言った。
「わたしの愛する廉太郎。これで、やっと結ばれるのよ、わたしたちは……」
「結ばれはしない」
「まさか……、雪耶のことを本気で愛しているなんて言わないわよね!?」
「……」
南波は、答えなかった。
「あの子は、わたしたちの娘よ。廉太郎とわたしの……」
なにを言い出すのだろう!?
「わたしが母。あなたが父。あの子の存在は、廉太郎とわたしでつくりあげたんだから!」
存在、つくりあげた──。
胸の底から、怒りがこみ上げてきた。
「もの……じゃないんだ! 彼女は、信頼していた姉に裏切られた……」
心のままに言葉が喉を通っていた。
片瀬は、感情を爆発させた。
「物じゃないんだ! 彼女の心を、自分の狂った欲望のために振り回すなんて……あなたはそれでも、人を愛せると言うのか!?」
「はっははは! あなた程度の下等な人間にはわからないわ!」
そして彼女は、言い放った。
「わたしは、廉太郎を愛している!」
「神に誓って……そう言えますか!?」
賭だった。彼女自身の言葉を借りるしかなかった。
カトリックの神父だった結城廉太郎──その宗教観のために、逆に人をあやめてしまった元死刑囚。
彼に影響をうけ、心酔していった彼女になら、この声が届くかもしれない。
「神に誓って、愛してると言えますか!? 雪耶さんの母だと言えますか!?」
「ち、誓える……」
片瀬は、十字を切った。
声よ……届け!
「神に誓って、後悔していませんか!?」
「そんなものはしない!」
「神に誓って、そう言えますか!?」
「言える……言えるわ……」
「誓うのは、ぼくにではありません。あなたのなかにいる……これまで雪耶さんを守ってきた──愛してきた、あなたのなかにいる神にです!」
「ゆ……」
それまで、どこか感情が欠落していたような瞳の色から、じょじょにべつの彩りがあらわれていく。
「ゆき……」
* * *
本当の姉妹のように、じゃれあったある日。
いっしょに空手道場に通ったある日。
お菓子を分けあったある日。
些細なことで、ケンカしたある日。
仲直りしたある日。
誕生日プレゼントをあげたある日。
そのお返しに、はじめて雪耶からプレゼントをもらったある日。
けっして多くはない、お小遣いで買ったものだ。
子供でも買える安物のブレスレットだった。
いまでも大事にしまってある。
机の奥に、大切に。
くる日もくる日も、姉妹として過ごした大切な時間。
妹になっていた。
いつのまにか、本物の。
* * *
「ゆき……や」
すべての罪悪を洗い流すように、透明な雫がとめどなくあふれてくる。
「ゆき、や……ゆきや……」
彼女は、組んだ手を顔の前にかかげた。
片膝をつく。
祈りを……捧げているように──。
「罪を償ってください……!」
「ムリよ。罪を償うことなんて、できはしないのよ……」
組んだ手を下ろして、美里は言った。
立ち尽くしたままの南波に視線を移したようだ。
「雪耶をお願い……」
「わかってる」
南波は、それだけを答えた。
『お願い』と言ったって、もう彼女は……。
いや──。
南波が、いまだに冷静なのは不可解ではないか。
ひらめくものがあった。
片瀬は、雪耶が飛び降りたフェンスへと急いだ。一瞬、美里の妨害も考えたが、もう彼女に凶悪犯の気配はない。
フェンスを乗り越えるように、下を覗き込んだ。
「ジンくん!」
かえでもついてきたようだ。
となりで同じように覗き込もうとしているが、身長の関係で、とても困難を極めていた。
「ダメ! な、なんにも見えないわ!」
普通の背の高さの人間が見たとしても、同じ結論を出しただろう。
下方は、よどんだ深海のように暗い。わずか四階分の隔たりしかないが、校舎の前に立ち並ぶいくつかの樹木のおかげで、壁と木立との間隙の底は、一切の光が遮断された状態だ。しかし、片瀬の眼には見えていた。
倒れている雪耶に、寄り添うだれかの姿があった。
「先輩!?」
見紛うわけはない。あの迫力のある風貌は、緒方だ。
そのとき、救急車のサイレンが遠くから響くのがわかった。
「片瀬か!?」
下の緒方が、片瀬の呼びかけに反応した。
「どうして、先輩が!?」
「わたしが呼んどいたのよ!」
少し興奮したように、かえでが横で声をあげた。
「ジンくんが、雪耶さんの自宅をたずねてるときにね!」
どこか誇らしげな表情だが、それには応えず、片瀬は下に視線を戻す。
「警視に、とにかく成望中学校へ急行しろと言われたから来てみたが、だれもいない。そんなところにいるなんて思ってなかったからな。で、仕方ないから校舎のまわりを歩いてみた……そしたら、この子が倒れてたんだ」
「彼女の状態は!? 無事ですか!?」
一縷の望みをつなぐように、そう問いかけた。
「息はある! 医者じゃないから、なんともいえんが……とりあえず生きている」
「そうですか……」
ほっと胸を撫で下ろした。
「たまたま落ちた場所に、こんなマットが敷かれてるなんて、ラッキーだったな」
「マット……?」
たしかに見える。雪耶の下には、体育の授業で使うマットがあった。まるで、布団に横たわっているようだ。
「そんな偶然は……」
あるはずがない。
片瀬は、南波と美里を視界に入れた。
南波は、やはり傷などないことのように、こちらを見ていた。美里は膝をついたまま、うつむいている。泣いているのだろうか?
『雪耶をお願い』
『わかってる』
その意味がわかった。
マットは、美里があらかじめ敷いていたのだろう。南波も、そのことを事前に知っていた。美里は、雪耶を死に追いやるつもりはなかったのだ。
いや……そうだったのかもしれないが、できなかった。
そして南波もそれを知っていたからこそ、強引に助けることはしなかったのではないか……。
すぐに、緒方のほうを見下ろした。
「先輩! 雪耶さんをお願いします!」
「あ、ああ」
片瀬は再び屋上をうかがうと、美里に近づいた。
サイレンの音が大きくなってくる。
「助かりますよ、雪耶さんは……」
やさしく語りかけた。
美里は、もう一度、祈るように両手を組んだ。