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ドクン……ドクン……。
〈オレに渡せ〉
ドクン。
〈オレに渡すんだ〉
『俺様』……ではないのか?
「おまえは、だれだ!?」
〈オレは、おまえだ〉
ドクン、ドクン。
やはり《ヤツ》なのか?
「何度言えばわかる。おまえは、オレではない」
〈そうだ。正確に表現すれば、オレはおまえではない。オレは、『本当』のおまえだ〉
「どういう……意味だ?」
ドクン、ドクン。
〈いいから、渡せ〉
「おまえが本当のオレなら、オレはいったいなんだというんだ!?」
〈真実が、いつも常識どおりだとは思うな〉
いつもの口癖。
〈もう考えるな。偽りのオレよ〉
「なにを言っている!?」
ドクン、ドクン!
〈渡せ。そうすれば、楽になれる。苦しむのは、『本当』のオレだけでいい〉
何者かが手を伸ばしてきた。
見えない力に導かれるように、その手をつないだ。
* * *
落ちよう……あとは、このまま落ちるだけ。
一歩、空をかける──。
* * *
「美里さん……どうして、どうして、あなたがこんなことを……」
片瀬は、すがるように言った。
「伊藤康文と山本武司の二名を殺害したのは、あなたですね?」
「もう少しはやく、名前を呼ばれたかったなぁ……」
そう口にした彼女の真意は、わからなかった。
ただ、虚しさが心をよぎる。
「ジンくん! あの子がっ」
かえでの緊迫感を背負った声が、感傷から否応なしに片瀬を引き戻した。
「雪耶さん……死んじゃダメだ!」
もう躊躇はしていられない。北川美里に背後を見せるのは危険だが、ほかに方法は残されていなかった。
片瀬は、雪耶めがけて走り出した。
いや、走り出そうと二歩進んだところで、異変を悟った。
自分の前を走る影があった。
だれだ!?
「南波!」
刺されて倒れていたはずなのに!
出血の量から判断すれば、すでに息絶えていても不思議ではない。屋上のコンクリート面には、自ら抜いたと思われるナイフが落ちていた。
無茶だ。いまそんな動きをすれば、確実に死んでしまう。
だが──。
北川雪耶を救えるのは、彼しかいないのかもしれない……。
「え?」
片瀬は、そこで気がついた。
あれは、南波では……ない?
次の瞬間、凄まじい叫びが轟いた。
「かーみーかぜ────っ!!」
* * *
浮遊感に、身体が包まれた。
(このまま終わる……これで、楽になれる)
さよなら。
義父さん、義母さん。
お姉ちゃん。
板垣先生。
村田先生。大槻先生。
柏木。
さっき出会ったおじいちゃん。
そして……南波夕介。
もう彼への恨みなど、どうでもいいのかもしれない。
もう楽になるのだから──。
「……つ、か……」
なにかが聞こえた。
雪耶は無意識に、差し出されたなにかをつかんでいた。
「つかまれ!」
「……え……!?」
南波の腕。
自分の身体は宙ぶらりん。
フェンスを乗り越えるようにして、南波が手を伸ばしていた。
それをしっかりとつかんでいる。
なぜ、自分から握っているのだ!?
もう楽になりたいのに!
『つないでて』
脳裏に声が響く。いままでにも聞いたことのある囁きだ。
『はなさないで』
だれの声!?
「あなたは、だれなの!?」
「しっかり、つかまってろ!」
つ、か、ま、って……。
記憶は飛ぶ。
一二年前に──。
あの日──。
あれは旅行先だった。どこかの観光地なのだろうが、五歳の雪耶では、詳しい場所まではわからない。
楽しい旅行だった。
どんなことをしたのかは思い出せないが、とても楽しかったことだけは鮮明だ。
そして、夜になった。
両親につれられて、幼い雪耶は暗い森のようなところへ入った。森……ではないのかもしれない。とにかく暗くて、木のいっぱい生えた場所。完全な闇でもなかった。両親の表情が、よく見えたからだ。
能面のような無表情。
ちがう。それすらも、あやふやだ。
父の持つ凶器が、きらめいた。
まず、母を刺した。
母は無抵抗だった。
そうか、死を覚悟していたのか……。
いまならば、わかる。
あれは心中だ。
旅行は、最後の楽しい思い出づくりだったのだ。
母の胸から引き抜いた刃には、美しいほどに真紅の血がまとわりついていた。
次は、雪耶の番だった。
怖くなった。逃げ出した。
樹木のなかを抜けていく。
空気が変わった。
潮の香りが……。
海に面した切り立った崖。
後ろからは、刃物を振りかざした父が迫っていた。
雪耶は、足を滑らせた。
懸命に岩をつかんだ。
なんとか落下はまぬがれた。だが、五歳の少女の力では、三〇秒ともたない。
父の顔が見えた。
自分を哀れむように見下ろしていた。
「ごめんよ、雪耶。身寄りのないおまえを残していくわけにはいかない。いっしょに行こう」
落ちる。
そう思ったときだった。
父が、一瞬にして組み倒されていた。
何者かに襲われたのだ。
「ゆう、き、さんか……」
「なぜ死に急ぐ?」
「わたし、たちには、もう救いは……ない。それ、は、あなたにもわかっている……だろう」
「この娘に、罪はない」
「ならば……たの、む。雪耶を──」
そこで、父の声は途切れた。
「わかった。神に誓って、この娘を救おう」
力も限界だった。手が離れた。
重力に逆らう衝撃が、腕から肩にかけて突き抜けた。
「しっかりつかまっていなさい」
雪耶は、知らない老人に手をつかまれていた。
夜の闇に衣装が溶け込んでいた。
胸に、十字架。
幼いながらも、神父さん、だという考えが浮かんだ。
「はな……ないで……」
しっかりと、その手にしがみついた。
「つない……つ、つないでて!」
必死に呼びかけた。
「はなさないで!」
そして、心のなかで大きく絶叫した。
わたしを救って!!
「しっかりつかまってろ!」
あのときの神父さんの顔と、彼の顔が重なる。
『しっかりつかまっていなさい』
記憶のなかの犯人の言葉。
やっと……思い出せた。
「いいか、はなすなよ!」
「もう……楽になりたい……」
「一人だけ、楽にはさせねえ!」
しかし彼の顔は、南波本人のものではなかった。声音も同様だ。
似ているが、知らない男。いや、何度か会っている。
もう一人の南波夕介。
「なにも信じられない……わたしは、わたしは、両親に殺されそうになった! それを、あなたのお父さんに救われたのよ!」
「だったら、オレがもう一度助ける!」
「でもあなたは……わたしの父親を殺した男の……子供なんでしょう!?」
「オレを恨んで生きていけ!」
「ムリ……よ。わたしは、あなたのことを」
雪耶は、指の力をゆるめた。それでも南波の握力だけで、雪耶の身体は重力に逆らいつづけている。
「さよなら……」
雪耶はつぶやいた。
願いが叶うなら、最後に、本当の彼に会いたかった。
「──死を選ぶまえに、思い浮かべるんだ」
南波の声のトーンが変化したことに、雪耶は気がついた。
「もう一度、見たい景色はないのか!?」
もとの……声?
もとの表情。
「本当に、もう聞きたい声はないのか!?」
見たかったもの。
聞きたかった声。
神様が、最後に願いを叶えてくれた。
涙が流れた。
まるでその涙に流されるように、二人の手は離れていった。




