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47. 同日同時刻
あの刑事が、崩れ落ちたのがわかった。
眼前にはナイフを手にした雪耶が、いまにも襲いかかってきそうに身構えている。
善悪の見境などついていないであろう瞳は、赤く激しく憎悪に燃えていた。
(刺したいのか、それで……)
刃は、まぶしいほどに光り輝いている。
刑事は、倒れてからピクリとも動かない。しかし、助けにいける余裕はなかった。刑事といっしょに、この屋上へ来たもう一人は、なにもできないでいるようだ。
どんな人物なのか確認しようにも、振り返ることはできない。ただ、声が女だとしか……。
〈かわれ!〉
「ゆう、き、れ、ん、た、ろう」
一語一語に呪いを込めるように、雪耶はその名をつぶやきつづけている。
〈くるぞ!〉
《ヤツ》の警告と同時に、ナイフの切っ先が迫ってきた。
なんという踏み込みだ。殺すことに躊躇のない一撃だった。
〈おまえでは、ムリだ!〉
なんとか避けられたが、シャツの胸が切り裂かれている。
高校生の少女が込められる殺気ではない。
「それほど憎いのか」
水平に薙ぐように、二撃目が来た。
わずか後方に下がることで、かわしきった。
紙一重。
〈死ぬつもりか!? 俺様はごめんだ!〉
「そう言うな。この世は疲れる……もう充分だろう?」
南波は、口に出して言った。
〈おまえ……〉
一歩、雪耶に近づいた。まもなく三撃目が来るだろう。
「オレの父親は、結城廉太郎だ。キミの両親を殺害した犯人だ!」
両手を広げた。
いまの自分が南波夕介なのか、結城廉太郎なのか、わからなくなっていた。あの男の罪が自分のものだという感覚は、事件が発覚した当時から、つねに感じていた。
それは、犯罪者を身内に持つ者の宿命のようなものだろう。
「刺すなら、刺せ」
〈わかった……もうなにも言わん〉
「オレは、このときを待っていた」
彼女が、ナイフを手にした腕を後ろに引いた。
勢いをつけて、凶刃が伸びてくる。
『二六人すべてを救え──』
グサッ!
鈍い音が全身に伝わった。腹部が焼けるように熱い。
「これで……楽になれる──」
* * *
雪耶は、自らの両手が赤く染まっているのを見て、終わったな、と心の奥で実感した。
終わった……すべて──。
「よくやったわね、雪耶」
姉が声をかけてきた。
姉は、微笑んでいた。
「お姉ちゃん……」
南波を刺したことで、不思議と憎しみの念は消えていた。
身体のどこをさがしても、どす黒い感情は見当たらない。南波を討ったことで、すべてがリセットされてしまったようだ。
「動かないで!」
叫びをあげたのは、見知らぬ女性だった。
大人びた格好をしているが、自分と同世代だろうと、雪耶の眼には映っていた。
声には、どこかおびえたような揺らめきがあった。
「わ、わたしは……警視庁捜査一課の雛形です! 凶器を捨てなさいっ!」
「あら、ずいぶんカワイイ刑事さんね」
姉が、からかうように言った。雛形と名乗った刑事は、完全に呑まれていた。
「あなたのほうこそ、そこから一歩も動いてはダメよ。この間抜け刑事が死ぬことになるから」
恐ろしい発言だった。あのやさしい姉は、どこへ行ってしまったのだろう。
(どうでもいいか、そんなこと……)
自分も、殺人者になってしまったのか……。
倒れた南波を見下ろしていた。ナイフは腹部に刺さったままだ。
まだ息はある。
だがそれも、もうじき尽きる。
(もうどうでもいいや……)
「さあ、雪耶。もういいでしょ? あなたが死ぬことで、わたしの目的は達成される」
姉が、こっちへ来い、とフェンスへ誘った。
これをよじ登れというのか。登れば、楽になれるのか。
(わたしも、楽になれる……)
「楽になりたい……」
思ったことが、口をついていた。
二メートルほどのフェンスを登り、柵の向こう側へ降りた。
風を強く感じる。死の世界は、すぐそこだ。
勇気を出して、一歩を踏み出せば──。
* * *
『これで……楽になれる──』
『楽になりたい……』
男の声が言った。
女の声が言った。
ゆらゆらと水面に身をまかせているような……そんな不確かな心地よさがある。
どちらが上で、どちらが下かわからない。
無重力の霧に包まれているようだ。
男の声。
女の声。
べつの声も聞こえる。闇のただなかに浮遊する《べつの声》も拾った。
『それは雪耶ではありませんよ』
いつ、だれが放ったセリフだ?
ああ、そうだ。北川雪耶の義父に病気のことをたずねたときだ。
そういえば、あの続きはなんだったのだろう?
雪耶ではない……だとすれば、境界性人格障害だったのは、だれか?
やはりその残像も、闇の海に漂っていた。
片瀬は、つかんだ。
それは、雪耶の家に入ったときの光景だった。リビングで、家具や壁の修復に気づいた瞬間の一コマ。
違和感の正体はわかっている。北川雪耶が過去に暴れた痕跡だ。
『雪耶ではありませんよ』
そうだ、おかしい。
壁の修復も、家具の配置換えも、最近のものではない。
一〇年以上は経過している。
仮に一〇年前だとすると、北川雪耶は、わずか七、八歳だ。
ありえない。
『雪耶ではありませんよ』
雪耶でないのなら……。
まわりの暗闇が、じょじょに明るくなっていく。
夜が終わるのか。
『おきて……』
またべつのだれかの声だ。
よく知っているな。匂いがした。田舎の磯の香りだ。
『おきなさい……』
指が、なにかに触れた。
硬い。コンクリート。
『ジンくん……』
聞こえる。
『ジンくん、眼を醒ましなさい』
眼を見開いた。
「ジンくん! 眼を醒ましなさいっ!」
かえでの声が、はっきり響いた。
片瀬は起き上がった。
さきほど、なにをされた?
後頭部……首の裏側、延髄あたりに、なにかしらの打撃をくらったのだ。
あのときの位置から、そんなことができる人物は限られる。
「あら、おかしいわね。あと二時間ぐらいは意識が戻らないはずなんだけど」
笑みをたたえながらのセリフ。
雪耶でないのなら、境界性人格障害と診断されたのは、彼女しかいない。
かつてのかえでと同じように、外側に攻撃性が向かっている。
今回のすべての事象が、ようやくわかりかけたような気がした。
しかし、信じられない。
だいたい彼女に、一撃で大人の男を気絶させる真似などできないだろう。
『むかし、わたしは近所の不良とトラブルになって、全員をぶちのめしたことがあります』
昼間、聞いたばかりの話が、ふと脳裏をよぎった。
あれが冗談でもなんでもなく、真実だったとしたら?
いや、それでも信じられるわけがない。
「ジンくん!」
かえでの非常事態を知らせる叫びが、夜空にまでこだました。
片瀬は、彼女から視線をそらした。
見れば、北川雪耶がすでにフェンスを越え、いまにも飛び降りようとしていた。
「待つんだ!」
必死に呼びかけたものの、雪耶からの反応はない。
こういう場合、迂闊に近づいて刺激をあたえてはならない。が、こちらの説得がまるで届いていないのならば、強行して拘束することも必要だ。
片瀬は、迷わず雪耶の確保を選択した。
そのとき、背筋にゾクリと寒いものが走った。まるで、細胞の奥深くに氷塵を埋め込まれたようだ。
思わず、片瀬は屈み込んだ。
避けたのではない。どうすることもできない恐怖を感じて、本能で身を固めたのだ。
逮捕術の実習で、よくこういうことがあった。武道の達人を前にすると、素人はかまえを解いて、こう丸まってしまう。
それが幸いした。
頭上をなにかが通りすぎていったのが、風圧でわかった。
「よくかわしたわね。今度は、三日ぐらい目覚めないようにしてあげたのに」
怖いことを、楽しげに言われた。
片瀬は立ち上がる。足が震えていた。
だが、まだ信じられない自分がいる。
信じたくない。彼女が犯人だというのか!?
(なんの犯人だというんだ……)
そうだ。なぜ自分は、ここに来た!?
それは、北川雪耶がここで自殺をする──もしくは、だれかを自殺に導こうとしていると疑ったからだ。
彼女は、なぜここにいる!?
雪耶を心配して、ここへ駆けつけたのではないのか!?
(なにがどうなってるんだ……)
そういえば、南波はどうしている!?
片瀬は視界をめぐらせて、倒れている南波の姿を確認した。闇夜でも、出血しているのがわかった。雪耶に刺されたのか……。
──二人が出会ったのは、偶然だったのか?
以前、そう疑問を抱いたことがあった。
もし、南波と雪耶の出会いが仕組まれたことだとすると、その仕組んだ人物は……。
『あの子……なんだか、危ないことをしていたみたい。自殺を止めていたみたいなの』
これも、昼間の彼女との会話だ。
いや、それはおかしい。
『自殺を止めることは、お姉ちゃんのすすめがあったんです。リストカットの癖を心配してのことだと思います』
昨日、雪耶はそう言っていなかったか? それを信じるとすれば、彼女はそのことをよく知っていたはずだ。
彼女が嘘をついている!?
もし、雪耶に自殺を止めることをすすめていたのだとしたら、いずれ南波とめぐり会うことも計算できたはず。
そう仕組むためには、彼女と南波に、なんらかの接点がなければならない。
それを証明できなければ、この推理は成立しない。
「あなたは、南波を知っていたのか!?」
「ふふふ」
真剣なはずの問いかけは、一笑にふされた。
「あなたの目的は、なんですか!?」
「ふふふ」
やはり、相手にしてくれない。
意を決して、このワードを口にした。
「GOD BLESS YOU! そう書き残したのは、あなたなのか!?」
「くくく、ははははは!」
高笑いに変わった。
これを反応があったと判断してもいいものか……。
「ジンくん!」
再びのかえでの声は、さきほどのものよりも緊迫感が強い。
北川雪耶がこの瞬間にも、虚空へ一歩を踏み出してしまいそうな悪い想像が浮かぶ。
だが、悠長に確かめる余裕はない。彼女から眼を放すわけにはいかないのだ。一秒にも満たない、ほんのわずかの間隙をぬって視線を向けた。
すぐに戻す。北川雪耶は、一時停止ボタンを押されているかのように、同じ姿勢をたもったままだ。風だけが生きつづけているように、北川雪耶の衣服と髪をゆらしていた。
「あなたの大切な妹ではないんですか!?」
「ええ、大切よ。とっても、ね」
「このままでは、雪耶さんが飛び降りてしまいます
……!」
彼女の表情からは、妹を心配している様子はうかがえない。むしろ、それを待ち望んでいるような気すらしてくる。
信じられない……。
(なにが信じられないというんだ)
心のなかにわきおこった、うちなるつぶやきが、自分でも驚くほどに的を射ていた。
(ぼくが、彼女のなにを知っているというんだ!)
信じられない、信じられない、と言うわりに、彼女のことは、名前すら知らないじゃないか!
「雛形さん!」
「え、な、なによ」
かえでは、突然の呼びかけに戸惑ったようだ。
「この女性のことを教えてください!」
かえでは、北川家と南波の所属する組織についての資料を作成してくれた。ならば、雪耶の姉である彼女のこともわかるはずだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
ガザゴソと、気配が動いた。おそらく、さきほど落としてしまった書類を拾っているのだろう。
「彼女は、北川雪耶のお姉さんでいいのよね!?」
「そうです」
「現在の職場は、厚生労働省よ!」
厚生労働省……たしか南波の組織は、厚生労働省が絡んでいるということを、大槻教諭が口にしていた。
つながったとみていいのか?
「もとは、法務省のキャリア官僚だった……国Ⅰと司法試験の両方に合格しているわ! どういうことかわかる、ジンくん!?」
「え、どういうことなんですか!?」
「悔しいけど、わたしなんかより三倍ぐらいすごいわよ!」
かえでが相手を讃えるということは、相当凄いということだ。
「父親も、かつては法務省に勤めていたそうよ。母親は、弁護士だった……」
「なんだか、他人に自分の家のことを知られるのって、不愉快ね。ふふふ、邪魔よ、あのお嬢さん」
彼女が悪魔のように微笑むと、雛形かえでへと向きを変えた。
ゆっくりと、かえでに近づいていく。
「ちょ、ちょっと……ジ、ジンくん!?」
「いとしのジンくんは、あなたを守りきれるかしらね?」
かえでのことを見た目そのままに少女とでも信じているのか、完全にナメきっていた。
だんだんと距離を縮める彼女に、かえでは焦りを隠しきれない。しかし逃げようとしないところは、警察官としての責務からか。
「待て!」
片瀬は、彼女の背後から制止させにかかった。
その刹那だった。見えない角度から、なにかが飛んできた。
くぐもった声をあげるのが精一杯だった。
脇腹をやられた。
苦しみのあまり、その場にうずくまる。
たぶん足だ。背中を向けた状態から、後方に回し蹴りのようなものを放ったのだ。そんな攻撃は見たことがなかった。
「ぐ、う……」
歯を食いしばって、立ち上がった。
(これでも、まだ信じられないのか!?)
自身に問いかけた。心のどこかで、彼女を善人だと思いたい気持ちが生きつづけている。
好意をもっていたからか!?
彼女は、いま義理とはいえ、妹を死へ導こうとしている。
それだけではないはずだ。
『それに、男女が言い争っているという通報もあった』
伊藤康文の飛び降り。女性の声は……。
『首吊り自殺にみせかけて殺人をおこなうことは、簡単ではない』
山本武司の首吊り。かなりの腕力が必要に……。
『GOD BLESS YOU』
文字を残した。
「ひ、雛形さん……南波について調べた資料のほうにも、同じ名前がありましたか!?」
「た、助けて……ジンくん!」
彼女が、かえでに攻撃をくわえられる位置にまで距離を詰めていた。かえでは足がすくんで動けなくなったのか、こちらからの質問にも答えられない。
「雛形さん……雛形さん!」
まだ腹部に苦しいものがわだかまっていたが、片瀬は叫んだ。
「かえで!!」
かえでの瞳が、正気に戻った。
「あ、あったわ! た、たしか……」
かえでは、手にした書類をめくっていく。
そこに、鋼のような彼女が迫る。
いまから飛び込んだとしても、間に合わない。
だが、それでも片瀬は挑んでいった。
かえでが、書類の一ページを破った。
「これと……」
彼女が腕を振り上げる。
もう一枚、破った。
「これ!」
片瀬は、彼女めがけて体当たりをくらわす。
「やめろ!!」
しかし、全体重をのせた強烈なはずの一撃も、瞬時に振り向いた彼女の膝ブロックのまえに、完封された。
肩口に鋭利な岩肌が突き刺さったように、カッと熱をもった。
痛みに変わったのは、後方に弾き飛ばされ、背中をコンクリートに打ちつけてからだった。
「ぐう!」
それでも眼はつぶらなかった。
いま意識を失うわけにはいかない。
彼女は、すでにかえでへ向き直り、今度こそ攻撃を放とうとしていた。
「ひ、雛形……さん……」
「ジンくん、あなたになら見える!」
そう声を張り上げると、かえでは破いた二枚の紙切れを宙に投げた。
その行為に呆気にとられたのか、彼女の攻撃動作が止まった。つられるように、空中でひらひら漂う二枚の紙を眼で追っていた。
片瀬は起き上がる。
どこか遠くの常夜灯に照らされるだけの暗い屋上。
そんな闇夜のなかでも、片瀬の《万眼》には映った。
文字。二枚の紙に、共通の名。
雪耶の姉。
自殺防疫研究所創設に関わった厚生労働省の役人。
北川美里──。
「つな、がった……」
紙が、コンクリートの上に舞い降りた。
ふ、と一笑してから、彼女は、かえでになおも危害をくわえようとしていた。
「美里さん……」
片瀬は、言った。
「北川美里さん! ずっと、あなたの名前を知りたかった……」
彼女が、ゆっくりと振り向いた。
「やっと、知ることができました」
「そう……」
どこか穏やかに、彼女が応えた。