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46. 同日午後九時
「やっと来たわね」
フェンスのきわに立っていた女性が、はじめて声をあげた。
雪耶は、その声を知っていた。
「え……」
思わず、顔が確認できる近さまで駆け寄った。
「それ以上、行っちゃダメだ!」
なぜ、南波がそんな警告を発するのか、まるで理解できなかった。
「な、なんで……お姉ちゃんが?」
それは、自分の姉だった。
どうして、ここに?
「彼女が、おおもとの《赤いイルカ》だ」
「なに言ってるの、南波さん?」
雪耶は、再び振り返った。
そんなはずないでしょう? そう眼で訴えかけた。
「オレが止めた自殺志願者の何人かを、この女が殺している……自殺にみせかけてな」
「そ、そんなことあるわけ──」
「はっはっはは!」
雪耶の言葉は、哄笑によってかき消された。
「雪耶、わたしのかわいい雪耶、その男が何者か知っているの?」
南波さんでしょ?
そういう回答が、どうしてだか口をつかなかった。姉は、なにかのふくみをもたせて、そう訊いている。
姉の顔を見た。
「その男はね、結城廉太郎の子供なのよ。あなたの憎い憎い、結城廉太郎のね」
「ゆう、き……」
赤い。
真紅の。
銀光。
黒いコート。
「そ、そんなはず……ない……」
「記憶に焼き付けられた刃物は、こんな感じかしら」
姉の手からは、刃渡り二〇センチほどのナイフが銀光をきらめかせていた。それが、重力を無くしたように宙を舞った。落下音は、想像よりも澄んでいた。
キーン。
「取りなさい」
姉は言った。どんな感情を秘めているのか、まったく読むことはできない。
「怨敵が現れたのよ。そのナイフを取りなさい」
「……い、いや……」
「あなたも、小さいころに会っているんでしょ?」
そこで、なにかを思い出したように間をあけた。そして、演技がかったように続ける。
「ああ、そうだったわねぇ。記憶を封印されているんだったわね。でも安心して、板垣先生から暗示を解く方法を聞いているわ。もしものためにって、家族にだけ教えてくれたのよ。きっとあなたには、解く方法はない、なんて嘘を言っているでしょうけど。あるキーワードを連続させると、解けるのよ。その言葉は、わたしが決めさせてもらった」
ドクン、ドクン。
鼓動が速くなっていく。この光景は、現実か夢か。
刹那、姉が笑みをたたえながら口ずさんだ。
「GOD BLESS YOU」
まるで、歌うように。
「GOD BLESS YOU」
それが、どうしたというのだ。そんな言葉を聞いても、なにも変化はない。あの片瀬刑事の口からも、耳にしたことがある。自分でも声に出した。
「GOD BLESS YOU」
しかし姉は、何度も何度も繰り返す。
「GOD BLESS YOU」
声が、脳のなかで反響しはじめた。
「GOD BLESS YOU」
「や、やめて……」
「GOD BLESS YOU」
忘れていた記憶の断片が、サブリミナル映像のようにフラッシュしていく。
ナイフを手にしているのは、やはり父だ!
母を刺したのは、父。
次に自分を殺そうとしていたのも、父。
「あ、あ……そんな……」
それだけではない。
自分は南波に会っている。いつだったのかはわからない。
遠い遠い過去。
謝罪をしにきたのか?
そのとき……彼につかみかかっている。
会っていたのか……。
会って、いたのか!
「ウォ~~~~っ!!」
* * *
絶叫が、校舎内にまで届いた。
「なに!? なんなの!?」
片瀬は、駆け上がる足を止めていた。いや、すくんで動かなくなったのか……。
「ジ、ジンくん!」
かえでも、ただごとでない声に、おびえの色を表情に浮かべている。
「急ぎましょう!」
邪念を振り払って、屋上をめざした。
屋上への扉にも鍵はかかっていなかった。開け放つ寸前、昨夜のことが思い返された。
ここも、殺人の現場になっているのだろうか!?
考えたくもない妄想は、頭のすみに追いやるしかない。ためらいは、手遅れを招くだけだ。むしろ勢いをつけるように、片瀬は屋上へ出た。
すぐ眼に飛び込んできたのは、男の後ろ姿だった。
南波。
次が、その南波の前方に立ちはだかる少女の姿──!
ナイフを手にしていた。闇のなかでも、どこかの常夜灯を反射して輝いている。
瞬間的に、真相を知ってしまったのか、という思考が駆けめぐった。
「な、なに!?」
後ろをついてきたかえでが、たじろいだのが気配でわかった。
現場に出ることのない彼女にとって、凶器を手にした人間に近寄ることは、これまで皆無だったはずだ。
「雪耶さん、落ち着いて……」
説得をこころみたところで、もう一人、この場にいたことに気がついた。
闇は深いが、片瀬になら見えた。
「え、あなたは……」
北川雪耶の後方、お姉さんが心配げに立っていたではないか。
きっと、雪耶の立ち回りそうなところにあたりをつけて、ここまで来たのだろう。
「雪耶さん、お姉さんも心配しているよ!」
雪耶の形相は、凄まじかった。昨日、取り乱したときの比ではない。
眼球は赤く濁り、唇からは一筋の血流が!
自らの唇を噛み切っているのだ。
「それをぼくに渡して!」
片瀬は、距離をつめていく。
いつのまにか、手にしていた書類を放していた。だがいまは、拾ってはいられない。
「ゆう、き……れん、たろう……」
雪耶からは、そんな絞り出すような声しか聞こえない。
やはり、真相にたどりついている。
チラッと、南波のほうをうかがった。
覚悟を決めているかのように、南波は微動もしていない。
覚悟?
なんの覚悟だというのだ!?
父親の罪を背負って、罰を受け入れるとでもいうのか!?
「雪耶さん!」
片瀬は、再び呼びかけた。
しかしその声は、北川雪耶には届いていないようだった。
説得はムリか。ならば、取り押さえるしかない。
片瀬は、雪耶の背後に回り込んだ。
幸いなことに、彼女には、どうやら南波の存在しか眼中にないようだ。
タイミングを計って、彼女を羽交い締めで捕らえようとした。
と、その瞬間──。
身体の力が抜けた。
なんの衝撃によるものか……。
「ジンくん!」
そんな叫びを聞いたような気がした。
片瀬の意識は、そこで途切れた。




