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4. 六月九日
他人を殺そうとすることも、自分を殺そうとすることも、最低のおこないだ。
雪耶は、そう思う。
そして、自分自身が嫌いになる。
経験者、というだけではない。雪耶は、あの男に尽きることのない殺意を抱いていた。
絶対に消えることのない、永遠の憎悪。
あの男……、もういない。
この世にはいない。
だから、絶対に消えはしないのだ。
殺したくても、殺せない。
自分のこの気持ちを知れば、馬鹿げた殺人事件など地球上からなくなるだろう。軽はずみな自殺など、この世界からなくなっているだろう。
『ただいま電車が遅れています。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけ──』
駅員のアナウンスが、不快な思考を中断させてくれた。案内板には『中目黒駅でおこった人身事故のため電車が遅れています』と、表示されていた。
「ま~た人身事故だってー」
「最近、多くない?」
女子高生二人の会話が耳に届く。知らない制服だ。
あんなふうに、同い年の友達と会話をしたのは、どれぐらいまえになるだろう。思い出そうとしても、柏木の顔しか浮かんでこない。
それでいい。他人との関係は疲れるだけだ。
自分の過去が、そういう存在にさせる。
消したい過去……。
「自殺かなぁ?」
「そうじゃん、たぶん」
ホームには、人がたまりはじめていた。
地下鉄日比谷線茅場町駅。予定よりも八分は遅れている。
雪耶も、そうに決まってる、と確信していた。
魔の月曜。
西新井駅の騒動から、ちょうど一週間が経っていた。自殺の多い曜日は、どこかのデータを参照しなくても想像がつく。
季節でいえば、春が多いらしい。毎年三月から増えだして、四月・五月がピークになるという。稀に、六月が一番という年もあるのだが、今年は、それが当てはまるのかもしれない。
「またかよー」
「ほかの死に方考えろ、つーの」
このところ、鉄道での自殺が続いている。一度おきれば、自殺は連続するものだ。
そういう連鎖は、よく地縛霊の仕業だということを聞く。自殺者は成仏できない。さまよう死者の霊魂が、またべつの自殺者を呼ぶという。ありえない話だが、そう考えれば、納得しやすいのも事実だ。
「マジめーわく! ○×△□──」
「△×□○──」
ダメだ。これ以上は、彼女たちの会話を聞いていられない。
雪耶は、耳への集中を散らした。
それでもしばらく、意味不明な言語が流れていたが、それも一〇分ほどでなくなった。彼女たちがいなくなったのだ。アナウンスでしきりに振替輸送をすすめていたので、東西線に切り替えたのだろう。
雪耶は、待つことを選んだ。
結局、三〇分以上経ってから、電車はようやく到着した。人身事故イコール自殺──その図式を、大幅なダイヤの乱れが物語っていた。
それからの帰路は、鬱なものとなった。
また人が死んだ。
他人を殺すのも、自分を殺すのも、最低のおこないだ。
家につくまで、左手首の疼きがやまなかった。
閑静な住宅街にたたずむ、ごく普通の一軒家が、雪耶の自宅だ。だがそれは、雪耶の家であって、雪耶の家ではない。
父とも、母とも、姉とも、血のつながりはない。義父であり、義母であり、義姉でしかないのだ。
絆は、血よりも濃い。
建前ではそうかもしれない。
雪耶自身、いまの家族に不満があるわけではなかった。それどころか、とても感謝している。血のつながらない自分を、あたたかく育ててくれたのだから。
しかし、どこかで「他人」なのだ。
いや、もしかしたらその感覚は、血とか絆とかの問題ではなく、雪耶の襲われた境遇のせいなのかもしれなかった。
「よ、雪耶!」
玄関を入るなり、まるで男の子のように、姉が声をかけてきた。
「どうしたの、お姉ちゃん。こんな時間に帰ってきてるなんて」
今年で三一になる。純粋に姉妹としてみたら、とても年齢が離れているが、まるで同年代の親友のような仲だ。公務員なのだが、いつも仕事終わりは遅い。具体的に、どういうところで働いているのか、雪耶は知らなかった。
公務員なんてなるもんじゃない──姉から、よく聞かされる言葉だ。とにかく退屈。安定してなくてもいいから、やりがいを求めるなら民間よ、民間。
そんなセリフを何度も聞いていれば、姉がどんな仕事についているかの興味は、自然になくなる。
「最近どう?」
「どう、って?」
「調子よ、調子」
姉は、屈託なく聞いてくる。
自分の病気のことだ、ということはわかるのだが、イヤな気はしない。姉以外は──両親すらも、そのことにはふれようとしないのに……。
「心配かけて、ごめんね」
「あれをやってるんでしょ? 大丈夫? 危なくない?」
「うん。順調」
自殺を止めることを最初に提案したのは、ほかでもない、この姉だった。なにか生きがいをもたせたかったのだろう。
「いい? ムリはしちゃダメよ」
姉が、まっすぐに自分をみつめている。
美人の姉だ。まだ二〇代前半で通用する。
なぜ結婚しないのか不思議だった。相手がいない──と姉は言っているが、もてないはずはない。性格も……いや、少しだけ男勝りか。空手で黒帯をもっているほどだから、ノリは体育会系だ。腕力だって、一般の男以上に強い。かつて、近所でたむろしていた不良グループ四人を、たった一人で全員ノシたことがある。
「わかってる……」
「約束できる?」
「できます」
「神に誓って、そう言える?」
「誓って、言えます」
雪耶は、キッパリと答えた。
「そう。だったら安心よ。悩みがあったら、なんでもいいなさい」
まるで母親のように言う。
「うん」
雪耶は、あたたかいものを実感するように返事した。
絆は、血よりも濃い──。
すくなくてもこの瞬間だけは、そう言い切れるのかもしれない。
夜更けとなって──。
自室でパソコンを操作していた雪耶は、ディスプレイに映し出された文字を見て、わが眼を疑った。
『明日、一三時一三分一三秒に死ぬことを決意いたしました。南砂町駅で、この世とおさらばするのです。わたくしは逝きます。だれも止めないでください』
《赤いイルカ》の書き込みだった。
つい一週間前、失敗したばかりだというのに、なにを考えているのだろう。それとも、だからこそすぐに再決行しようというのか。
いや……、同一人物とはかぎらない。
前回とは、文章というか、文体というか、書き手の「個性」のようなものがちがっているような気もする。
最後の「だれも止めないでください」というところだけが、つぎはぎのように一致している。
模倣?
『ウェルテルが邪魔をする。気をつけろ』
そのあとの書き込みもあった。やはり前回同様、こちらは名無しだ。
「なんなの、これ?」
この警告は、だれが書いているのだろう。
だれにせよ、怒りが込み上げてきた。
《赤いイルカ》にしろ、この警告の主にしろ、なぜそんなに死を軽んじる。
〈知ってるじゃない、そんなこと〉
他人の囁きにも似た、その心の声に、雪耶は愕然とした。
「知らない……」
〈嘘〉
「知らない……ちがう!」
〈じゃあ、その手首はなあに?〉
「ちがう! ちがう!」
この変調は、病気の前触れだ。
自覚できているから、まだ軽い。
(……電話)
机上で充電中の携帯に、手をのばした。この時間でも大丈夫なはずだ。
「先生」
相手が出ると、そう呼びかけた。
『北川さん?』
「そうです、雪耶です」
『わかりました』
通話の相手は、すべて見通しているように応えた。深夜と呼ばれる時間帯にもかかわらず、迷惑そうな感情は微塵もふくまれていない。
『明日いらっしゃい。いつでもいいですよ、あなたの希望の時間で』