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43. 同日午後八時
「片瀬さんから?」
「ええ、そうです」
大槻は答えた。やきとりの屋台だった。日曜でもやっているところがあるから、と村田につれてこられたのだ。
「なんですって?」
「さ、さあ……よくわかりませんでした」
いま片瀬から電話があったばかりだった。
「ふう」
大槻は、ため息をついた。
今日は、緊急に教職員が招集された。二宮さやかの事件についての報告と、これからの対処を話し合うためだ。さやかの担任だった大槻にとっては、生きた心地のしない一日だった。村田などは、君の責任ではない、と言ってくれるのだが、教師としての力不足を実感した。
いまになって、ドッと疲れが押し寄せてくる。
午後からは、刑事が事情を聞きにきた。いかにも、という顔つきの刑事だった。たしか、緒方と名乗ったと記憶している。凶悪犯も震え上がりそうな面容から、あれやこれやと質問されたのだ。精神がまいってしまいそうだった。
「まあ、しょうがないね。事件が事件だ。あの刑事さんも、仕事なんだから」
「ふう……」
もう一度、ため息。
「でも、あの刑事さん、片瀬さんの先輩なんだって言ってたな」
「ええ。いまにして思えば、わたしのことを気づかってくれてました……」
そこで、沈黙がおとずれた。
「はい、おまち」
屋台の店主が、焼き上がったやきとりを二人の前に置いた。
「わたし、自信がなくなりました……」
「そんなに思い詰めないで」
「でも……」
「まあ、どんな教師でも、そういうときを経験するものだよ」
「……村田先生にも、あったんですか?」
「もちろん」
その堂々とした明言に、教員としての格のちがいをみせつけられたような気がした。
「もう三〇年前になるか……教師になりたてのころは、希望に燃えていたんだがね、いざなってみて、理想とはちがうことに愕然としたんだよ。教師なんて、聖職じゃない……。ただの公務員であり、サラリーマンだ。文部省に教育委員会、縛りつけるものはいくらでもある。それに対立するはずの日教組も、賛同できるような団体ではなかった」
「そういえば、以前は公立の先生だったんですよね?」
「そう、環境は最悪だったね。とくに私がいた学校は、日教組系の教員が力をもっていたから、生徒のことなどそっちのけで、日々、教職員同士の闘争にあけくれていたよ。教師の権利なんかより、子供たちの教育のほうが重要なのにね……」
村田は、むしろ良い思い出を語るときのような表情で、その苦い経験を口にしていた。
「もうなにもかもイヤになってね。自信どころか、希望すらも無くしてたよ。だから教師をやめるつもりで、文句言ってやろうと考えたんだよ」
「だれにですか?」
「文部大臣」
思わず、大槻は眼を丸くしてしまった。
「手紙を書いたんだよ。教育の現状を訴えたんだ」
「返事はきたんですか!?」
「大臣からじゃなかった。ときの事務次官、名前はなんて言ったかな……」
結局、それは思い出せなかったようだ。
「その人は、教育は子供のため、という信念を胸に秘めていた。官僚にも、そういう人物だっていたんだよ」
「なんて書いてあったんですか?」
「あなたが本気で子供たちのことを思っているのなら、やめてはいけない。子供たちのために、いまのあなたを犠牲にしてください」
その言葉で、教師を続けることを選んだ、と村田は語った。
「しばらくしてから、先代の学校長にスカウトされて成望中に来たんだが、もしかしたら、そのときの事務次官が口利きしてくれたんじゃないかって、想像したぐらいだよ」
そして、なつかしむように視線を上方に向けた。屋台の天井しか見えないはずだが、村田の眼には、べつのものが映っているのだろう。
「その方が生きているとしても、かなりの高齢になっているはずだが……一度でいいから、お会いしたかったなあ……」
* * *
「お嬢さん、大丈夫かい?」
さっきから、だれかの呼びかけが聞こえているような……。
「お嬢さん、お嬢さん」
どこか、あたたかいな。
だれだろう。
「お嬢さん、気をしっかりお持ちなさい」
「え……」
そこには、一人の老紳士がいた。どこかで会ったことがある。
そうだ、さきほどぶつかっている。
さきほど?
雪耶は、まわりの景色をやっと認識することができた。
すでに夜となっている。
自分はいままで、なにをしていたのか……断片的だが、思い出すことができた。
あれは昼間か夕方か、このおじいさんにぶつかっている。そのあと、どこかのネットカフェに入って、なにかを書き込んだ。
(なんだった……?)
覚えている。同時に、背筋が震えた。
なんということをしてしまったのだろう。自殺を呼びかける書き込みをしてしまったのだ。
それも《赤いイルカ》の名前で──。
「どうやら、取り戻したようですな」
老人が言った。ぶつかったのは、ネットカフェに入るまえのはずだが、どうしてこの人は、いま自分の眼の前にいるのだろう?
「心配しましたぞ。いまにも死んでしまいそうな足取りでした。ですから、ずっとあとを追いかけてきたんですよ」
ニッコリと笑みをみせた。どうしてなのか、はじめての笑顔なのに安心できた。
この老人は、自分がネットカフェにいるときも外で待っていたのだろうか。年齢は八〇歳になっているのか、いないのか……雪耶のような子供からは判別できない。
杖をついて、よれよれのスーツを着ている。本人もよれよれだが、どこか品のようなものが漂っていた。
「わたし……大変なことを……」
「どうしたんですかな?」
「わたしのせいで、だれかが自殺しちゃうかも!」
「それは一大事ですな」
あまり一大事には聞こえなかった。
「場所は、どこかわかりますかな?」
「え、ええーと……」
ところで、いまいるここは、どこなんだ!?
「ここは……」
よく知っている場所だった。道をもうすぐ進めば、成望中学校がある。
『ヴェッツラーは昨日をさがして──』
自分は、どうして中学校へ向かっていたのだろう。そうだ、二宮さやかが自殺をしたからだ、昨日。
「おじいさん、心配してくれてありがとう。でも、わたしはもう大丈夫だから」
「そうかい、そうかい、それはよかった」
安らぎをあたえてくれる笑顔に見送られて、雪耶は急いだ。
成望中学校──。
どうしてか気になる。自分は、どうやらここを死に場所に選ぼうとしていたようだ。
新校舎が闇夜に浮かんでいた。その屋上に、だれかが立っているのが見えた。
自分の書き込みを眼にして、ここへやって来たのだろうか。
なんの根拠もないことだが、どういうわけか、そう思った。
ならば、止めなくては!
雪耶は、新校舎の屋上をめざした。
44. ?月?日
大槻先生のクズ男が姿を消していたのは知っていた。
先生の最近の様子からもあきらかだし、家を時折、監視しているからまちがいない。アパートにしては良質と見るか、マンションとしては小さいと見るか……どちらにしろ、わたしの家とくらべればウサギ小屋ね。
北川先輩を巻き込み、大槻先生を導いたわたしは、ついに舞踏会をひらくことにした。
先生が聖者になれたかどうかは、どうでもいいわ。
北川先輩にはヒントをあげたけど、あとは先輩次第よ。
ははは。
わたしは、笑って、泣く。
トントンは、残してゆけないわ。
夜、わたしはトントンをまず殺すことにした。
それは、なにかって?
笑わないでね。
犬よ。わたしの大切な友達よ。
そんな名前だけど、ドーベルマンなの。
ははは。
わたしはトントンを、広い庭の端っこにつれていった。
紫陽花が眼に映る。なぜだか、ぼやけていた。
どうして?
わたしは、トントンの首輪をはずし、かわりに細い針金を巻き付けた。普通のロープだと、犬には太すぎるような気がしたから。
トントンは、わたしを信じきっていた。
やはり、トントンの顔もぼやけている。
わたしは、力一杯、絞めた。
トントンが抵抗のために、わたしの右腕を噛んだ。
痛い。
腕が?
心が!?
ますます、視界はぼやけている。
はははは。
悲しいのに、わたしは笑っていた。
ぼやけているのは、涙のせい?
痛みをこらえるあまり瞑った瞳から、涙があふれた。
わたしは、笑っているの?
泣いているの?
さよなら、トントン。
この世に残っていた唯一の親友……。
絶命したトントンを紫陽花のなかに隠すと、わたしは犬小屋に戻った。トントンとの思い出のつまった犬小屋。別れを告げた。トントンに、そしてすべてのものに。
泣きながら、わたしは家のなかに入った。
右腕からの血も、涙のように流れている。
そこからのことは、あまり覚えていない。
たぶん、ナイフを手にしたのだ。アルベルトのコレクション。これみよがしに飾っていた一つを拝借したのだろう。
父の部屋。
ベッドに座ったアルベルトが、笑顔でわたしを向かい入れた。
わたしも笑顔で応えると、空気を吸うように、刺した。
どこだったか……胸か、腹か。
いろんなところを何回も刺したかもしれない。
最後は、首だった。
はははは。
終わった。
アルベルトの呪縛から、ようやく解放されたのよ。
わたしが振り返ると、そこには母が静かに立っていた。
どんな表情だったかな?
無表情だったような記憶もあるし、とても驚いていたような気もする。
悲しんでいた?
歓喜していた?
どちらでもいいわね、いまとなっては。
わたしには、母も死を選ぶことがわかった。
《赤いイルカ》なんだから、当然よ。
だったら、殺すことはない。
この物語は、そして終幕へ向かう。
わたしの死に場所は……ヴェッツラーは、あそこしかない。
志乃とわたしの希望の地。
これから、わたしもいくよ……そこへ。
あのとき……突き落としてしまって、ごめんね。わたしは、志乃を殺してしまったのよね……ごめん。
わたしの死に場所は、あそこしかありえない。
渋谷区の××中学校。
きっとウェルテルも、そこで待っているはずだ。
最後に、北川先輩へ言葉を残す。
ヴェッツラーは昨日をさがして──。