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42. 同日?時
頭のなかが、グニャリと歪んでいる。
重油に足をとられているかのごとく、すべての感覚が鈍い。
自分はどこにいて、なにをしているのだろう。
いや、それはわかっている。
わかっているが、よくわからない。
なんと不安定な……。
「ちょっと、危ないじゃない!」
女の人にぶつかった。
実際の足取りは、しっかりしているはずだ。
なのに、真っ直ぐ歩けないのか?
雪耶は、どこかをさまよっていた。
いまが明るい昼なのか、暗い夜なのかも謎だった。
「おやおや」
また、だれかにぶつかったようだ。
老人の声だけが、通りすぎてゆく。
「お嬢さん、顔色がよくないですぞ」
いつから、こんな状態になったのだろう。
板垣のもとを訪れてからだろうか。
そうかもしれないし、もっとまえ──竹ノ塚の実家だと信じていた場所に行き、自分の記憶がおかしいと疑ったときからかもしれない……。
そういえば、板垣の医院に到着したあたりまでは覚えているのだが、そこからさきのことがはっきりしない。
グニャリ。
グニャリ。
どこでなにをし、なにを考えた!?
〈わかってるくせに〉
たしか、家に帰ったような……。
そこで、パソコンに届いていたメールを見た?
だれからのメールだったか……。
思い出せない。
〈わかってるくせに〉
ああ、そうだ。
二宮さやか……。
そこに、なにかが書かれていた。
そして、どこかへ向かった。
どこだったか……?
〈わかってるくせに〉
やめた。
いままでの行動を振り返って、それがなんになるのか。
〈わかってないの?〉
記憶は偽物。
板垣の暗示。
では、なんのために、そんなことをする?
板垣が独断でするとは思えない。板垣に依頼をした人物がいる。それは両親──義父と義母であるとしか考えられない。
隠したい真実があった。
それはなに?
あの竹ノ塚の家では、殺人はおこなわれていない。
両親が殺されたことに嘘はないはずだ。
どこからが本当で、どこからが偽りなのか、あやふやだ。
どこで両親は殺された?
記憶に埋め込まれた、鮮血、銀光、犯人──あの男が自分に言ったなにか……。
いや、そのなかにも真実が入っているかもしれない。
嘘。
真。
まるで、この二つでオセロをやっているかのようだった。
ひっくり返ったり、もとに戻ったりを交互におこなっている。
〈わかってるくせに〉
鮮血。
銀光。
父の顔。
「!」
父の顔……その手には、銀光。
だれが刺された!?
かたわらに、母。
胸から血を流して倒れている。
なに、この光景は!?
だれが刺した!?
〈わかってるくせに〉
わかっている。
わかっている。
父の手のなかの銀光が、こちらを向いた。
次に殺そうとしているのは……!
「わたし──」
* * *
午後六時過ぎ、片瀬は警視庁に寄った。
日曜の庁内は人が少なく、とくに捜査一課のあるフロアは、在庁組が控えているだけだった。
ここに来た理由は、さきほど緒方から連絡があったからだ。
渡したいものがある──と。
緒方は、自分のデスクに腰をおろして待っていた。電話をうけたときは、緒方も外に出ていたということだから、同じようについたばかりだろう。
「捜査のほうは、どうですか?」
「どうやら、おまえの見立てどおりになりそうだ。犬が殺されていた場所から採取した血痕が、娘の血液型と一致している。いまはDNA鑑定の結果待ちだ。ナイフの指紋も娘のものだったし、キマりだな。捜査員は、今日はもう帰っていいってよ」
「そうですか」
複雑な心境だった。
あんな凄惨な殺しを女子中学生がおこなうなんて……。
「で、渡したいものとはなんですか?」
「まずは、これだ」
A4用紙が一枚。
ヴィルヘルム様
ヴェッツラーは昨日をさがして。
「なんですか、これ?」
紙の大きさのわりには、文字がたったこれだけしか印字されていない。
「おまえが、二宮邸での殺人と中学校での連続自殺は関連性がある──みたいなことを言ってただろ? だから二宮さやかのパソコンを調べてみたんだ。ついでに、硫化水素で自殺した三人目の菊地和彦という生徒のパソコンも所轄署が調べてるってことだったから、そっちもな」
菊地和彦の母親から、パソコンを提出したという話は聞いていた。もう一台のモバイルPCは、南波が持っていったのだ。
「二宮さやかのほうは、すべてのデータが消されていた。が、菊池和彦のパソコンに送られてきたメールの一つが、二宮さやかのパソコンから送信されたものだということが判明した」
「つまり、これが……」
「そういうことだ」
「どんな意味ですかね?」
「さあ、なんのことやら」
この文章は、なにを表現したものだろう。
『ヴィルヘルム』も、『ヴェッツラー』も聞いたことがない名称だ。
ならば、考えるだけ無駄か。
「それと、これだ」
もう一つ緒方が差し出したものは、数枚束ねられた書類だった。
「こっちは、雛形警視殿からだ」
ざっと眼を通したが、書類には、結城廉太郎の遺族に関することと、『自殺防疫研究所』という組織について、そして北川雪耶とその家族についての調べが記されていた。
「これは?」
「警視が、今日一日で作成したものだ。警視庁や警察庁のデータベースをフル活用してな……ま、よそにもいろいろ電話で問い合わせたようだが、なんせ休日だから苦戦したみたいだ。あとで礼を言っとけよ」
「いまはどこに?」
「あ? べつに、今日じゃなくでもいいだろう」
「いや、ちょっと確認したいことがあるんですよ」
「うーん、さっきまで、こっちでやってたみたいだが、いまは捜査本部に戻ったんじゃないか?」
「なら、渋谷署に寄ってみます」
「でも、捜査員は解散になったから、もう帰ったころかもな。電話で確認してみろよ」
「あ、いいんです。ついでに現場にも行ってみようと思ってましたから」
「そうか。じゃ、困ったことがあったら、すぐに俺を呼べよ」
「はい、ありがとうございました」
* * *
ネットカフェ。
書き込みをしている。
* * *
「これ、ありがとうございました」
雛形かえでは、管理官のために用意された個室で、パソコンに向かっていた。沢渡管理官の姿は、すでになかった。もうすぐ八時になろうとしていた。
「そんなことを言いに、わざわざ来たの?」
開口一番、嫌味が飛んできた。
「い、いえ……」
「なに? はっきり言いなさい」
「境界性人格障害……でしたよね?」
雛形が、ギロッとこちらを睨んだ。ただし、可憐な容姿のために迫力はないが。
「それがどうしたの?」
「北川雪耶も、おそらくそうです」
「本人か家族に確認したの?」
「いえ。ただの勘です」
北川家のリビングで察した違和感。ああいう家を知っていた。
「あのころは、地獄ね」
雛形から声がもれた。
「で、なにが聞きたいの?」
「どんな状態になってしまうんですか?」
「……暴れまわったわ。わたしの場合、幸福感が無性に許せないのよ。壊してやりたくなるの……キミも、見たでしょ?」
「は、はい」
かつて──高校時代の彼女の姿が、いまの姿と重なるように浮かんだ。外見は、そのころからほとんど変わっていない。
「どうしてわたしが怒りを爆発させるのか、まわりの人には理解できない。理不尽で場にそぐわない怒り。そんなことをしておきながら、見捨てられることが怖くてしょうがない……」
かえでは、苦いものを吐き出すように語った。
「で、それが?」
「北川雪耶も、同じだと思います。あの部屋は何度も修繕したり、家具を買い替えた形跡がありました」
「なるほどね……。雪耶って子は自殺に興味があるんだったわね。自傷行為の繰り返しも、特徴の一つよ。あの病気は、攻撃対象が外に向けば、過去のわたしのようになる。でも──」
あえてなのか、かえではそこで言葉を止めた。
攻撃対象が、内側に向けば……。
「危険……ですね」
そのとき、片瀬の携帯が鳴った。
「すみません」
部屋を出ようとしたが、
「ここでいいわ」
と、雛形が言ってくれた。遠慮をとりはらって、電話に出た。
『片瀬さん!?』
雪耶の姉からだった。
別れる間際に、携帯の番号を教えていたのだ。一瞬、うれしさが胸を満たしたが、耳に届いた声音が、そういう甘さをどこかに追いやってしまった。
「どうかしましたか?」
『大変です! 雪耶が……雪耶が!』
「え? どうしたんですか!?」
『ネットの自殺サイトで……!』
片瀬の眼に、雛形が使っているパソコンが飛び込んできた。
「ごめん、雛形さん!」
むかしの呼び方が、咄嗟に出てしまった。
「え、ちょっと、なに!?」
かえでを押し退けて、パソコンを操作していく。
自殺サイト……といっても、いっぱいあるが──。
「どのサイトですか!?」
『えーと……ホームページアドレスを言いましょうか!?』
「あ、いえ、たぶんわかります」
あるキーワードが浮かんだ。
赤いイルカ──。
なぜだか、そう確信した。
《赤いイルカ》の書き込みがあったサイトに、どうにか行き着いた。
『世の中は変わらない。永遠に同じような時間の流れが続く。楽になることはない。生きている限り。楽になりたければ、選ぶしかない。夜九時、かの地で飛び降りよう。赤いイルカ──』
伊藤康文と山本武司のものだろうと思われる《赤いイルカ》の予告とは、だいぶちがう文脈だ。その二つも、微妙に相違していたように感じたが、いまのこれよりは近い。
ずっと詩的で、抽象的だ。
「どうして、これが雪耶さんだと思うのですか?」
『片瀬さんと別れたあと、雪耶から電話がありました。そういう書き込みをしたと。それで、あの子のパソコンを調べてみたんです。履歴をチェックしてみたら、このサイトを頻繁にアクセスしていたことがわかりました』
そして、この書き込みを発見したというわけか。
(そうだ)
片瀬は思い出した。《赤いイルカ》というワードをどこかで聞いたことがあると感じたのは、北川雪耶の口から出た言葉だったからだ。彼女を尾行して中学校に行ったとき。雪耶は大槻教諭に、あなたが《赤いイルカ》ね──と詰め寄っていた。
だとしたら、おかしい。
もし本当に、これが北川雪耶の書き込みだとしたら、《赤いイルカ》は彼女だということになってしまう。
『わたし、どうしたら……』
不安にいろどられた声が、思考をもとに戻した。
その心情が痛いほど伝わってくる。
「大丈夫です。安心してください。これが雪耶さんの書いたものだという確証はありません!」
『……あの子は、死ぬつもりなんでしょうか!? そんなことになったら……わたし!』
「とにかく、落ち着いてください! あとはこちらにまかせて」
『は、はい……』
そこで、通話を切った。
「ずいぶん、安請け合いしたものね」
ため息まじりに、雛形かえでが言った。
「女性の方?」
「そうです……北川雪耶のお姉さんです」
そういえば、まだ名前を聞いていなかったことに、そこで気がついた。
「ふうん」
かえでのその反応が、いつもより不機嫌そうだったのは、思い過ごしか?
「で、どうするつもり?」
「北川雪耶を捜し出します」
「あてはあるの?」
「ありません」
「これが、北川雪耶のものだと仮定するとして……自殺の決行場所も書いていないようね。かの地──どこのことかしら?」
「わかりません……」
「そもそも彼女に、死ぬ気はあるのかしら?」
その発言が、とても心に引っかかった。
「え?」
「だってこれ、自殺とか死とか、どこにも書かれていないわ。『楽になりたければ、選ぶしかない』って言ってるだけ」
「どういうことですか?」
かえでは、なにが言いたいのだろう。
「ジンくんは、これを自殺の予告だと思ってるでしょ? でもこれ、不特定多数の人に、自殺を呼びかけてる文章のようにも感じるわ」
かの地で、飛び降りよう──。
たしかに、そうとることもできる。
「じゃあ、雛形さんは……北川雪耶が、だれかを自殺に導こうとしていると!?」
「そう」
かえでの短い返答が、よけい危機感をつのらせた。
「でも……どちらにしろ、最後は死を選ぼうとするでしょうね。つまり内側と外側、両方に向かって攻撃対象が生まれてしまったのよ、彼女の場合」
はやく対処しなければ、と焦りがのしかかる。
「この書き込みを削除できますか!?」
「早急に警視庁からプロバイダのほうへ削除依頼を出しておくわ」
「ありがとうございます」
あと自分にいまできることは、北川雪耶を一刻もはやく保護することだ。
それには『かの地』が、どこのことを指しているのか、つきとめなければならない。
おそらくは、北川雪耶の死に場所のことを示しているのだろう。
「雛形さん! もし自殺するとしたら、どこを死に場所に選びますか!?」
「その質問は、ムリね。わたしは外側にしか攻撃対象が向かなかったの」
それはつまり、自殺など考えたこともないということを、彼女独特の言い回しで表現しているのだ。
ならば、ほかにそれを訊ける人物は!?
瞬時に、ある女性の顔が浮かんだ。すぐに携帯を操作する。
「もしもし、大槻さんですか!?」
『片瀬さん……』
片瀬の緊張をはらんだ声音に、大槻は、またなにか重い出来事があったと悟ったのだろう。絞り出すような声が耳に届いた。
「すみません、訊きづらいことを質問します。大槻さんは、なぜあの死に方を選んだんですか?」
『え……?』
「どうして、あそこの歩道橋を死に場所に選んだんですか?」
『それは……わたしにも、わかりません。あのときは、死ねればどこでも、どんな方法でもよかったんだと思います……ただ──』
「ただ?」
『頭に残ってたのかなぁ……』
「なにがですか!?」
『あの前日……たしか、同じような自殺があったんですよ。埼京線だったはずです』
そういえば、あった。
それで電車が大幅に遅れたというニュースに覚えがある。買ったばかりのデジタルカメラを出しながら、たしかに聞いていた。
そして、あることに気がついた。
伊藤康文と山本武司の死亡。
中学校での連続自殺。
伊藤康文は、ビルからの飛び降り。真相は殺人だったとしても、世間ではそういう自殺と認識されている。
六月三日。
山本武司は、自室での首吊り。
六月十一日……いや、発覚したのは一五日になる。
かたや中学校の連鎖では……一人目は、マンションからの『飛び降り』。日時は、いつだったか……。
そうだ、六月四日。
二人目は、柔道着の帯で『首を吊った』。
六月一六日。
三人目の菊地和彦は、硫化水素。
二四日。
思い出せ。あの日、『硫化水素』での自殺は、もう一件あった。自分も現場に急行している。いや、待て、あれは未遂だ。
その『前日』、自分は出向いていないが、やはり硫化水素自殺があったではないか。駒込だった。そのときは死亡しているはずだ。
完遂している。
ヴェッツラーは昨日をさがして──。
「昨日……だ」
「え? どうしたの、ジンくん!?」
符合した。
中学校での連続自殺は、すべてちがう死に方だった。だがそれらには、共通点がある。
「大槻さん、ヴェッツラーは昨日をさがして──というメールが届きませんでしたか!?」
『え? ああ、たしかそんなメールがきていたわ。今月のはじめのほうだった。意味はわからないけど……差出人は、シャルロッテになっていたわ』
「そうですか……やっぱり」
片瀬は口早に礼を言うと、電話を切った。
「どういうこと?」
「昨日です!」
そうだ。『ヴェッツラー』とは、死に場所……もしくは死に方を表している。
「なんなの、それ!?」
「昨日あった自殺です。おそらく北川雪耶は、二宮さやかの自殺を参考にするはずです……。メールの思惑どおりになっているわけではないでしょうが、自殺方法と自殺場所という伝染性において、ウェルテル効果が発生している可能性があります」
「ちょっと待って。もしそうだとしても、ジンくんは二宮さやかの件について、殺人だと疑っているのでしょう? それに、警察発表でも事件の可能性もある、としているわ。ニュースは忙しくって観てないけど、報道も自殺と決めつけていないはずよ」
「北川雪耶は、現場にいたんですよ。落下したであろう二宮さやかを見ています。あの光景だけで判断するのなら、自殺です」
「……そうね。屋上の状況を知らなければ、そう考えるかもしれない」
一連の法則が生きているとすれば、北川雪耶の死に方は、飛び降りだ。
そして、『かの地』とは──。