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39. 六月二九日
日曜の午前から、片瀬は渋谷署に呼び出された。
署では、二宮邸での殺人事件の捜査本部が設置されていた。
管理官は、沢渡警視。本庁一課からは、二つの係が投入されることになった。片瀬の第一七係も入っている。雛形かえでの姿もあったが、一七係の係長ではなく、管理官見習いという立場なのは周知の事実だ。
片瀬は、捜査員には加えられていなかった。休暇は延長されることが決まった。昨夜電話で、雛形かえでから直接許可をもらっている。だから今日は、あくまでも第一発見者という立場での呼び出しだ。参考意見を求められたのだ。
時刻は、午前一〇時。帳場が立ってから、最初の捜査会議が終わったばかりのようだった。
おそらく管理官のために用意されたであろう個室に通された。いや、管理官というよりも『キャリア』であろうか。沢渡だけでなく、雛形のためのスペースも確保されているようだ。
キャリアの総数は、警察官全体からすると、ほんのひと握りだ。一つの捜査本部に、二人ものキャリアが顔を合わせることは滅多にない。ノンキャリアにとっては、キャリアを見かけるだけで、四葉のクローバーを発見したときのような珍しさがあるのだ。
「で、どうなの、ジンくん?」
部屋には、そのキャリアたちのほかに、緒方も呼ばれていた。
「キミは、二宮さやかという中学生が犯人だと思っているようだけど」
「はい」
「現場検証からも、それはまちがいないかと……」
「巡査部長、あなたには聞いていません!」
いつもながらに、緒方の助け船は撃沈される。
「二宮さやかの件ですが……」
片瀬は、そこまで言えばわかるだろうと、発言を止めた。しかし、いつまでたっても雛形が察してくれそうになかったので、自ら続けることを選んだ。
「捜査本部では、どう見ていますか?」
当然のことながら、一番の容疑者である二宮さやかの死亡も、同時に捜査することになっている。
どうやら、まだ殺人という断定はされていないようだった。
「報告はうけています。一年ほど前の『渋谷カリスマモデル転落死事件』に状況が似ている……と。場所も、となり同士──」
そこで、いったん言葉を区切って、
「ですが、いま結論を出すことは早計です」
「片瀬君、君の見解は?」
それまで黙っていた沢渡が口を開いた。
「は、はい」
片瀬は、うまく声が出せずに噛んでしまった。
「緊張しなくてもいいよ。われわれが、部下の意見に耳を貸さない人種だとされていることは知っている。でもね、捜査のイロハもわからないわれわれが、ここでうまくやっていくためには、いかに優秀な人材を味方にできるかなんだよ」
「は、はあ……」
片瀬は、反応に困った。沢渡は、かまわずに続ける。
「君たちにとってはどうかわからないが、われわれにとって刑事部というところは、けっしてエリートコースに乗っているわけではないんだよ。出世のことを考えたら、やっぱり警備部か、公安だよ」
ノンキャリアでも、それはあまりかわらない。たしかに刑事部はエリートとされているが、出世の通過点というよりも、刑事部に配属されること自体が栄誉なのだ。長い警察官人生を考えれば、警備・警務・公安の三つが、やはり強い。
とくに公安部は、野心家の集まりやすい土壌ができあがっているために、エリート色が格段に強くなっている。逆に、ステータスが一番低いとされているのが、生活安全だ。
「だからね、われわれは出世レースで、すでにおくれをとっていることになる。逆転するためには、切り札が必要なんだよ。それが君だ」
どこまで本心かわからないが、人をのせるのがうまいな、と思った。
「君の能力のことは承知している。率直に意見を聞かせてくれ」
「わ、わかりました」
片瀬は、発言することを決意した。
むかしなじみの雛形ならともかく、生粋のキャリアから直接意見を求められる巡査などいないだろう。
「二宮さやかが父親を殺害したことは、まちがいないと思います。しかし……」
「しかし?」
「二宮さやかの死については、よくわかりません」
「あら? キミは、彼女も殺されたと思っているのではなかったの?」
「最初、現場を見たときは、そう思いました……でも、ありませんでした」
「なにが、なかったの?」
「文字です」
「あれか? 『GOD BLESS YOU』か?」
そう訊いたのは、緒方だった。
「そうです」
あれから、鑑識を呼んで検証作業がはじまると、片瀬も、くまなく文字を探した。が、みつからなかった。
「二宮さやかが自殺なら、父親を殺害したあとに、後追い、もしくは罪悪感で命を絶った──そういう簡単な事件なんだけど」
どこか不真面目に雛形の声は響いた。
まるで、そうあってほしい、という意味に聞こえた。
「ところで、例の人物の調べは進んでいるの? キミは、あの写真の男の捜査から、今回の事件に行き当たったのでしょう?」
「なにひとつ確証はありません」
「すべて憶測でいいわ」
片瀬は意を決すると、あの名前をつぶやいた。
「結城廉太郎──」
雛形の様子は変わらなかったが、沢渡の表情が感嘆にゆれた。
「名前は、南波。おそらく結城廉太郎の肉親だと思います」
「緒方巡査部長、どうやら助言はしなかったようね」
名前を出したとき、緒方の面持ちも、ほっとしたように変化していたので、雛形はそう言ったのであろう。
「見事だね。片瀬君。『GOD BLESS YOU』というのはね、結城廉太郎が犯行後に書き残していた文字なんだよ。事件発生当時、私はまだ学生だったが、入庁してここへ出向になってから、興味があってね、捜査資料を読ませてもらった。なにせ、希代のカリスマ殺人者だったからね」
遠い瞳で、沢渡管理官は語った。
「そこに、文字のことが書いてあった。まあ、一種のマーキングだね。連続殺人鬼が、よくやりたがる自己証明だよ」
なるほど、という思いが片瀬の脳裏にわいた。
「そのことは、マスコミに公表されていない。裁判でも、その記述は出てこない」
「なぜですか?」
沢渡が、あまりにも「なぜですか?」を要求する顔をしていたので、片瀬は素直に従った。
「影響が大きいからだよ。ただでさえ、英雄視されていたからね。神のご加護を──なんて、ロマンチックな文句を残していたと知れれば、ますますカリスマ性が増してしまう。人殺しは、なにがあろうと人殺しなんだがね」
彼自身も興味を抱いて捜査資料を読んでいたというのに、他人事のような口ぶりだ。
「まあ、私など所詮、捜査にかかわることのなかった見物人だよ。菅谷刑事部長は、当時、捜査にあたっている。といっても、あの方もキャリアだから、正確には『部下が捜査にあたっていた』だが。それでも、結城廉太郎のすごさをイヤというほど聞かされたよ」
そう言うと、沢渡は緒方の顔を一瞥する。
「巡査部長も、知っているようだね、当時を……」
無理矢理うながされたように、緒方は発言をはじめた。
「はい。所轄時代、まだ新人のころでした。ある現場で、同じ文字を見ています」
部屋で一番の年長者である緒方が新人だったということでも、事件からの時の流れを感じた。
「ではジンくんは、その南波という男が結城廉太郎の肉親で、同じように自殺志願者を殺害していると思うわけ?」
雛形の声は、過去へさかのぼっていた時間を、現代へ引き戻してくれた。
推し量るに、雛形かえで自身が、そう考えているようだった。彼女なりに、むかしの事件を調べなおしたにちがいない。
「その可能性があります」
「資料によると、たしかに結城廉太郎には息子がいることになっているわ。妻と長女、長男の四人家族だった」
「そうですか……」
カトリックの神父は結婚ができない、という常識がくつがえされた。数少ない例外が許されたのだろう。
「昨日の事件との関係は?」
「直接は、関係ないものと思います。二宮邸での殺人は、むしろいま世間を騒がせている中学校での連続自殺であるのではないかと」
「そういえば、二宮さやかも同じ中学校だったわね」
「そうです。その連続自殺に南波が興味をもっていたようです。彼が、もし殺人者であるならば、その動機は『自殺を止めること』のはずです」
片瀬は、いまわかっている南波の情報を伝えた。
厚生労働省の関連組織。
自殺の感染を防止する。
北川雪耶という女子高生。
様々なキーワードをあげていくうちに、片瀬本人も、この一件が複雑に絡み合っていることを認識した。
「わかりました。厚労省には、わたしのほうから問い合わせておきます。キミは引き続き、南波という男をマークしてちょうだい」
「は、はい……」
雛形は、次いで沢渡に、
「『訪問販売会社社長殺人事件』は、容疑者を二宮さやかに絞って捜査をしていいようですね」
「だが雛形君、被害者は人から恨みを相当かっているだろう」
「もちろん、怨恨の線でも捜査を進めます」
どうやら管理官である沢渡よりも、雛形のほうが主導権を握っているようだ。
「娘のほうは自殺と殺人、両方から調べをおこないましょう。『カリスマモデル転落死事件』との関連は、いまのところ置いておいたほうがいいですね」
「そうだね。異論はない」
「そういえば、北川……ええと」
「雪耶です」
すかさず、片瀬が補足した。
「そうそう、その子も鍵を握っていそうね。二宮さやかの死亡現場にも姿を現していたんでしょう?」
片瀬は、うなずいた。
あのあと、雪耶はいなくなっていた。片瀬もそれどころではなかったから、彼女のことに気をつかってはいられなかったのだ。
「彼女のことは、ぼくにまかせてもらえませんか?」
北川雪耶と南波(結城廉太郎の息子と仮定して)との因縁については、ふれなかった。ますます問題が複雑化してしまうからだ。
「わかりました。簡単な家族構成だけ、こちらで調べておきます」
「お願いします」
キャリアたちとの会談を終えると、片瀬は緒方とともに警察署を出た。
これから緒方は、成望中学校へ聞き込みにいくという。今日は日曜だが、全教員が臨時に出勤しているそうだ。片瀬は、大槻と村田の名前を、緒方に教えた。今回の捜査に大きく協力してもらっていることも。
「おまえは、どうするんだ?」
「ぼくは、北川雪耶の自宅に行ってみるつもりです」
「どこらへんだ? 送ってやろうか?」
緒方は、停めてある覆面に視線を移した。
「あ、いえ……電車で行きます」
目的地は同じ上野方面だが、片瀬は、あえて一人でいることを選んだ。
本来なら捜査活動には車を使うのが常道だ。公共の交通機関では緊急の指令に対応できないからだ。しかし、今回の単独捜査の発端が鉄道自殺に関することだったから、それ以来、電車での移動に徹している。
名目上、いまは休暇中なのだから、問題はないはずだ。
「そうか……勘を鈍らせたくないか。いまのおまえの眼、獲物の隙を逃すまいとする、狩人の眼だ」
言われて、ドキリとした。
「そ、そうですか?」
そして、ポンと肩を叩かれた。
「本物の刑事になったってことだ」
* * *
「なるほどね」
二人だけになった室内で、沢渡がつぶやいた。
「なにがです?」
「君が、彼を必要としている理由がわかったよ」
「よくしてください」
「べつに、君たちの噂話を信じてはいないさ……ま、どうでもいいしね。だが君は、彼を信頼し、たよっている」
「ちがいます。ただ利用しようとしているだけですわ」
そこで、雛形は微笑んだ。
「わたしは、上を狙います」
「ほう。どこまで上り詰めるつもりかな?」
「もちろん、ここの最上階」
雛形は、左胸の階級章──その中心の『桜の代紋』を指さしながら言った。
「ここの……渋谷署の署長ポストではなさそうだな」
「ええ、ここです」
それはつまり、警察官の最上階級を意味する。
女性初の──。
「警察庁長官のポストは、沢渡管理官におまかせしますわ」
ナンバー1である長官の役職は、階級制度から外れたところにある。
「だったら、警察庁官房長殿……お父上に、よろしく伝えておいてほしいものだ」
「ええ。みどころのある男だと、話しておきますわ」
そう語った雛形かえでの笑みは、まるで悪魔の微笑だった。