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37. 同日午後九時
南波は、ある建物に近づいていた。
それほど高くはない建造物だ。正式名称は知らない。ただ『中学校』という認識しかなかった。
この付近に立ち入ったことは、これで二度目だ。
去年の夏──。
となりのビルで、一人のモデルが自殺をした。
そのときの「細工」で、この中学校のことを知ったのだ。
細工するさまを、学校の屋上から、だれかに見られていた。
あれは、彼女だったのだろう。
〈ここからは、おまえではつらすぎる。俺様にかわれ〉
ヤツの声に、おとなしく従った。
指先が重くなる。
足取りも、だるい。
だんだんと自分の身体が、他人のものになってゆく。
そして意識だけが、どこかに小さく固まっていくのだ。
なぜだか、肉体を失うことで、逆に自由を得ていた。
これで、なにものにも縛られることはない──。
「やっぱり、来てくれたんですね」
校内に忍び込み、たどりついた屋上で、彼女は、まるでこちらのことを待っていたかのように語りかけてきた。
「怪我をしてるのか?」
暗がりでも、右腕の負傷が見て取れた。だらんと、力なく垂れている。
「さっきまでは平気だったんですけどね……もう限界みたい。でも、まだ踊ることはできますよ」
「どういう意味だ?」
「ここは、舞踏会です。あなたとめぐり会う日を、夢にまで見ていたんですよ、ウェルテルさん」
「おまえか、その名を広めていたのは」
「そうですよ。わたしは、シャルロッテですから」
彼女の瞳は、闇のなかでも輝いていた。
これからおこる饗宴に、楽しみ、うち震えているように。
「シャルロッテ?」
《ヤツ》は、そう問いかけた。
彼女にではない。いまでは《ヤツ》の精神のどこかで丸まっている、もう一人の自分に訊いたのだ。
〈ウェルテルが恋におちた人妻だ〉
その答えを聞いて、《ヤツ》は静かにつぶやいた。
「物語の登場人物か」
「結局、人間なんて、そういうものでしょう?」
「おもしろいことを言う」
「だったら、笑ってくださいよ」
そう言って、彼女は笑顔をみせた。
しかしその眼からは、涙がこぼれている。
「どうしてだと思う? 笑うと泣いてしまうのよ。おかしいでしょう?」
悲しいのに笑ってしまう。可笑しいのに泣いてしまう。感情表現が麻痺をしている。
人格が崩れかかっているということだ。
自分のことを物語の登場人物と同一視してしまうところからも、妄想型思考はあきらかだ。さらに、ウェルテルには気をつけろ、とネットで書き込みをしていたにもかかわらず、そのウェルテルとの出会いを強く望んでいるという両価性(特定の人物などに対して相反する感情を抱くこと)。
重度の統合失調症──この場合、むかしの呼び名のほうがしっくりくるかもしれない。重い精神分裂病に罹患していると思われる。
「わたしを止められないって、知っているんでしょう?」
笑いながら、泣きながら、彼女は問いかける。どちらの感情が真実なのだろう。
「わかっている。だから、俺様が来た」
「……?」
彼女には、どういう意味かわからないようだった。
「ねえ、最後に教えて。あのときのモデルさんは、なんで死を選んだの? 噂では、不倫とか、貢ぎ物とか言われてるけど」
「それは嘘だ。彼女は、好きな男の子供を妊娠していた。最初は産むつもりだったらしいが、途中で気が変わったのだ。タレントとしての将来を考えたんだろう。だが、もう堕胎をするには遅すぎた」
「ふうん」
とくに関心がないような反応だが、おそらくそれも偽りの感情のはずだ。
「妊娠を隠して仕事を続けた。あまりお腹が大きくならなかったことも幸いしたようだ。いや、災いか。彼女は、トイレで出産した。自分一人だけでな」
「そうなんだ。それで、その子を殺しちゃったのね?」
「そういうことだ。罪の意識が精神を壊していくのに、それほど時間はかからなかった」
「おもしろいわねー」
泣きながら彼女は言った。
「まさかとは思うが、あのときの《赤いイルカ》も、おまえか?」
「ちがうわ。あのときわたしは、まだレミングだった。イルカはべつの人よ」
「では、あのモデルも、自分の意志では……」
「《赤いイルカ》は、ただ導いただけ。あくまでも死を選んだのは、あのモデルさん自身でしょ」
「なるほどな」
「わたしも、楽になりたいなぁ」
ははは、と笑い声が響いた。
「雨もあがって、きれいな満月が出ているわ。絶好の日和だと思わない?」
「死ぬには、か?」
「ドクドクと、出血したら止まらないわよ」
「おまえは、重い病気だ。治療をうけろ」
「ムリよ。人の道をはずれてしまったんだから」
「もう戻れないんだな?」
最終確認だった。
「もう楽になりたい……。あとは、あなたの好きにしていいわ。どうせ、あのときみたいに、わたしのことを──」
二宮さやかは楽しそうに、より一層、微笑んだ。
涙は、ピタッと止まっていた。感情が、逆に出ている。
胸の高さほどの柵に左手をかけた。
「これで、志乃のところへ行ける」
それが、最期の言葉だった。
人が、空を飛んだ。
落ちたのか……。
落とされたのかもしれない……。
* * *
現場検証は続いていたが、片瀬は途中で抜けさせてもらった。
二宮さやかの行方が、とても気にかかったからだ。
当然、緒方をはじめとして、捜査員には、彼女が容疑者であることは告げている。片瀬が単独で動かなくても、いずれ身柄は確保されるはずである。
だが本能が、ジッとしていることを許してくれなかった。
まず大槻教諭に連絡を入れ、事の概要を報告した。
かなりショックをうけたようだった。冷静な話を続けることは難しそうだったが、それでも二宮さやかのことをいくつか質問した。
親しい友人。立ち寄りそうな場所。
そして、昼間に聞いたばかりの自殺未遂のこと──。
孤立しているというわけではないが、とくに仲の良い親友はいないそうだ。立ち寄りそうな場所も、わからない。まえの学校での自殺未遂も、片瀬に語った以外は詳しく知らないという。
いくら担任とはいえ、いまの精神状態で得られる情報は、こんなものだろう。平静時であれば、もっとちがう内容が話されたかもしれない。
ただ、村田教諭が自殺の件については、あるていど存じているということなので、村田の番号を教えてもらい、彼にかけてみた。
村田教諭も二宮さやかの家でなにがあったのかを伝えると、ひどく驚いたようだった。しかし、さすがは経験を積んでいるだけに、取り乱したりはしなかった。
自殺の原因が二宮さやか本人にあるのではなく、親友のほうにあったという話は、大槻教諭からすでに聞いている。やはりこちらでも、それ以上の情報はとくになかった。
捜査に役立つとも思えなかったが、念のため、以前に通っていた中学校のことをたずねた。
渋谷区内にある公立の中学校の名を、村田は答えた。
礼を言って携帯を切ろうとしたところで、思い出したように村田教諭は、こうつけ加えた。
『自殺しようとした場所は、その中学校でしたよ、たしか。校舎の屋上から飛び降りたんです』
──片瀬は、いま、そこへ向かっている。
自殺未遂をおこした場所というのが気にかかった。親友のほうは死んでいるはずだ。
彼女にとってそこは、重い悔恨の地であろう。
一生、足を踏み入れたくないのかもしれないが、その逆もありうる。運命の節目であるはずのいま、生死を懸け、もしくはみつめ直すために、現場を訪れているかもしれない。
いや、もし彼女が死に場所を選ぶとしたら、そこになるではないか……。そんな考えが、さきほどから浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。
中学校に近づくにつれ、片瀬は不思議な感覚に襲われていた。
都心──渋谷区のなかでは、落ち着いた区域と表現していいだろう。背の高い建物は、ここ一帯にはみられなかった。せいぜい五、六階までしかない。住宅区域などでは、高層ビルの建築が都市計画法で禁止されていたはずだ。そのせいなのかもしれない。
不思議な感覚の正体がわかった。
既視感。どこかで、これと同じ光景を見たことがある。
脳が疲れているだけなのか。疲労が溜まると、人間の脳は防御本能により、いまの状況と似た場面を、過去の記憶から抽出しようとする。たんなる、それか?
ちがう。たしかに、この近辺に来たことがある。
思い出した。
昨年の夏におこった『渋谷カリスマモデル転落死事件』だ。
捜査本部が設置されてから最初の三ヵ月だけ、片瀬の係も応援として捜査にたずさわっていた。
いまだに未解決。現場は……。
「ここだ」
片瀬は、そのビルの前でつぶやいた。
当時はおもに、被害者の交遊関係と、その関係者のアリバイの裏付け担当だったから、一度しか現場には来たことがなかった。だから、うっすらとした記憶しか残っていないのだ。
そのとなりが、問題の中学校ではないか。
なんだ、この偶然は……。
(考えてはダメだ)
いまは、もっとシンプルに事件と向き合うべきだ。片瀬は邪念を振り払った。
学校のほうに眼を向けた。
モデル事務所の入っているビルと、学校の校舎は、本当に真横同士だった。
校舎は三階建てで、事務所のビルは四階建てだが、学校のほうが一階分の高さを多くとってある。事務所のほうが、やや上から見下ろしているが、双方とも、ほぼ高さは同じとみていいだろう。
と、そのとき──。
「うおおおおおっ!」
鬼神の唸り声のようなものが、夜の街にこだました。
「な、なんだ!?」
中学校からだ。
片瀬は、校庭側に移動した。正門は、そちらのようだ。
校庭といっても、コンクリートの狭い広場が申し訳ていどにあるだけだった。
校門から、なかをうかがった。
一見しただけでは、だれの気配も感じることはできない。
校舎のどの部屋からも、灯は確認できなかった。むかしは宿直している教員や用務員がいたものだが、現代において、そんな学校は皆無だろう。
「ん?」
ちょうど真正面、校舎の壁際に、なんらかの物体が落ちているような……。
その周囲を照らす光源がないので、片瀬の位置からは、それがなんなのかまではわからない。
距離は、三〇メートルほど先だろうか。
まさしく都会の盲点のような闇が、そこにわだかまっている。
片瀬は、意識を瞳に集中した。この眼ならば、とらえることができるかもしれない。
「暗い海……」
ここは、闇夜の海底。わずかな月明かりが、ほんの少し届いてくれればいい。
必ず、見える!
「二宮……さやか」
《万眼》が逃さなかったそれは、二宮さやかの亡骸だった。
倒れていることだけではなく、すでに息絶えているであろうことも見抜いていた。
片瀬は校門を開けようとしたが、しっかりと施錠されていた。仕方なく、乗り越えてなかに入った。二宮さやかの遺体に近寄る。
自殺なのか?
いや、まだわからない。結論を急ぐな。
校舎を見上げた。屋上から落ちたとみるのが妥当だろう。
調べてみるつもりだった。
と、ふいに気配を感じた。背後から。
「!」
だれかが立っていた。
「なぜ、キミがここにいる!?」
片瀬は、言い放った。
北川雪耶だ。
「二宮さんに呼ばれたんです」
機械仕掛けのように、彼女は言った。
「別れを告げる電話のあとに、メールが来ました。ここの場所と、自殺に至った経緯が書かれていました」
やはり口調から、人間味を感じない。
「二年前、ここで二宮さんは、親友の志乃という子と自殺をしたそうです」
「ああ。それは知っているよ」
「でも、それは真実ではないと」
「……?」
雪耶が、なかなか続きを言わないので、片瀬は苛立った。
やっと口にした話の続きは、衝撃となって背筋を駆け上がった。
「志乃さんを突き落としたのは──殺したのは、二宮さんです」
「どういうことだ!?」
「突き落としたあと、自分でも落ちました。それは、まぎれもなく自殺です。二宮さんによる心中だったんですよ、ここでおこったことは」
抑揚のないしゃべり方で、北川雪耶は語った。だからこそ、嘘ではないと感じた。
「問題があったのは、二宮さやかではなく、もう一人の……志乃という子のほうだろう? なぜ、彼女から自殺する必要がある?」
「二宮さんの父親に、だまされたからです」
捜査二課・新条の話が、雪耶の声とダブるように思い起こされた。
《前科のない詐欺師》という異名。
以前から二課にマークされ、マスコミにまで取り上げられていた。それだけのビッグネームだというのに、前科がない。
よほど悪知恵がはたらくか、詐欺業の《天才》であろう。
「用心深い人だったみたいです。関東近辺で事業はやらない。収入よりは、慎ましやかな生活をおくる。自分だけでなく、社員一人一人を骨の髄まで詐欺師として教育する」
つまり、周囲には被害者を出さない。派手な生活をしない。確固たる組織を形成する。
詐欺師が尻尾をつかまれる原因をことごく潰している。
自分の生活圏で詐欺をおこなえば、検挙される率があがるし、被害者からの恨みで日常生活がおびやかされる。おそらく、それだけ慎重であるならば、被害者一人一人からは、あまり多くを搾取しなかったはずだ。
慎ましやかにすごすのも、同じ理由からだろう。せしめた金で豪遊三昧を繰り返し、足がついた詐欺師の話なら、いくらでもある。
ただし、二宮家の邸宅を見ていれば、本当に質素をめざしていたかは疑わしい。とはいえ、まわりの屋敷より控えめだったのは事実だ。いまの中学に転校するまえが、公立のこの学校という理由にもつながる。
確固たる組織というのは、語るまでもないだろう。詐欺集団が崩壊するプロセスは、末端の構成員からと相場が決まっている。プロフェッショナルでない下っぱが、警察に口を割る。ならば、すべてをプロにすればいい。
「でも、志乃さんの家だけは、偶然にも近所になってしまった」
彼女の家は、関西から夜逃げ同然で、ここへ越してきた──そう、雪耶は口にした。
大多数の被害者とはちがい、志乃の家は訪問販売詐欺にあったのではない。地元では、小さな印刷工場を経営していた。二宮さやかの父親──『ホーム・クリエイティブ』が、その印刷工場を使ってチラシを作成したことが発端だ。
志乃の印刷工場は、もちろん、それが犯罪まがいのことに使われるとは思っていなかった。大口の注文だったので、家族でよろこんでいたほどだという。
結果、ホーム・クリエイティブの関連組織と疑われ、信用を失くした。顧客はどんどん離れ、借金がかさんだ。そして、東京に身を隠したのだ。
「志乃さんと親友同士になってしまったことで、二宮さんは、自分の父親の所業を知ってしまったのよ」
それが、彼女たち二人におこった自殺の根底になったのか。
「一度、壊れた歯車は、もう修復することはできなかった……」
志乃という少女の家庭のことだろうか。それとも、二宮さやかの心のことだろうか?
「本当に死にたかったのは、二宮さんのほうだったのよね……」
夢幻に語りかけるように、雪耶はつぶやいた。
「親友にたいする贖罪だというのか?」
片瀬は自分でも、それを雪耶にめがけて問いかけたのか、わからなかった。
答えも返ってこなかった。
ふと、屋上を見上げた。
二宮さやかが自ら飛び降りたであろうそこは、暗い闇が覆っていた。
そして、見えた。
何者かの影!?
「南波……」
片瀬は、そう口に出した。確証はない。《万眼》をもってしても、はっきりとは眼球に映らなかった。
咄嗟に、校舎の玄関へ急いだ。
ダメだ、扉は開かない。
いまのが、まちがいなく人影だったのならば、どこかに鍵のかかっていない扉か窓があるはずだ。南波であろうと、なかろうと、追い詰めなければならない。
二宮さやかも、自殺とはかぎらないのだ。
そのとき、背後から明るい光の束が襲いかかった。
「そこにいるのは、だれだ!?」
片瀬は、振り返った。
警備員のようだ。定時の見回りなのか、二宮さやか、もしくはいまの人物が校舎に侵入したさいに、窓を割るなどして警報装置が作動したからなのかは判断できない。
「なにをやっている!?」
「ぼくは、警察の者です! ここの鍵を開けられますか!?」
片瀬は、警察手帳を提示しながら、そう叫んだ。
ただ事でないと悟った警備員が、鍵を開けてくれた。二分ほどかかった。
片瀬は、暗い校内に入った。
灯などいらない。この眼ならば、充分に見える。
階段を駆け上がる。同時に、人の気配が潜んでいないか、瞬時にさぐっていった。二階、三階と、人のいる気配は感じない。
屋上へ出た。
この光景を知っていた。今度は、既視感などとは言わない。
現場検証時の写真を眼にしていた。
となりの事務所から転落死した、カリスマモデルの事件だ。
足跡が、まわりの街灯や月明かりで、くっきりと視認できた。いや、常人ならば無理かもしれないが、片瀬には容易だった。
夕方の雨の影響もある。堆積した埃が、わずか泥のようにぬかるませていた。
二人が争った形跡──。
モデル事件に状況が似ている。
そして、さきほどの唸り声。
『男性の叫び声を聞いたという証言もあった──』
勢いで踏み込もうとした足を、なんとかとどまらせた。
保存しなければ。
ここは、殺人の現場だ。