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囁き  作者: てんの翔
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36

        36. 同日午後六時半


 夕立にうたれながら、雪耶は歩き続けていた。

 さまようように……だが、目的地は明確だった。

 遠くに『倉本心療医院』の看板が見える。

 自分の記憶に細工ができる人物は、主治医である板垣のほかにいない。

 以前、暗示の話をしたことがあった。同世代の若者言葉が理解できないことを暗示でどうにかならないか、と。板垣は、かけられないと言った。そうではなかった。すでに、べつの暗示にかかっていたのだ。

 ちがう家だった。

 一歩一歩、医院に近づくにつれ、夢から醒めるように、まとわりついた嘘が剥がれ落ちていくのがわかる。

 記憶のなかの父親像。母親像。家の間取り。

 あの日も、いまのような激しい雨が降っていたはずだ。

 それも偽りだ。

 鮮血の赤。刃の銀光。

 嘘。嘘。嘘。

 父も、母も、殺されていない。

 いや、結城廉太郎に両親が殺害されたことは真実だろう。

 しかし、自分の脳に焼きついている、あのおぞましい残像は、真実ではない。

 両親に、なにがあったのか?

 自分自身に、なにがあったのか!?

「……」

 歩みを止めた。

 傘をさした板垣が、眼の前で立っていた。

「風邪をひきますよ」

「……」

「解けましたか」

 なにもかも、見通しているような口ぶりだった。

「やっぱりダメですね。倉本には、かなわない」

 自嘲ぎみに、板垣は言った。

「このまえ来院したとき、自殺を止めるために西新井駅へ行った話をしてましたね。あれで、暗示が解けかかっていることに気づきました。あの家には……竹ノ塚周辺には近づけないようにしていましたから。行こうとすれば、恐怖感がふくらむように──」

「あそこは、先生の家ですね?」

 かまいたちのような声が、板垣に飛んだ。

「むかしはね。いまは、元妻の家ですよ」

「なぜ、こんなことをしたんですか?」

「その質問には答えられません」

「変える必要があったんですね?」

 板垣は、無表情のままだった。

「嘘なのはわかりました。でも、本当の記憶が見当たりません……」

 轟音を響かせて、近くに雷が落ちた。 

 二人のいる、ごくわずかな空間だけには、その音も輝きも、影響をあたえられないかのようだった。

「返してください……」

 いま自分のもっている、過去の──事件の記憶が、捏造されたものだということはわかるようになった。だが、それと入れ代わるはずの、本当の記憶がよみがえってこない。

「返してください!」

 雪耶は、同じ言葉を強く繰り返した。

「思い出さないことで救える心もあります」

「返して!」

「どちらにしろ、あなたはまだその言葉を聞くことはできません。あなたには、二つの暗示をかけてあります。現場として記憶させた私の家へ近づかないようにすることと、もう一つ──」

 凄い形相で、雪耶は睨んでいた。

「『不快』だと感じた話を耳にすると、あなたは拒否反応をおこしてしまう。低レベルの不快感ぐらいならば、相手の言葉が意味不明に聞こえる程度ですが……。このあいだ、あなたはそれを暗示で治してくれと言いました。ちがうんです。私の暗示で、そうなってしまったんです」

 そういうことか。ギャル語を理解するのに、柏木の通訳がいるわけがやっとわかった。

「そして高レベルになると、パニックをおこすほど取り乱してしまう。思い当たることがあるでしょう? あなたにとっての『高レベル』とは、事件のこと以外にはありませんよね」

 思い当たることだらけだった。

「残りの暗示も解いてください」

「解く方法はありません。自然に効力がなくなるのを待つしかね」

「ふざけないで!」

 雷鳴のように、声が響いた。

「もう……だれも信じられない……」

 一転して、そう弱々しくつぶやくと、雪耶は踵を返した。

「どこへ行くんですか?」

 板垣の問いには、無反応で通した。

「せめて、傘を──」

 雪耶は、もう振り返らなかった。



 いつのまにか、雨はやんでいた。

 どれぐらいの時間、歩き続けたのだろう。

 ここがどこなのかも、わかっていなかった。

 同じような街並みが、ずっとループしているように感じられた。

 すでに、完全な夜となっている。

 そのとき、携帯が鳴った。

 しばらく出なかった。それでも鳴りつづける音に、雪耶はゆっくりと携帯を手に取った。

『もう「レミング」はいなくなっちゃった。残ったのは《イルカ》だけ』

 耳に、楽しげな声が流れてきた。

 二宮さやか──。

『まさか先輩も、レミングは自殺しない、なんて言わないですよね?』

「……」

『レミングは下等なネズミだから、自殺なんてしない──つまらない大人の理屈だわ』

「あなたが、《赤いイルカ》なのね?」

『そうですよ。そして、先輩がそれを継ぐんです』

 その言葉が、胸に突き刺さる。

『わたしが、あの方から受け継いだように』

「?」

 どういうことだろう?

 いや、どうでもいいか、そんなこと。

 雪耶は、考えることをやめた。

『あとでメールを読んでください。先輩のパソコンのほうに送っておきました』

「どうしてアドレスを知っているの?」

『あの方から聞いたんです』

 また、あの方……。

 だれのこと?

 やめよう、考えることは……。

『イルカは自殺する動物です。レミングとちがって、高等な生物なんですから、だれも否定はできないはずですよね』

「否定する気なんかない」

『そうですか。さすがは、わたしがあとを託すだけの人です。では、さようなら。やっと解放される』

「なにから解放されるの?」

『この世界から』

 未練も悔いもない、とても爽やかな言葉だった。

 それでも、彼女はなにかを残しておきたかった。

 雪耶の心のなかにしか、それを残せる場所は存在していなかったのだ。


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