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囁き  作者: てんの翔
31/46

35

        35. 同日午後五時


 列車内は鮮やかな夕日の色であふれている。

 東武伊勢崎線──。西新井駅までは、このあいだ来たばかりだ。

 次の『竹ノ塚』で、雪耶は降りた。

 なつかしいはずの駅。しかし、一二年前の記憶とはちがい、町は知らないうちに発展していたようだ。

 大きなスーパーが、駅から眼についた。構内や駅ビルも、むかしとはちがう。

 意識的に考えないようにしていた場所。

 西口の住宅街に、かつての家があった。

 本当の……家。

 駅から徒歩でいける距離だ。一〇分ほど入り組んだ路地を行く。

 住宅街は、あまり変わっていない。蜜蜂が自分の巣に戻っていくように、雪耶の足は自然に進んだ。

 記憶が確かなら、ここのはずだ。

 雪耶は、その家を前にして、意外さを隠しきれない。

 惨劇のおこった現場のはず……。

 おそらくは、べつの建物になっているか、さら地になっているだろうと考えていた。

 しかし、家は普通に存在していた。

 だれかが住んでいることは、まちがいないだろう。あのころからリフォームされている箇所もあるようだが、そのたたずまいは、雪耶の知っている「わが家」だった。

「どういうこと……?」

〈ちがう〉

 また、声が聞こえた。

〈ちがう〉

「なんなの、この声!?」

〈思い出せ〉

「なにを!?」

〈思い出せ〉

「だから、なにをよ!?」

 叫びをあげた。

「ど、どうしたの!?」

 よほど雪耶の声が大きかったようだ。となりの家から住人が出てきてしまった。

「どうしました、お嬢さん!?」

 五〇代ほどの女性だった。雪耶の知らない顔だ。もっとも当時は五、六歳だったので、記憶していないだけかもしれない。

「あ……ご、ごめんなさい」

「大丈夫?」

 心配そうに、その女性は雪耶のことを気づかってくれる。

「あの……すみません、こちらにはどういう方がお住まいなんですか?」

「はい? 寺尾さん……ですけど」

 表札にも、そう書いてある。

「ここでなにがあったか……」

 さすがに、雪耶は言いよどんだ。

「あら、やだ、そのことなの。知っていますよ。というか、この近所で知らない人はいないわよ」

 なぜだか、女性は笑みをたたえていた。

 あきらかな違和感があった。

「ど、どうして笑っていられるんですか!?」

「え、どうしてって……」

 女性は困ったような表情だ。どこか会話が噛み合っていない。

「あ……もしかして、不倫相手のお子さん? ごめんなさいね、無神経だったわね……」

「ふ、不倫!?」

 やっぱり、噛み合っていなかった。

「ちがうの?」

「だれが不倫したんですか?」

「ここの旦那さんよ。あ、どうなのかな? これはたんなる噂だから」

 話が見えなかった。

「五年前に離婚したのよ、寺尾さん。だから、ご主人が浮気したんじゃないかって噂してたのよ」

 思いっきり、肩透かしをくらった。

「そういうのではなくて、むかし……一二年ぐらい前に、ここでおこったことを知りませんか?」

「え、一二年前? ちょうど、うちが越してきたぐらいよね……。とくになんにもないわよ。ここらへんは、平和なものよ」

 おかしい、と思った。そんなはずはない。

「ここで、人が死んでるはずなんですけど」

「死んでる? ずいぶん、物騒ね」

 女性から深刻さを感じることはなかった。

「一昨年、そこのおじいちゃんが病気で亡くなったけど……」

 向かいの家を指さして、そう言った。

「いえ、ですから、そういうのでは……」

 続けようとしたが、無駄だと悟った。なにかがちがう。

〈つくられた〉

 また声がした。

 文字として脳裏に焼きつくような、形容しがたい囁きだ。

〈記憶〉

(きおく……!?)

「あら、大丈夫?」

 虚空をさまようような歩調で動きだした雪耶を不審に思ったのか、女性が声を投げかけた。

「大丈夫です」

「少し休んでいく?」

「いいえ」

 雪耶は、そう断ってから、あらためてたずねた。

「この寺尾さんという方は、離婚したんですよね?」

「ええ、そうよ」

「苗字は変わっていますよね?」

「そうねぇ。そういうことになるわねぇ」

「なんていう名前でしたか?」

「え~と、え~……、あら、なんだったかしら……」

「もしかして、もとは『板垣』じゃありませんでしたか?」

「ええーと、いたがき……ああ、そうよ、板垣さんよ。やあね、まだ五年ぐらいなのに、すっかり忘れてたわ」

 そういうことか……。

 雪耶は、すべてを理解した。

 その後、女性からいくつか声をかけられたが、背中に浴びるだけで、振り返ることはしなかった。

 自分の記憶は、つくりかえられている。

 そんなことができる人物は、一人しかいない。


       * * *


 高級住宅地は、騒然たる空気に包まれていた。

 片瀬の通報であきらかになった陰惨な事件。

 あたり一帯の立ち入りは制限され、『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープの外から、大勢のマスコミと野次馬が顔を覗かせている。

 所轄署の捜査員に遅れること三〇分ほどで、本庁捜査一課の人間もやって来た。自分の係だった。やっと肩の荷がおりた心境だ。

 第一発見者を疑うのは、捜査の常識。つまり、片瀬が一番に疑われる存在になる。身分証を提示して、警察官だということをわかってもらったあとも、所轄捜査員の対応は気分のいいものではなかった。

 もし、一般市民が自分と同じ立場に置かれたとしたら……。

 警官の評判が、世間で悪くなるのも当然といえた。

「大変だったな」

 緒方が声をかけてくれた。こうして現場で会うのは久しぶりになる。

「はい……」

「よく、こらえた」

 吐かなかったことを言っているのだろう。

「なんとか……」

 第一発見者であるという使命感だけで気持ちをたもっていた。

 片瀬は、家の外に出ていた。

 すでに陽が暮れそうな時刻になっている。

 薄くなっていくオレンジ色とはべつに、鬱蒼とした樹海のような暗雲が、こちらに迫ってくる。梅雨よりもさきに、真夏のスコールにみまわれそうだ。

「思い出すと、もどしちゃいそうですけど」

 不快な事情聴取から解放されて、一息ついたところだった。

 なかでは、一課と鑑識が忙しく動き回っているはずだ。連絡をうけて駆けつけてきた家政婦からも話を聞いている。

 やはり最初の読みどおり、家政婦がいたということになる。住み込みではなく、通いだったようだ。少しだけ聴取の内容を聞いていたのだが、昨夜十一時過ぎに、奥様──二宮さやかの母親から電話があったということだった。

 明日は来なくていい、という一方的なものだったらしい。そこから推理できることは、夫が殺害された時刻──または、殺害されていることに気づいた時刻が、午後十一時ごろだということだ。それから母親は、自殺を決意した。

 父親と犬を殺したのは、二宮さやかでまちがいないだろう。

「ここの娘が犯人だというのか?」

 緒方にそのことを告げると、半信半疑の様子だった。酷たらしい殺され方を眼にしたら、とても女子中学生の犯行だとは信じられない。

 しかし大槻教諭の前でみせた、あの狂った哄笑を響かせる姿が、片瀬の脳裏から焼きついて離れない。なにかが、彼女に一線を越えさせた。この一家に、なにがあるというのだろう。

 と、そのとき、門からスーツ姿の集団が入ってきた。捜査員であることを証明する腕章はつけていなかった。

「だれだ?」

 緒方のつぶやきが聞こえたのか、先頭にいた男が警察手帳を開いた。

「二課の新条です」

 経済事件・知能犯専門の捜査二課が、なんの用だというのか。

 同じ本庁だが、会ったことはない。所轄署とはちがい、本店は大所帯だ。捜査一課の同僚たちですら、知らない顔も多い。課が異なれば、まったく見たことがなくても不思議ではないのだ。

「なぜ、おまえらが?」

 緒方のことをよく理解している片瀬ならば、その質問が、とくに含みをもっていないことがわかる。しかし、絵に描いたようなゴツい強面からそう言われれば、とげとげしく感じてしまったことだろう。

 ドラマなどでよくある、セクション同士の対立の構図だ。

「われわれは、二宮健治を追っていました」

 どこか悔しさが滲み出ていた。

 新条は、刑事というよりも、政治家の秘書といったような風貌をしていた。年齢は、三〇代半ばほど。外見だけで判断するのなら、彼のようなタイプは、こうして感情を表に出すのは希有なことではないだろうか。

「あなたも聞いたことがあるでしょう? 詐欺まがいの訪問販売で、何度も世間を騒がせた男ですよ」

「被害者は、あの二宮か……」

 緒方には、思い当たることがあるようだ。

「《前科のない詐欺師》……だ。『クリエイティブ』や『ホーム・サービス』という社名で、当時はやっていた。いまはどうか知らんがな」

 そう説明を入れてくれた。

 うっすらと記憶にあることを、片瀬は自覚した。そして、大槻教諭から二宮さやかの父親の会社名を聞いたとき、なんとなく耳にしたことがあると感じた理由をつきとめた。

「いまは、『ホーム・クリエイティブ』です」

 片瀬は、思い出した名称を口にした。

 その名を知っていることに、緒方は意外そうだった。

 新条が、ゆっくりと首を縦に振る。

「そうです。今度こそ、逮捕までもっていこうとしていました。無念です……」

 緒方が、道をあけるようにわきへどいた。

「詳しい話は、なかで聞いてくれ。できれば、協力もお願いしたい」

 再び新条はうなずくと、家のなかへ入っていった。

 緒方なりの慰めだということがわかった。

「おまえの追っている男が、二宮健治と絡んでいたのか?」

 二課の集団が二宮邸に消えると、緒方はそう問いかけた。

「いいえ。たぶん関係ありません。でも……結果的には、ここまで来ました」

 それを聞くと、ただ「そうか」とだけ緒方は返した。

 ふと、片瀬は開いている門のほうを向いた。もしかしたら、なにかの予感があったのかもしれない。

 通りの奥──野次馬に混じって、あの男の姿が眼球に映った。

 いつもの《万眼》というよりも、偶然、視界に入ったような発見だった。

 おい、という緒方の声を背中にうけながら、片瀬は走り出していた。見張りの警官のあいだをすり抜け、マスコミと野次馬のなかをかき分けてゆく。

 降り出した雨が、頬に当たった。

 男は、あきらかに人込みから遠ざかろうとしていた。ただし、「逃げる」という雰囲気ではない。何気ない早足で歩き去っていく。だが、自分と眼が合ったためにはじめた逃走なのは、疑いようがない。

 野次馬も、ほとんどいないほどに現場とは離れた。

「南波!」

 大きく呼び止めた。

 ピタッと動きが制止した。

「この事件とキミは、どう関係している!?」

 答えはない。

「キミは、殺人者か?」

 やはり答えはなかった。

 男は、走り出した。今度は早足ではなく、完全な全速力で。

 片瀬はこれ以上、追うことをあきらめた。第一発見者である自分が、いま現場を離れるわけにはいかない。

 ──殺人者か?

 もしあの男が、伊藤康文と山本武司を殺害したのだとすれば、いまの問いで、自分がそのことを疑っているとわかったはずだ。

 勝負をかけるには、時期尚早だったかもしれない……。

 しかし、衝動をどうにも抑えられなかった。


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