35
35. 同日午後五時
列車内は鮮やかな夕日の色であふれている。
東武伊勢崎線──。西新井駅までは、このあいだ来たばかりだ。
次の『竹ノ塚』で、雪耶は降りた。
なつかしいはずの駅。しかし、一二年前の記憶とはちがい、町は知らないうちに発展していたようだ。
大きなスーパーが、駅から眼についた。構内や駅ビルも、むかしとはちがう。
意識的に考えないようにしていた場所。
西口の住宅街に、かつての家があった。
本当の……家。
駅から徒歩でいける距離だ。一〇分ほど入り組んだ路地を行く。
住宅街は、あまり変わっていない。蜜蜂が自分の巣に戻っていくように、雪耶の足は自然に進んだ。
記憶が確かなら、ここのはずだ。
雪耶は、その家を前にして、意外さを隠しきれない。
惨劇のおこった現場のはず……。
おそらくは、べつの建物になっているか、さら地になっているだろうと考えていた。
しかし、家は普通に存在していた。
だれかが住んでいることは、まちがいないだろう。あのころからリフォームされている箇所もあるようだが、そのたたずまいは、雪耶の知っている「わが家」だった。
「どういうこと……?」
〈ちがう〉
また、声が聞こえた。
〈ちがう〉
「なんなの、この声!?」
〈思い出せ〉
「なにを!?」
〈思い出せ〉
「だから、なにをよ!?」
叫びをあげた。
「ど、どうしたの!?」
よほど雪耶の声が大きかったようだ。となりの家から住人が出てきてしまった。
「どうしました、お嬢さん!?」
五〇代ほどの女性だった。雪耶の知らない顔だ。もっとも当時は五、六歳だったので、記憶していないだけかもしれない。
「あ……ご、ごめんなさい」
「大丈夫?」
心配そうに、その女性は雪耶のことを気づかってくれる。
「あの……すみません、こちらにはどういう方がお住まいなんですか?」
「はい? 寺尾さん……ですけど」
表札にも、そう書いてある。
「ここでなにがあったか……」
さすがに、雪耶は言いよどんだ。
「あら、やだ、そのことなの。知っていますよ。というか、この近所で知らない人はいないわよ」
なぜだか、女性は笑みをたたえていた。
あきらかな違和感があった。
「ど、どうして笑っていられるんですか!?」
「え、どうしてって……」
女性は困ったような表情だ。どこか会話が噛み合っていない。
「あ……もしかして、不倫相手のお子さん? ごめんなさいね、無神経だったわね……」
「ふ、不倫!?」
やっぱり、噛み合っていなかった。
「ちがうの?」
「だれが不倫したんですか?」
「ここの旦那さんよ。あ、どうなのかな? これはたんなる噂だから」
話が見えなかった。
「五年前に離婚したのよ、寺尾さん。だから、ご主人が浮気したんじゃないかって噂してたのよ」
思いっきり、肩透かしをくらった。
「そういうのではなくて、むかし……一二年ぐらい前に、ここでおこったことを知りませんか?」
「え、一二年前? ちょうど、うちが越してきたぐらいよね……。とくになんにもないわよ。ここらへんは、平和なものよ」
おかしい、と思った。そんなはずはない。
「ここで、人が死んでるはずなんですけど」
「死んでる? ずいぶん、物騒ね」
女性から深刻さを感じることはなかった。
「一昨年、そこのおじいちゃんが病気で亡くなったけど……」
向かいの家を指さして、そう言った。
「いえ、ですから、そういうのでは……」
続けようとしたが、無駄だと悟った。なにかがちがう。
〈つくられた〉
また声がした。
文字として脳裏に焼きつくような、形容しがたい囁きだ。
〈記憶〉
(きおく……!?)
「あら、大丈夫?」
虚空をさまようような歩調で動きだした雪耶を不審に思ったのか、女性が声を投げかけた。
「大丈夫です」
「少し休んでいく?」
「いいえ」
雪耶は、そう断ってから、あらためてたずねた。
「この寺尾さんという方は、離婚したんですよね?」
「ええ、そうよ」
「苗字は変わっていますよね?」
「そうねぇ。そういうことになるわねぇ」
「なんていう名前でしたか?」
「え~と、え~……、あら、なんだったかしら……」
「もしかして、もとは『板垣』じゃありませんでしたか?」
「ええーと、いたがき……ああ、そうよ、板垣さんよ。やあね、まだ五年ぐらいなのに、すっかり忘れてたわ」
そういうことか……。
雪耶は、すべてを理解した。
その後、女性からいくつか声をかけられたが、背中に浴びるだけで、振り返ることはしなかった。
自分の記憶は、つくりかえられている。
そんなことができる人物は、一人しかいない。
* * *
高級住宅地は、騒然たる空気に包まれていた。
片瀬の通報であきらかになった陰惨な事件。
あたり一帯の立ち入りは制限され、『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープの外から、大勢のマスコミと野次馬が顔を覗かせている。
所轄署の捜査員に遅れること三〇分ほどで、本庁捜査一課の人間もやって来た。自分の係だった。やっと肩の荷がおりた心境だ。
第一発見者を疑うのは、捜査の常識。つまり、片瀬が一番に疑われる存在になる。身分証を提示して、警察官だということをわかってもらったあとも、所轄捜査員の対応は気分のいいものではなかった。
もし、一般市民が自分と同じ立場に置かれたとしたら……。
警官の評判が、世間で悪くなるのも当然といえた。
「大変だったな」
緒方が声をかけてくれた。こうして現場で会うのは久しぶりになる。
「はい……」
「よく、こらえた」
吐かなかったことを言っているのだろう。
「なんとか……」
第一発見者であるという使命感だけで気持ちをたもっていた。
片瀬は、家の外に出ていた。
すでに陽が暮れそうな時刻になっている。
薄くなっていくオレンジ色とはべつに、鬱蒼とした樹海のような暗雲が、こちらに迫ってくる。梅雨よりもさきに、真夏のスコールにみまわれそうだ。
「思い出すと、もどしちゃいそうですけど」
不快な事情聴取から解放されて、一息ついたところだった。
なかでは、一課と鑑識が忙しく動き回っているはずだ。連絡をうけて駆けつけてきた家政婦からも話を聞いている。
やはり最初の読みどおり、家政婦がいたということになる。住み込みではなく、通いだったようだ。少しだけ聴取の内容を聞いていたのだが、昨夜十一時過ぎに、奥様──二宮さやかの母親から電話があったということだった。
明日は来なくていい、という一方的なものだったらしい。そこから推理できることは、夫が殺害された時刻──または、殺害されていることに気づいた時刻が、午後十一時ごろだということだ。それから母親は、自殺を決意した。
父親と犬を殺したのは、二宮さやかでまちがいないだろう。
「ここの娘が犯人だというのか?」
緒方にそのことを告げると、半信半疑の様子だった。酷たらしい殺され方を眼にしたら、とても女子中学生の犯行だとは信じられない。
しかし大槻教諭の前でみせた、あの狂った哄笑を響かせる姿が、片瀬の脳裏から焼きついて離れない。なにかが、彼女に一線を越えさせた。この一家に、なにがあるというのだろう。
と、そのとき、門からスーツ姿の集団が入ってきた。捜査員であることを証明する腕章はつけていなかった。
「だれだ?」
緒方のつぶやきが聞こえたのか、先頭にいた男が警察手帳を開いた。
「二課の新条です」
経済事件・知能犯専門の捜査二課が、なんの用だというのか。
同じ本庁だが、会ったことはない。所轄署とはちがい、本店は大所帯だ。捜査一課の同僚たちですら、知らない顔も多い。課が異なれば、まったく見たことがなくても不思議ではないのだ。
「なぜ、おまえらが?」
緒方のことをよく理解している片瀬ならば、その質問が、とくに含みをもっていないことがわかる。しかし、絵に描いたようなゴツい強面からそう言われれば、とげとげしく感じてしまったことだろう。
ドラマなどでよくある、セクション同士の対立の構図だ。
「われわれは、二宮健治を追っていました」
どこか悔しさが滲み出ていた。
新条は、刑事というよりも、政治家の秘書といったような風貌をしていた。年齢は、三〇代半ばほど。外見だけで判断するのなら、彼のようなタイプは、こうして感情を表に出すのは希有なことではないだろうか。
「あなたも聞いたことがあるでしょう? 詐欺まがいの訪問販売で、何度も世間を騒がせた男ですよ」
「被害者は、あの二宮か……」
緒方には、思い当たることがあるようだ。
「《前科のない詐欺師》……だ。『クリエイティブ』や『ホーム・サービス』という社名で、当時はやっていた。いまはどうか知らんがな」
そう説明を入れてくれた。
うっすらと記憶にあることを、片瀬は自覚した。そして、大槻教諭から二宮さやかの父親の会社名を聞いたとき、なんとなく耳にしたことがあると感じた理由をつきとめた。
「いまは、『ホーム・クリエイティブ』です」
片瀬は、思い出した名称を口にした。
その名を知っていることに、緒方は意外そうだった。
新条が、ゆっくりと首を縦に振る。
「そうです。今度こそ、逮捕までもっていこうとしていました。無念です……」
緒方が、道をあけるようにわきへどいた。
「詳しい話は、なかで聞いてくれ。できれば、協力もお願いしたい」
再び新条はうなずくと、家のなかへ入っていった。
緒方なりの慰めだということがわかった。
「おまえの追っている男が、二宮健治と絡んでいたのか?」
二課の集団が二宮邸に消えると、緒方はそう問いかけた。
「いいえ。たぶん関係ありません。でも……結果的には、ここまで来ました」
それを聞くと、ただ「そうか」とだけ緒方は返した。
ふと、片瀬は開いている門のほうを向いた。もしかしたら、なにかの予感があったのかもしれない。
通りの奥──野次馬に混じって、あの男の姿が眼球に映った。
いつもの《万眼》というよりも、偶然、視界に入ったような発見だった。
おい、という緒方の声を背中にうけながら、片瀬は走り出していた。見張りの警官のあいだをすり抜け、マスコミと野次馬のなかをかき分けてゆく。
降り出した雨が、頬に当たった。
男は、あきらかに人込みから遠ざかろうとしていた。ただし、「逃げる」という雰囲気ではない。何気ない早足で歩き去っていく。だが、自分と眼が合ったためにはじめた逃走なのは、疑いようがない。
野次馬も、ほとんどいないほどに現場とは離れた。
「南波!」
大きく呼び止めた。
ピタッと動きが制止した。
「この事件とキミは、どう関係している!?」
答えはない。
「キミは、殺人者か?」
やはり答えはなかった。
男は、走り出した。今度は早足ではなく、完全な全速力で。
片瀬はこれ以上、追うことをあきらめた。第一発見者である自分が、いま現場を離れるわけにはいかない。
──殺人者か?
もしあの男が、伊藤康文と山本武司を殺害したのだとすれば、いまの問いで、自分がそのことを疑っているとわかったはずだ。
勝負をかけるには、時期尚早だったかもしれない……。
しかし、衝動をどうにも抑えられなかった。




