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囁き  作者: てんの翔
30/46

34

        34.六月二八日午後一時半


「おっかえりー」

 事務所に入るなり、心のこもっていない挨拶がやって来た。

『自殺防疫研究所』のなかは、あいかわらず西崎涼香しかいない。所長は本当に、どこかでポックリいってしまったのだろうか。

「南波ちゃん、また考えたんだけどさ、聞いてよ。『セーフティーハウス』なんていいんじゃない?」

 涼香の提案をそのまま受け流すと、南波は自分の席についた。

「ちょっと、反応ぐらいしてくれてもいいじゃない」

「いいんじゃないですか……」

「それじゃあ、これでいこう。今日から、ここの正式名称は『セーフティーハウス』に決まりました!」

 そう宣言されてしまうと、口を出したくなった。

「そういう名前の施設が、絶対どこかにありますよ」

「え~、そうかなぁ」

 残念そうに声をあげると、化粧直しに関心が向いたようだ。

 少し、ホッとした。

「あ、さっき調べといてって頼まれたやつ、そこ置いといたから」

 南波は驚愕した。

 涼香が真面目に仕事をこなしたなんて……。

 正直、一週間ぐらいかかると思っていた。

「あ、ありがとうございます」

 机の上には、たしかに知りたい情報が書かれた紙がのっていた。

 過去に、ある場所で自殺をした人物がいるかどうか。そして、成望中学校の生徒か教員、もしくは関係者で、その場所にゆかりのある者はいなかったか。

「よく調べられましたね?」

「まー、この涼香姉さんにまかせておきなさいって」

 南波は、資料に眼を通した。

「やはり、そうか……」

 あの少女と眼を合わせたことがある。

 まちがいない。あのときの……。

 南波は、立ち上がった。

「この住所であってますか?」

「たぶんね。でも、わたしのやったことだから、あんまり信用しないようにねぇ」

 そんなことは、言われなくてもわかっている。

「あれ、いま帰ってきたばっかりなのに、もう行っちゃうの?」

「ええ」

 南波は、扉に向かった。

「ねえ、南波ちゃん。あなたの仕事は、『止める』ことだからね」

 背筋に寒けが走った。

 狙われている?

 いつもの妄想か……。

「わかってます」

 撃たれることなく、南波は事務所の外に出た。


       * * *


 村田に付き添われて、雪耶は保健室で休んでいた。

 あれから、三〇分ほど経っただろうか。

「もう大丈夫です、先生」

「落ちついたか?」

「はい」

 返事をして、イスから立ち上がった。

 室内に、保健医の姿はなかった。村田が気をつかって、人払いをしてくれたのだろう。

「もうちょっと、休んでいけよ」

「ホントに、大丈夫ですって」

「ほら、いいから」

 強引に、座らされた。

「それとも、ベッドで寝ていくか?」

 それには、軽く笑みを浮かべた。どうやら余裕を取り戻しかけているようだ。

「こんなことは言いたくなかったんだが……」

 再びイスについたのを見計らって、村田が言いづらそうに切り出した。

「彼のこと……南波さんのことなんだけどな……おまえにも、やっと理解者があらわれたんだな、って安心してたんだよ」

 雪耶は黙って、耳をあずける。

「でもな……」

 だが村田は、そこで言葉に詰まった。

 きっと、つらそうな顔をしていたからだろう。

「いや、なんでもない……」

「ごめんなさい、心配をおかけしました」

「いいんだ。一日もはやく、おまえが過去から解き放たれるのを信じている」

 刃の銀光。鮮血の真紅。黒いコート。

「……きっと、忘れられません」

 父と母の死に顔。

 焼きついている。

 消えない。

 消えてくれない。

〈ちがう〉

「え?」

「どうした!?」

 突然あげてしまった声に、村田は驚いたようだ。

「あ、いえ……」

 なんだろう。

 だれかに囁かれたような……。


〈つないでて〉


 確かに聞こえる。

「お、おい!?」

 村田の声で、われを取り戻した。

「大丈夫か? やっぱり、ベッドで休んでいけ」

「ちがうんです、ちょっと思い出したことがあるだけですから」

「そうか……それならいいんだが……」

 それでも心配そうな村田に礼を言うと、なかば強引に、雪耶は保健室を出た。


       * * *


 短い時間だったが、片瀬は大槻教諭から『二宮さやか』という女生徒の話を聞かせてもらった。

 あれから──。

 取り乱した北川雪耶を、村田教諭が保健室までつれてゆき、片瀬は大槻教諭に送られて学校をあとにした。足のほうは、だいぶ回復したようで、すでに一人で歩けるまでに痛みは引いていたようだ。

 そのときに聞いた話。

 片瀬も見かけたことのある少女──。

 昨日、大槻教諭を狂わせたことを知っている。

 無断欠席。連絡もつかない状態らしい。

 本人の携帯だけではない。家にも、だれもいないそうだ。昨日も無断欠席をしているのだが、そのときは母親に連絡がついている。

 北川雪耶は、彼女から『親友が自殺を考えている』と相談をうけたそうだ。しかし、該当するような生徒は存在していない。

 親友というのは、彼女自身のことではないのか──北川雪耶は、そう推察しているという。大槻教諭自身も、その危惧は感じているものの、いまはどうすることもできないでいるようだ。

 学校での業務が終わりしだい、二宮さやかの家をたずねるつもりだ、と語った。

 南波と北川雪耶にまかせる気持ちもあるのだろうか。

 本人が自殺するということをほのめかしていたわけでもないようだし、遺書を発見したということでもない以上、ここで大騒ぎをするのは得策でないような気もする。

 とくにあの学校は、連続自殺で揺れているときだ。警戒はしたほうがいいと思うが、行き過ぎは、さらなるパニックを呼ぶ。

(そういえば……)

 大槻教諭に、注意をうながすのを忘れていた。彼女たちは南波のことを信用しきっているようだが、片瀬のなかでは、まだ疑惑の男でしかない。

 南波が、大槻教諭を襲わない保証は、どこにもない。仮に、犯人がべつにいるのだとしても、その人物に消される可能性もある。

 携帯の番号は、交換し合っている。

 あとで連絡を入れておこう、そう心に決めたところで、目的地についた。

「ここか」

 大槻教諭から教えてもらった住所を頼りに、ここまでやって来た。

 ついたのは、一軒の大きな邸宅だった。

 井の頭線神泉駅から一〇分ほど歩いた。

 私立である成望中学校には、学区域などは定められていない。しかし寮がない環境上、東京都内──しかも通学圏内の生徒が大多数であるということだった。

 ほとんどが、台東区、文京区、千代田区、墨田区などの近隣区からだという。そのなかで、ここからの登校は、遠く離れている印象をうける。

 渋谷区松濤。

 話には聞いていたが、上京してから実際にこの地区を訪れたのは初めてだった。大田区の田園調布と並んで「高級住宅地」というワードから容易に連想できる場所だ。

 とくにこの一帯は、より高級感が漂っている。

 そのなかにある二宮邸──まわりの豪邸よりは、ささやかかもしれないが、それでも充分、立派な家だった。

 片瀬は、インターフォンを押した。

 門から母屋までは二〇メートルほどあるだろうか。広い敷地を考えれば、かなりの資産家であることが想像できる。

 成功者の根城。

 門からなかを覗き込めば、これまた立派な犬小屋も見える。

 憧れの世界が、そこに構築されている。

「いないか……」

 何度鳴らしても、応答はなかった。

 二宮さやかは転校生で、一年の途中から成望中学校へやって来たということだった。

 前の学校で、自殺未遂をおこしたらしい。

 なるほど、そういう因子をもっているということか。

 捜査対象でもない女子中学生の家をたずねることは、時間の無駄になってしまうだけかもしれない。だが、なぜだかここへ来なければならないような予感がはたらいた。

 雛形かえでとの約束は、夕方からだ。腕時計を見た。すでに三時を過ぎていた。細かな時刻は指定していなかったから、まだ大丈夫だろう。六時ぐらいでも、夕方といえば夕方だ。

 もし、いますぐ戻らなければならないのだとしても、自分はここへ来たはずだ。

 こういう行動をとることが、警察官である証明だという思い込みがある。

 暗い海底に隠れている獲物の気配を逃さないためには、どんな些細な変化にも敏感にならなければいけない。

 片瀬は、家のまわりを塀沿いに一周した。

「おかしい……」

 気配はなかった。

 それが腑に落ちない。

 試しに、付近にある家のまわりをさぐってみた。

 どの邸宅からも、人の気配が感じられた。

 資産家ともなれば、住人がいなくても家政婦がいるのではないか。いや、仮にお手伝いを雇っていなくても、夫人が在宅しているのが普通ではないか……。

 金持ちなのに、共働きということもないだろう。

 それは、自分だけの思い込みだろうか。

(外出することぐらいあるか……)

 そう考え直すと、片瀬は踵を返した。

 本当に、時間の無駄になってしまった。

 何歩ぐらい進んだだろうか。

「ワンワン!」

 となりの家の犬だ。来るときも吠えられている。

 うるさい。

「ぼくは、ネコ派だ」

 そうつぶやいたところで、違和感の正体がわかった。

 二宮さやかの家には、気配がなかった。

 それは、『人』だけではない。

 背筋を、いやな電撃が駆け上がっていく。

 再び、身体を二宮邸に向けた。

 門を強引に開けようとした。強引になる必要もなかった。

 門は、ス、と動いた。

 片瀬は、かまわずに侵入した。

 母屋のわきにある犬小屋を覗き込む。

 犬の姿はない。

 たんに、母親が犬の散歩に行っているだけならいいが……。

 周囲を見回した。

 どこかに不自然なところはないか!?

「……!」

 見えた。

《万眼》がとらえたものは、血液の雫。

 血痕が地面に一滴、染みをつくっていた。

 その数メートルさきにも、一滴。

 芝生の敷きつめられた庭に続いている。

 庭の奥、塀際に紫陽花の群生している場所がある。青や紫の花をつけていた。

 片瀬は引き寄せられるように、そこへ足を運ぶ。

 花壇となっている一歩手前の芝生が、常人でも判別できるほどに赤く染まっていた。

 紫陽花の葉と枝をかきわけた。

 犬が隠されていた。犬種はドーベルマンのようだ。

 牙に血液が付着している。

 首には、針金のようなものが巻きついていた。

 窒息死。

(ということは──)

 血痕は、犬のものではない。

 首を絞めた人間のものだ。抵抗した牙に刺し貫かれている。

「だれがやった……!?」

 わかっている。わかってるじゃないか。

 しかし、信じたくはなかった。

 家のほうに視線を向けた。

 テラスの奥に大きな窓がある。家のなかをうかがっても、不審なところはない。片瀬の角度からは、広いリビングの様子が見て取れる。

 いや……。

 この眼は逃さない!

 大きなソファの上に、布状のなにかがのっていた。

 模様がついている。

 ちがう。白地のタオルに血が染みついているのだ。

 噛まれた傷をあれで拭ったのだろうか?

 片瀬は、母屋にゆっくりと近寄った。

 急がなければ……そう思うのだが、身体が反応してくれない。

 テラスを抜け、窓に手をかけたが、ロックされている。

 手錠を取り出した。

 思いっきり、窓に叩きつけた。

 三撃目で、大きな罅が入った。

 さらに一発叩き込むと、こぶし大の穴があいた。こういう大きな家ならば、防犯装置が作動したかもしれない。

 手首を入れて、ロックを外した。

 窓を開けて、なかへ入る。

 靴は脱いでおいた。履いていたほうが、危険が迫ったときに対処しやすいが、デメリットとして現場を荒してしまうことになる。

 ソファのタオルは、バスタオルほどの大きなものだった。そこに血がべったりとついている。おそらく、犬に噛まれた傷口を拭ったものではない。

 もっと大量の血液を吸い込んでいる。

 室内を見回した。壁には額に入れられたナイフのコレクションが、誇らしげに飾られている。いずれも、柄に彫刻がほどこされている芸術品のようだ。そのうちの一本が無くなっていることに、すぐ気がついた。

 床には、足跡が赤く残っていた。

 部屋の外、廊下へと続いている。

 片瀬は、その痕跡を追っていく。正確にいえば、これから行こうとしている場所から、ここへやって来た足跡だ。

 そこになにが待っているのかは、容易に想像ができた。

 廊下を奥へ、階段を上がる。

 じょじょに足の跡が濃くなっている。

 それとはべつの滴る血液も、大量になっていく。

 すでに胃液が逆流しそうだった。

 二階の廊下、一番手前の部屋の扉が開けっ放しになっていた。

 足跡の起点は、ここのようだ。

 一瞬ためらったが、勇気を胸に、なかへ踏みいった。

 ここがなんの部屋だったかわからないほどに、赤黒く変色していた。

 下一面。壁にも飛び散っている。

「う……」

 なんとか嘔吐をこらえた。

 自分一人しかいないのに、心が折れるわけにはいかない。

 一二畳ほどの部屋のほぼ中心に、一体が仰向けに横たわっていた。脈をとるまでもなかった。

 喉に、ナイフが突き刺さったままだ。

 胸や腹を、何個所もやられている。

 いったいどれが致命傷になったのかは、片瀬ではわからなかった。

 血の渇きぐらいから、惨劇がおこなわれてから半日といったところだろうか。いや、その見立ても信用できない。いま自分が、どれほど冷静に現状を分析できているのか疑問だからだ。

 遺体は、男性だった。

 四〇歳から五〇歳ぐらい。

 断末魔の形相に、血まみれの姿だから、正確な年齢を割り出すのも難しい。

 おそらくは、二宮さやかの父親だろう。

 大槻教諭の話によれば、全国展開する訪問販売会社を経営しているということだった。

 会社の名前も聞いていたが、どこかで耳にしたことがあるかもしれないと思う程度の、よく知らない社名だった。いま思い出そうとしても、頭には浮かんでこない。

 片瀬は、いったん部屋を出た。

 予想どおりなら、もう「一体」あるはずだ。

 二階奥の扉も開いている。その部屋をめざした。

 この時間まで事件が発覚していないということは、生存しているべき人間が、生存していないということだ。

 確実に一体、もしかすると二体……。

 奥の部屋は、夫人だけの寝室なのだろうか。

 シングルサイズのベッドの上に、女性が倒れていた。

 外傷はないようだ。慌てて脈をとった。

「ダメだ……」

 青白い顔色が、すでに冥界へ旅立ったことを告げていた。

 ベッドわきのナイトテーブルの上に、錠剤の入っているビンが置かれている。残りは、あと五錠ほどだ。いくつ飲んだのかはわからないが、これが死因だとすれば、大量に服用しているはずだ。

 ベッドの下には、空のワインボトルが落ちていた。酒といっしょに睡眠薬を飲むのは、オーソドックスなやり方だ。

 身体や衣服に、返り血はついていない。

 夫を殺して、自分も命を絶つ『心中』のたぐいではないはずだ。無論、返り血などをきれいにしてから自殺したとも考えられるが、やはり殺害した犯人は──。

「こうなったか……」

 だがこれで、彼女の罪が一つ減ったことになる。

 父親を殺害し、母親もその手にかけたのかと思った。

 最悪の場合、家政婦もふくめて三名の殺害の可能性があった。

 しかし、母親は自殺──おそらく、娘の凶行を知って、自決の道を選んだのだろう。家政婦については、そのほかの部屋もまわったが、姿はなかった。最初から雇っていなかったのかもしれない。

「いったい、なにがあった……」

 彼女を狂わせたのは、なんだ!?

 二宮さやかは、いまどこにいる!?


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