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囁き  作者: てんの翔
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        3. 六月三日


 事件現場の空気は、どうしてこんなにも、ささくれだっているのだろう。

 それが他殺でなく、自殺だったとしても同じだ。

 台東区入谷──。

 夜九時をまわっている。

 アパートや雑居ビルが建ち並ぶこの一角は、赤色灯のざわつきがなければ、静かな夜をむかえていたはずだ。

 片瀬仁は、本庁の刑事部に配属されて、もう二年になるが、この雰囲気には、いつになっても慣れることはなかった。

 遺体を見て吐き気をもよおすのも毎度のことだ。同僚からは『万新』と呼ばれている。万年新人の略なのは言うまでもない。

 自分でも、本庁の──しかも捜査一課に、なぜ抜擢されたのか疑問だった。たしかに、むかしは捜査一課をめざしたこともある。だが、人には向き不向きがあるのだ。自分の適性を途中で悟った。私服で凶悪犯を追いかけまわすよりも、制服を着て、内勤をしているほうが自分には合っている。

 ある特殊能力のせいなのだ。そのおかげで、いまの自分は、こんなところをさまようはめになった。

 最初から、事務職の採用試験を受ければよかった、と後悔している。いや、警察官という職業を選択したことが失敗だったのか。自分のもっている能力を発揮する場所は、ほかにもあるはずなのに……。

 警察官を志望したきっかけは、一冊の本だった。学生時代に愛読したドキュメンタリー小説──。

 実在する刑事・平塚八兵衛について書かれたものだった。昭和の事件史には必ずといっていいほど、その名が出てくる伝説の人物。警視総監賞を九四回も受賞している。

 ガツンと、影響を受けた。

 なにがなんでも、警察官に──そのなかでも、凶悪犯と戦う警視庁捜査一課の人間になると誓った。だから地元ではなく、わざわざ上京して試験を受けたのだ。

 しかし採用から一ヵ月、交番勤務のころに、現実は甘くないと思い知らされた。

 喧嘩の仲裁だった。ヤクザ者どうしのいさかいだったのだが、どちらも素手とはいえ、とにかく腕っぷしが強い。ヤクザだから、頭に血がのぼっていれば、警官の言うことなど聞くわけもない。

 三発殴られた。

 応援の同僚が助けに来てくれても、身体の震えはやまなかった。いまでもあのときの、ヤクザの一人が放った恫喝の声は忘れられない。

 実際の警察の仕事は、活字で読むのとはちがう。そんなものに憧れて、本当になろうなんて愚かだった。

 それからの日々は、警官をやめようか続けようかを迷う、苦悩の時間だった。結論が出るまえに辞令が出た。

 所轄刑事課への転身だった。

 通常、所轄の刑事課へは、希望を出したものが、適性試験を受けてから移動する。だが昨今、刑事課を嘱望する者が減っているそうだ。なってみてわかったことだが、肉体だけでなく、頭も想像以上に使うハードな仕事なのだ。

 大半が、デスクワーク。

 その合間に、ヘトヘトになるまで外勤をする。

 正直、きつい。

 その年は、とくに希望者が少なかった。

 そこで片瀬に声が掛かったというわけだ。興味本位で警察官なんかになろうとした報いだと本気で信じた。

 さらに、最初に担当した変死事件の現場を見て、自分には絶対できないと実感した。それは殺人ではなく、たんなる自殺だったのだが、凄絶な死に顔が、いまでも忘れられない。

 ビニール傘を先端から飲み込むようにして、口から体内へ突き刺していた。あふれた血液の色と臭いで、現場は地獄と化していた。

 信じられない死の選び方だった。

 今日やめよう、今日やめよう、そう思いながら刑事課での一年が過ぎた。

 警視庁からお呼びが掛かったとき、むしろ悲しすぎて笑った。

 本庁の刑事部へは、所轄刑事課とはちがって、自分から希望を出すのではなく、ほとんどの場合が推薦だ。だれかが実力を認めてくれたのだろうが、まったくもって迷惑な話だった。

 本来なら栄転となるところだが、離島に派遣されたほうが、片瀬には喜ばしかった。

 断る勇気もなかった。

 そして、いまに至る。

「おい、大丈夫か?」

 先輩の緒方に声をかけられた。まだ青白いであろう顔色に心配してくれたのだ。嘔吐してから、まだ一〇分も経っていない。

「いいから、むこうで休んでろ」

 緒方は、三〇代後半の、見るからに強面の警察官だった。だが、外見とはちがい、ひとの話をちゃんと聞いてくれる思いやりをもっている。

 片瀬は彼のことを、先輩や同僚というよりも、大切な相談相手として慕っていた。

「大丈夫です……」

 いまではシートが被せられているものの、死者の骸はすぐそばにある。

 頭部の原型は、無いに等しかった。

 ビルからの転落死。

 一番に自殺が考えられるが、落ちたビルというのが三階しかない雑居ビルだ。自殺しようと思って選ぶような建物ではない。

 事故にしては遺体の状態が酷すぎる。自らの意志で脳天から落ちたのでないのなら、だれかに落とされたのを疑う必要がある。

 それに、男女が言い争っているという通報もあった。

 片瀬たち本庁と、所轄である下谷署の捜査員が、落下現場の検証をしていた。

 アスファルトに血と脳漿だと思われる飛び散ったプリンのようなものがこびりついている。きれいに頭頂部から落ちなければ、こうはならない。

「緒方さん!」

 ビルの屋上から、呼ぶ声があった。

 上に向かっていた捜査員だ。

「遺書がみつかりました」

 そう高くないビルだからこそ、上と下とで会話が成立する。

「わかった、いま行く」

 緒方はそう応えると、視線を頭上から『万新』片瀬仁に移した。

「いくぞ」

「は、はい」



 屋上には、そろえられた靴と、遺書と記された封筒がおかれていた。争いの形跡もない。

 自殺とみるのが妥当だろう。

「無駄足だったか」

 緒方のぼやきが、暗い夜空に吸い込まれた。

 殺人の可能性を疑いすぎた結果だった。さきに現場入りした所轄捜査員を責めるわけにはいかない。一年ほど前に発生した未解決事件が、たんなる自殺を難事件にカムフラージュさせるのだ。

 渋谷区にある四階建てのビルから、二〇代の女性が突き落とされた殺人事件だ。目撃者はいなかったが、現場である屋上には被害者のものとはべつの、新しい足跡があった。両者の歩幅は乱れており、それが争いの痕跡と考えられる。男性の叫び声を聞いたという証言もあった。

 現在まで容疑者は一人もあがっていない。

 なぜ、その事件が大きく影響をあたえるのかというと、殺された女性というのが、一〇代の少女を中心に人気を集めていたカリスマモデルだったのだ。

 正確には読者モデル出身で、最近タレント活動を開始していた。一般にはまだ知られていない、知る人ぞ知る、存在だった。

『渋谷カリスマモデル転落死事件』と呼ばれるものだ。ただし、現在においても自殺の線と、事故の線も残されている。だから『転落死事件』のなかに「殺人」の文字が外されているのだ。

 そういう謎も、人々の関心を呼んだ。

 当然、マスコミを巻き込んでの大騒動となった。警視庁としても一日も早い解決を迫られている。つまり、同じように見える飛び降り自殺には、過敏に反応してしまう体質ができあがってしまったというわけだ。

 重要事件は、本庁主導。所轄としては、アンタッチャブルを貫く傾向にある。

 所轄刑事課は、あくまでも本庁捜査一課のお手伝いに徹する。というより、徹しなければいけい空気になっているのが実情だ。

 よけいな手出しをしてはいけない。

 本庁が来るまで、現場を保存しろ──。

 しかし、当の本庁刑事たちは、ドラマで見るような縄張り争いを馬鹿馬鹿しく思っていることのほうが多い。なぜなら、キャリアでもないかぎり、自分たちも、もとは所轄の一捜査員だったからだ。その時代の苦労を知っている。

「ん?」

 けっして広いとはいえない屋上で、片瀬は腑に落ちないものをみつけた。

 遺書と靴が置いてあった場所とは正反対。

 緒方や所轄捜査員たちとは、べつのところに興味をもっていた。

 屋上のコンクリートは約一五センチ四方に切れ目が入っている。ちょうどタイルを敷きつめてあるようだ。人の胸ぐらいまでの高さがある手すり──その根元付近の一枚に、文字のようなものが書いてある。

 ペンライトで照らしてみた。

『GOD BLESS YOU』

 タイル一枚分のなかにおさまっているから、大きな文字ではない。黒いマジックで記されているようだ。

 下地が汚れたコンクリートなので、かなり見えづらい。

「どうしたんだ、そんなところで?」

 緒方の呼ぶ声がした。

 まったく見当違いのところにいるから、苛立ったのだろう。

「あ、いえ……なんでも……」

「そこはいいから、こっち来い。遺書の下に免許証があった。身元がわかったぞ」

「は、はい」

 片瀬は適当な返事でごまかすと、隠すように携帯で文字を撮影した。



 死亡したのは、伊藤康文。二四歳。住所は足立区の梅島だが、勤める会社が入谷にあった。現場の雑居ビルとも近い。帰宅途中、発作的にそこを選んだと考えられる。

 仕事のことで悩んでいたと、同僚からの証言も得られた。

 自殺と断定された。

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