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31. 同日午前十一時
冷静に授業をうけている心境ではなかった。
ならば、今日も中抜けするしかない。
「だいたい、なんで土曜なのに、うちの学校は……」
そうぼやいていたら、作業をしていた柏木が静かに口を開いた。手は止めていない。
「私立なんですから、仕方ありませんよ」
とくに月末の最終土曜は、午前中に選択技能という授業が二時間ぶっ続けであるので、本来午前に予定されている授業が、そのまま午後にスライドしてしまう。つまり平日と同様に、最後までスケジュールがビッシリと詰まっている。
選択なので、クラスや学年はバラバラだ。
雪耶の選んだ授業は、『パソコンを自分で組み立てて作る』というものだった。
柏木がこれを選ぶというから、雪耶も乗ってみた。
だまされた。
「だいたい、自分で作らなくってもいいじゃない」
この授業では、二人以上で班を結成するようになっていた。ほかのグループは五、六人でまとまっているが、雪耶の班は、柏木と二人っきりだ。
四月の授業で、どういう性能のパソコンを作るのか班ごとに決めて、五月の授業で、秋葉原に部品を買いに行った。本日の授業から、実際の組み立て作業をはじめているのだ。
基本的に、柏木にすべてまかせている。
「押しつけている」
「ん? なんか言った?」
突然、柏木がつぶやいたので、雪耶は「大丈夫?」という視線を送った。
「そういえば、まえに調べてほしいと頼まれたことなんですが」
柏木は、ちがうことをしゃべりはじめた。
「厚生労働省には、自殺に関係する組織が確かにありますけど、北川さんが言っていたような名前のものはありませんでしたよ」
「え?」
「国立神経・精神医療研究センターの精神保健研究所に、自殺予防総合対策センターというところがあります。それのことじゃないですか? 平成二二年に、独立行政法人化されたそうですし」
「そんな名前じゃないんだよね。自殺防疫センターだか、研究所だか……まだ仮の名前なんだって。創設されて間もないみたいだし。それに、自殺の感染を防ぐための組織よ」
「うーん、NPO法人でも自殺に関する団体がいくつかありますけど、そういう目的をかかげているわけではありません。該当しそうなところは、本にもネットにも出ていませんね」
「そう……ありがとう。あ、昨日の電話も、勝手に切っちゃって悪かったわね」
やはり柏木は、気にしていないようだった。
「ねえ、ゴッド・ブレス・ユーって、どういう意味?」
「神の祝福を、もしくは恩恵を……ですね。欧米では、くしゃみをした人にむかって、そう言う風習があるらしいです」
くしゃみ? あのときは、だれもくしゃみをしていない。
「それは関係ない……か」
「どうしたんですか?」
「んーん、なんでもない。では、理想のパソコンができあがるのを楽しみにしておる」
あらたまって偉そうに言うと、雪耶はキョロキョロあたりを見回し、身を屈めた。
「じゃ、あとはよろしく」
脱出をはかろうとする。
「もう一つ。群発自殺について書かれていた本を読んだんですけど、要点をまとめて自宅のパソコンにメールしておきます」
それには手を振って、雪耶は教室を出た。
上野についたのは、一二時過ぎだった。
駅から中学校をめざす。知らず、道を歩く速度が上がっていく。気がかりなことは、いくつもある。
まずは、大槻のことだ。昨日の様子ではどうなることかと思ったが、今朝、本人から「心配かけたけど、もう大丈夫です。学校へ行きます」と、メールが入っていた。
南波の説得が利いたのだろうか。
『自分だけ楽になるなんて、許さない』
なんという無茶な止め方なのだろう。
しかし、なぜだか心を突かれた。
人間は、罪を償うために生きている──。
つまりは、苦しむために生きているということだ。だから、その苦しみから逃れるために、人は自殺を考える。
楽になってはいけない。
だれかに許されるまでは……。
まるで、南波自身が、そういう生き方を強いられているように感じた。
あれは、南波の本心なのではないか……。
真実の境遇なのではないか……。
雪耶は携帯を手に取った。大槻に電話をかける。昨夜のうちに、アドレスだけでなく、番号も交換していた。土曜の授業は午前までのはずだ。いまなら授業は終わっているだろう。
「先生?」
大槻の声を聞いたら、安心した。情緒に乱れはない。メールに嘘はないようだ。
二言、三言、挨拶を交わしてから、本題に入った。
「二宮さんは?」
予想どおり、欠席したらしい。
「とにかく、いまからそっちへ行きます」
と言って、通話を切った。
昨日のことで、大槻が自分たちの味方になってくれたはずだと確信していた。
南波は、どう動くのだろう。
結局、連絡先は聞けずじまいだった。
この際、自宅や携帯でなくとも、仕事場に連絡できればいいのだが、以前に受け取ったはずの名刺も、やはりみつからない。
南波なら、事の真相はわかっているはずだ。
詳しいことまでは話せなかったが、二宮さやか──自分が相談にのっていた後輩のことは伝えてある。
《赤いイルカ》は、彼女だ。
三人の中学生を死に導いたのも、彼女。
もしかしたら、西新井駅・南砂町の予告も、彼女が書き込んだものかもしれない。いや、それだけではない。そのときはまだ、赤いイルカと名乗ってはいなかったが、御茶の水駅での予告も彼女なのかもしれない。
昨日、さえぎってしまった、さやかの告白。
きっと、そのことだ。
そしておそらく、自殺を願望していた『志乃』という親友は、存在していない。
本当に死にたかったのは、彼女自身だ。
止めてもらいたかった。
(わたしに、止めてもらいたかった)
決意を胸に、雪耶はさらに足を速めた。
* * *
こんなにゆっくりと考察していて、いいものだろうか。
片瀬は、ふいにそう思った。
なにかを見落としている。そんな気がしてならない。
ここまでの自分の見立ては、こうだ。
南波──表向きは、自殺を止めている仕事に就いている。
しかし、その裏では……。
元死刑囚・結城廉太郎の息子であり、その意志を受け継いでいる。自殺者の魂を救うため、死を完遂するまえに、彼らを殺害しているのだ。
伊藤康文、山本武司の二名は、南波によって殺害された。あの文字も、南波が残したものだろう。死者を追悼するためのものか、連続殺人犯がよく好むマーキングのたぐいかはわからないが……。
そしていま、南波は成望中学校でおこっている連続自殺に関心をもっている。
すでに三人が死亡しているが、その三人の死には、南波は関与していないはずだ。ウェルテル効果を招くような「殺し」はしないはずだからだ。
南波の目的は、自殺を増長させることではない。矛盾しているようだが、自殺を止めるために、彼は殺人者となっている。
(だから三人の生徒の死とは、無関係だ)
そして四人目の自殺者になるはずだったのは、あの大槻教諭だ。
幸い彼女は、南波の説得で思いとどまってくれたようだが……。
「止めた……?」
そうだ、そこを気づかなければならなかった。
伊藤康文と山本武司が、南波によって殺害されたと仮定するならば、次の犯行も予測できる。
いや、しなくてはならない。
殺された二人も、南波によって一度は自殺を阻まれている。
なのに、殺された。
そのとき説得できたとしても、未来永劫、負の覚悟を捨てたとはかぎらない。
またいつか──。
ならば、どうする?
「次に狙われるのは……」
* * *
大槻美也子は、もう一度、二宮さやかの携帯にかけてみた。
出る気配はない。
昨日の光景が、不気味に思い起こされた。
さやかの高笑いが、いまでも耳の奥にへばりついている。
さやかは、正常ではなかった。
自分も彼女によって狂わされたが、南波の言葉で、われに返ることができた。いまでは、なんであんなにまで思い詰めてしまったのだという後悔でいっぱいだ。
しかしなぜ、さやかは自分のプライベートのことを知っていたのだろう。教員仲間でも、彼のことを知っていた者はいない。両親にも交際のことは伝えていなかったし、女友達でも二人にしか話していなかった。
「……」
考えても、答えは出てこなかった。
授業を終えた教員が、次々と職員室に戻ってくる。
子供たちは帰れるが、教師はそうもいかない。午後からも、やることはいっぱいある。
そういえば、北川雪耶からこちらに向かっているという電話があった。
(だったら、お昼は彼女と外に食べに行こうかしら)
大槻は席を立った。
職員室を出て、すぐの階段を降りてゆく。
二宮さやかのことは、彼女と南波にまかせておくほうがいいのかもしれない。
いや、二人でなければ、さやかの心に根をはる暗黒に、足を踏み入れることはできない。そのような気がしてならなかった。
自分にできることならば、協力は惜しまない。そのつもりだ。
と、そのとき──!
いやな感覚が瞬間的にわきおこった。
「キャ!?」
* * *
片瀬が校庭に入り込んだときには、旧校舎の入り口付近に人だかりができていた。
悪い予感が、初めて的中した。
全力で校庭を突っ切った。
「なにがあったんですか!?」
わかっていたが、そう声をあげた。
やられた、という気持ちが抑えられない。
人だかりのさきには、大槻教諭が倒れていた。
そのかたわらには、北川雪耶の姿があった。しゃがみこんで、大槻教諭のことを眺めているようだった。
近寄ると、片瀬は反射的に、北川雪耶をはね除けた。
「いたっ!」
「なにをした!?」
無意識に、北川雪耶を敵と決めつけていた。
南波と通じている彼女なら、ありえることだ。
「ちょっと、なんなのよ!?」
抗議の声も無視をした。
「あの男の差し金か!?」
「なに言ってるの!? だいたい、あなた、だれなのよ!?」
「とぼけるな!」
大槻教諭を襲っただろ!?──という意味で、視線を倒れている大槻に合わせた。
「あの……」
「え?」
片瀬は、唖然となった。
「どうなさったんですか?」
大槻教諭が、そう言った。
意識はハッキリしているようだ。
「大丈夫……ですか?」
そうたずねてはみたが、脚を痛めているだけで、どう考えても深刻な状況ではないようだった。
悪い予感は当たらない──そのジンクスは不動だった。声まで張り上げた自分が恥ずかしい。
「ええ、大丈夫です。挫いちゃっただけですから」
北川雪耶が、凄い形相で睨んでいる。
その眼光が、痛々しく突き刺さっていた。