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30. 同日午前一〇時半
寮にあるノートパソコンは、ほどよくホコリをかぶっていた。
セットで買ったプリンターのほうは、写真を印刷するときによく使っているから、きれいなものだ。最近のものは、わざわざパソコンを起動しなくてもプリントできるようになっているから、自然にそうなってしまう。
今日は、警視庁へ顔を出さなくてはならない。一週間におよぶ、休暇(単独捜査)の報告をするためだ。
てっきり、朝から報告に行かなければならないと思っていたのだが、雛形警視に連絡を入れたところ、夕方じゃないと都合がつかない、と軽くあしらわた。それまでの時間があいてしまったことになる。
雛形かえでたち幹部にとっては、自分が苦労して手に入れた成果など、取るに足らないものなのかもしれない。片瀬は、途方もないわびしさを感じた。
「まあ、これで……最後に考える時間ができた」
気を取り直して、片瀬はパソコンの電源を入れた。
久しぶりに起動しただけあって、アップデートなどで使えるまでにしばらく時間がかかった。
ブラウザを立ち上げると、スタートページになっている大手サイトから、ためしに自殺というワードで検索をかけてみた。
仕事場でもパソコンは使うが、それは書類作成やメールのやり取りのためで、こういうネットサーフィンのような、むしろ一般的な使い方をする機会はあまりなかった。ちょっとした調べもの程度なら、いまは携帯でも事足りるのだから。
すぐに、とある自殺サイトに行き着いた。
ひと通り閲覧してみたが、気のせいだろうか、窓から差し込む陽の光が灰色に見えた。
死ぬことを望んでいる人々の切なる願い。
閉鎖的で重苦しい精神世界。
自分までが、鬱になってしまったように錯覚する。
「ん?」
それは、《赤いイルカ》という人物の書き込みだった。
予告。
「これか……」
南砂町駅で、決行すると書いてある。
まちがいない。
亀戸のアパートで死亡していた山本武司のものだ。南波は、これを見て、自殺を止めようとしたにちがいない。
さらに読み進めていくと、また赤いイルカの書き込みがあった。
パソコンでの時系列は、下から上──つまり、下に行けば行くほど過去になり、新しいものは上にくることが多い。このサイトもそうだった。だから正確にはその書き込みは、最初のものよりも過去に書かれたことになる。
山本武司が、以前に残したものだろう。
「西新井……」
いや、ちがう。
これは、入谷のビルから落下した伊藤康文ではないのか?
場所だけでなく、日付も、時間からも、伊藤康文である確率は高い。
どういうことだ?
二人が同じハンドルネームを名乗っていたということか?
それ以前に、赤いイルカという名で書き込みがないかを調べてみた。ある程度さかのぼってみたが、見当たらない。
もっと過去に、とも考えたが──。
「そうか……」
それよりも、ずっと簡単な方法を思いついた。
《赤いイルカ》で検索してみればいいのだ。
サーチ結果は、興味深いものになった。
別のサイトから自殺予告とおぼしき書き込みが、数件みつかった。
もちろんその書き込みが、山本武司か伊藤康文である可能性は捨てきれない。しかし片瀬には、まったくの別人に思えてしかたなかった。
もしそうであるならば、赤いイルカという名の人間が多数いることになる。
《赤いイルカ》というものが流行しているのならば、そういう偶然もあるだろう。だが、人気のキャラクターというわけでもないようだ。
そういえば……。
どこかで耳にしたことがあるような……。
もしかしたら、自分の知らないところで流行しているものなのかもしれない。
「流行……」
思わず口から出た言葉が、ある連想を抱かせた。
流行は、人から人にうつってゆくものだ。
うつる=伝染。
伝染するものは、ウイルスなどの病原体。
いや、それだけではない。
情報も伝染する。
それが、一般的な「流行」というものだ。
テレビ出演したアイドルのつけていたアクセサリーが、直後に売り切れることも、情報が人々に伝染したということなのだ。
『自殺の感染を防ぐ──というようなことを言っていたわ』
南波の素性に関して、大槻教諭はそう言っていなかったか?
菊地和彦の母親は「自殺の拡大を防止する仕事」と表現していたが、南波の目的が自殺の『感染』を防ぐことだとすると……。
自殺は伝染する。
テレビや新聞の報道、もしくは街に蔓延する噂などでも感染するといわれる。
ウェルテル効果。
南波は、そのウェルテル効果を防ごうというのか?
厚生労働省に、そんなセクションや関連団体があっただろうか?
たんに自殺防止をかかげていたり、悩みを相談できるホットラインを開設しているNPO法人ならば、いくつかあるだろう。
だが、それらの活動は、どうしても受け身になってしまう。自殺を考えている人間のほうから、SOSを出してもらうしかない。
南波は、積極的に動いている。
予告というSOSはあるものの、普通、サイトの書き込みだけでは動いてくれない。
それはもう、警察の領分に入ってしまう。もし通報がなければ、警察の仕事にすらならないものだ。
彼は、社会的・倫理的正義に則って活動している。殺人者として疑ったのは、冒涜にあたいする行為だったのかもしれない。
現に昨夜も、大槻教諭の自殺をとどめた場面に遭遇しているではないか。
(しかし……)
まだ否定しきれない自分がいる。
『GOD BLESS YOU』
伊藤康文、山本武司の死亡していた現場に、この文字を残した者が必ずいるのだ。
それは、南波ではないのか。
この文字からは「宗教」を連想させる。
昨夜の南波の説得からも、同じ匂いがした。
自殺、宗教。
検索ワードに、宗教を加えてみた。
出てきたのは、一般的な自殺論についてふれているものか、外国で過去におきた宗教団体による集団自殺のことばかりだった。
自殺、キリスト教。
南波の話は、宗教のなかでもキリスト教のように感じたからだ。
ヒット件数が一〇万件を超えていたから、すべてを確認するというわけにはいかない。それでも、先頭から数ページには、ヒントになるようなものはなかった。
自殺、プロテスタント。
「ダメか……」
これでやめようと思ったが、どうせだから、もう一つ頭に浮かんだワードを入力した。
自殺、カトリック。
最初の一〇件は、やはり似たような内容だった。サーチリストの二ページ目に、ある人物について書かれているであろうサイトのことが載っていた。
ひらめくものがあった。
そのサイトに飛んでみる。
『美しき殺人者』というタイトルがついていた。一人の犯罪者についてスポットを当てたもののようだ。
犯罪者マニアは、世界中にいる。
希代の大量殺人者たちにファンはカリスマ性を感じ、まるで尊敬される歴史上の人物と同じように崇拝するのだ。
もちろん、この日本にも存在する。
そういうマニアが創ったページの一つなのだろうが、少し趣がちがっているような印象もうける。
その犯罪者の名は、結城廉太郎。
殺人者ということにかわりはないが、殺した数は九人。世界には二桁のシリアルキラーもめずらしくない。
どうやらこのサイトの管理者は、犯人の残虐性や、やったことの凄まじさに賞賛をあたえているわけではなさそうだった。
見事な殺人術と、その動機についてほめたたえている。
片瀬も、この犯罪者のことは知っている。
というよりも、彼のことを知らない日本人は、高校生以上ではいないだろう。
当時は、世間を騒がせた。
もう一〇年以上も、むかしになるのか。
あらためて一連の事件のことをこうして読み返してみると、あれほど鮮烈だったはずの記憶も、かなり薄れてきていることを知った。初めて眼にする内容も多い。
とくに結城廉太郎のひととなりや経歴については、いくつも驚かされた。
職業は、教会の神父だったらしい。
年齢については、頭で認識していたよりも、ずっと高齢だった。
逮捕時で、七六歳。
死刑執行は、その四年後なので、享年八〇歳ということになる。
戦争経験があり、もとは神風特攻隊員であったという。数少ない生き残りの一人だ。そのときの経験から宗教にめざめたのではないかと、サイト内では推察している。
キリスト教では、自殺を禁じている。
とくにカトリックは厳しく、自殺者は墓もつくってもらえないという。
魂は、地獄に堕ちる。永遠に救われない。
ダンテの『神曲』においては、自殺は自己への暴力とされ、裏切り、悪意に次いで罪があるとされている。自ら命を絶ったものは「自殺者の森」で樹木に変えられ、アルピエという怪鳥に葉をついばまれ続けるのだ。
彼は、人々をそうさせないため、自殺を止めることに生涯を捧げた。しかし、そのとき説得に成功したからといって、完全に自殺を思いとどめたことにはならない。
またいつか死のうとする。
結城廉太郎は、こう結論を出した。
『自殺を止めることは、不可能だ』──と。
ならば、どうやって救えばいい?
唯一、確実な方法……。
それが「殺すこと」だった。
自分の魂は、死後、救われることはないだろう。それでいい。そのかわり、人々の魂は救われる。
この信念が、カリスマと呼ばれる所以だ。
(……)
片瀬は、強く確信した。
この結城廉太郎が、なにか関係しているのではないかと。
しかしこの男は、もうこの世にいない。
では……?
「関係者……知り合い……」
そして、もう一つに思い当たった。
「家族──」
最初からサイト内をくまなく読み返した。
だが、結城廉太郎の遺族に関する記述はなかった。
カトリックの神父だから、結婚はできないのではないか?
プロテスタントの牧師ならば結婚はできたはずだが、カトリックの司祭は禁じられているはず……。
(いや……)
そうとはかぎらない。東方典礼のカトリック教会ならば、例外として認められるという話を聞いたことがある。
「だけど、そうであったとしても……」
結城廉太郎が現在でも生きているとしたら、八五を超えている。もし子供がいたとしても、すでに高齢となっているのではないだろうか。すると、南波が結城廉太郎の息子という推理には無理がありそうだ。
もしくは、孫ということか。
だが、祖父と孫の関係ではないような気がする。もっと近いような。どうしても、父子の間柄を疑ってしまう。
根拠はないが……。
年齢から考えると、破綻しているか。
「そんなことはない」
片瀬は、声に出して思い直した。
女性ならともかく、男親ならば不可能なことではない。
「では、これが動機か……」
南波が結城廉太郎の息子だとすると、父の跡を継いでいるということになる。
自殺を止めるために殺人を──。