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囁き  作者: てんの翔
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        28. ?月?日


 だから、わたしは書き込んだ。

 ウェルテルと、めぐり会うために。

 それらしく自殺の予告文を書くなんて、読書感想文にくらべれば簡単なものだった。

 選んだ舞台は、御茶の水駅。

 べつに意味はない。

 なんとなく、そこを選んだ。

 行ったことも、二、三回ぐらいしかない場所だ。

 でも、それらしいでしょ?

 どうせ、死ぬ気はないんだし。

 ウェルテルは、やって来るかしら……当日、わたしは期待を胸に待っていた。

 そのとき、見知っている顔を発見した。

 だれだったかしら?

 そう、そう。

 学校の卒業生。

 いまは、高二になっているはず。

 たしか……北川さん。

 どちらかといえば、無口な先輩だった。何回か言葉を交わした記憶がある。委員会活動のときだった。

 なにをやってるのかしら……?

 え?

 先輩は、あたりをキョロキョロしていた三〇代ぐらいの男性に話しかけた。

 なんだ、あの男性も聖者になろうとしているんだ。

 わたしにはわかった。

 いいえ、わたしにはわかる。

 そういう人が。

 聖者に憧れるレミングが。

 なぜかって?

 わたしも、ただのレミングだからよ。

 先輩も、きっとそう。

 でも……先輩は、ただのレミングではなさそうね。

 とっても、光輝いている。

 先輩は人間の群れから、レミングを探し当てる能力があるのよ。

 いいえ。わたしにだってある。

 だって、あの男性がレミングだってわかったんですもの。

 わたしは忍び寄るようにして、先輩とレミングに近づいた。

 どうやら先輩は、自殺をやめるよう、説得するつもりらしい。

 なんて愚かなの。

 レミングは、自ら死を選ぶことが幸せなのに。

 知ったかぶった大人たちは、レミングが自殺する動物だというのは、まちがった知識だと恥ずかしげもなく諭そうとする。

 自殺する動物は、人間しかいない──したり顔でそう言うの。

 わたしにはわかる。

 自殺は、生きとし生けるものの正当な権利なのよ!

 先輩と男性レミングは、どこかへと消えていった。

 きっと場所を変えて、思いとどめようとするのだろう。

 わたしは、憤りに胸を焦がした。

 ウェルテルも来ない。

 かわりに来た先輩は、見当はずれのことをしている。

 それになによりも、わたしが書き込んだはずなのに、どうしてあのレミングが、死ぬためにここへたどりついたのか?

 わたしは、やりきれない感情を押し殺して、先輩たちを追いかけようとした。

 突然、声をかけられたのは、そのとき。

 それは、はじめて会ったはずの人。

 でも、とてもなつかしく、他人とは思えなかった。

 その人は、《赤いイルカ》と名乗った。

 わたしは、その名を知っていた。

 そんなはずはない。

《赤いイルカ》は、この世から天上へ昇ったのだ。

 あの夏の夜に……。

 いまはもう閉鎖してしまった自殺サイトに、彼女の予告が書き込まれていた。それを見て、ウェルテルが現れたのだ。

 それなのに、この人も《赤いイルカ》を名乗るのか?

 その人は言った。赤いイルカとは、自殺者を導く者のことだと。だから、その人は導いているのだと。

 そして、わたしに告げた。

 あなたにも、その資格があると──。

 イルカも、自殺をする動物だ。

 ただのレミングはイヤだ。

 どうせなら、イルカになってやろう。

 わたしは醜いネズミから、《赤いイルカ》に変身するのだ。




        29. 六月二八日


「──ですから、自殺防止というものに、これからわが厚生労働省は、力を入れていかなければならないのです!」

 一人の女性が大勢の男たちを前に、力説を繰り広げている。しかし聞いているほうは、どこかシラけムードが漂っていた。

「なにか質問は?」

「新型ウイルスの警戒が必要なときに、そんなことをやってる場合ですかね?」

 あきらかに、嘲りの念がこもっていた。

 女がなにを言っているのか、という本音が窺い知れる。

 とくに彼女は、異世界からの侵入者ではないか。

 法務省から、こっちに迷い込んできた。むこうでは、バリバリのキャリア官僚だったらしいが、ここではただの『闖入の徒』でしかない。

 政務秘書官。

 普通は、議員の第一秘書を任命することが多いはずだが、なにゆえ冬真紀三郎は、彼女をその任に据えたのか?

 かつては、名法相と呼ばれた政界の重鎮。それが現政権では、なぜか厚生の場にやって来た。与党の都合ではなく、本人の希望でポストを手に入れたらしい。

 就任してから、もう二年近くになるだろうか。現在のように、めまぐるしい混沌政治のさなかにおいては、かなりの長命だ。

 この女も、大臣とともに移籍してきたという形になる。

 自分の秘書やブレーンを差し置いて、彼女を選ぶなど……。愛人なのではないか、という噂は、省内ではだれもが知っている。

 いまでは大臣の後ろ盾を武器に、わがもの顔ときた。

 秘書官であるはずなのに、まったく畑違いのことをしている。

 すべては、大臣の密命ということだ。

 それだけ、冬真紀三郎の権勢が巨大であることを物語っていた。

「それは『MERS』のことかしら?」

「あたりまえのことを訊くな!」

 中東での感染拡大が心配される新型コロナウイルスのことだ。

「これまでに新型ウイルスで死亡した人数は、五〇〇人にも達していません。それにくらべ、日本国内で一年間に何人が自殺で命を亡くしているか、おわかりですか?」

 そこをつかれると、男たちはなにも言い返せなくなる。巧みなディベート技術だ。

「もちろん、新型ウイルスは脅威です。死亡率五〇%は『SARS』を大きく上回ります。警戒しなければなりません。しかし、同じように自殺問題も大変な脅威なのです。年間、三万もの人間が死亡し続けています。これをWHOの新型ウイルス警報レベルに照らし合わせた場合、まちがいなく『フェーズ5』となるでしょう」

 フェーズ5は、大流行直前の警戒アラート状態である。

 彼女は、効果的に訴えかけるコツをよく知っているようだ。さらに、こう付け足した。

「いえ、全世界で毎年一〇〇万人が自殺していることを考えると、『フェーズ6』が出されていることでしょう」

 それは、世界的大流行パンデミックを意味している。

「自殺は、感染症ではない。個人の問題だろう。心が弱いから自殺するんだ」

「いいえ、自殺も伝染しますよ」

「そんなことは知ってるよ。ウェルテル効果だろ」

「知っているなら、なぜその対策を積極的にやろうとなさらないんですか?」

「やってるさ! 国立精神・神経医療研究センター内に自殺予防総合対策センターを設けてるじゃないか!」

 反論者の冷静な姿勢は、もろくも崩れた。

「そこです、問題は。精神保健研究所に設置されているということは、やはり自殺を『心の病』と捉えている。感染症として定義しなければ、この不況下で予想される未曾有の拡大は防げません」

 今後予定されている消費増税は、上昇傾向にある景気の流れを完全に断ち切ることになるだろう。

「では美里君、君が推進している新セクションならば、どこまでのことができるのかね?」

 美里と呼ばれた女性は、待ってましたとばかりに瞳を輝かせた。

「自殺の感染を正式に『伝染病』と認め、疫学的見地、心理学的見地、医学的見地、それらを総合して自殺拡大を防止いたします。ついては『自殺防疫研究所』──あ、これは仮の名称ですが、その調査員には一定の権限をあたえます。たとえば、捜査権のようなものです」

 一同が、ざわめきをおこした。

 どこかで、正気かね、と声があがった。

「もちろんです。いまは独立行政法人という形態をとっておりますが、将来的には、わが厚生労働省のほこる地方厚生局麻薬取締部のような組織にするつもりです」

 その発言で、ざわめきが騒ぎにまで発展した。

「不可能なことを言うな!」

 たしかに現実的ではない。

 つまりは、特別司法警察職員に任命するということになる。

 ちなみに麻薬取締官は『麻薬及び向精神薬取締法』において、その権限をあたえられている。もし自殺防疫研究所にそのような役目を担わせるのであれば、自殺防止に関する社会法を新たにつくらなければならない。

「えー、お静かに。これは戯言でもなんでもありません。大臣の根回しは着実に進んでおります。組織のほうも、すでに一年半の活動で、土台は完成したも同然です」

 やむわけがない。

 火に油をそそいだ。

「そんなこと、われわれは許可したおぼえはないぞ!」

 発言を聞くかぎり、この人物は省のなかでも、かなり上層の人間なのだろう。

「大臣が許可しております。まあ、このなかには、つまらぬ嫌疑をかけて、その大臣の失脚を謀った方たちがおいでのようですが」

 その声で、室内が静まった。

「現在、都内の中学校で連続自殺がおこっていることは、みなさんもご存じのことだと思います。一両日中に、この騒動は解決しているでしょう」

「美里君の言う、新セクションの人間が解決させるとでもいうのかね?」

 その問いには、自信をもってこう答えた。

「そうとってもらって、結構です」


       * * *


「ずいぶんとやり合ったそうじゃないか」

 午前のまぶしい陽光が、窓から入り込んでいた。

 大臣室──。

「はい。そういうことになりますね」

「どうだね? 法務省時代がなつかしくなったんじゃないか? 司法試験とⅠ種両方を受かっているほどの君だ。法務省の中枢にも、検察庁の最高位にも、いずれなることができたかもしれない」

「かいかぶりです」

「それとも、ここで骨を埋める覚悟かね?」

「ご冗談を。でもここは、法務省と似たところがありますね。あっちは検察からの出向組が、ここは医系技官がそれぞれ幅を利かせています。純粋なキャリアがうとまれる。それがいいところであり、悪いところでもあります」

 法務省と厚生労働省のキャリア制度は、少し特殊だ。

 法務省の場合、国家公務員Ⅰ種試験に受かった通常のキャリアよりも、検察庁から出向してきた検事──いわゆる司法試験組のほうが、いいポストに就けるといわれている。平均した出世ということでは、国Ⅰキャリアのほうが早いとの評もあるが、法務省で天下をとりたければ、司法キャリアになったほうが有利だ。

 かたや厚生労働省にも二種類のキャリアが存在する。同じように国Ⅰを合格したキャリアと、医師免許をもった医系技官だ。世間的に医系技官は、医師免許と国Ⅰの両方をもっていると誤解されることもあるが、医者の資格があればいいのである。

 出世ということでは、法務省の司法組とはちがって、医系技官のほうが国Ⅰキャリアよりも上になることはない。しかし、なにかと批判をされることのほうが多い立場だった。※現在、国家公務員試験の制度が変更され、Ⅰ種・Ⅱ種という区分から、総合職・一般職という名称に変わっている。

「結局、彼らは司法試験に合格していても、裁判より出世レースを選んだ俗物法曹。もしくは、医師免許を持っているのに手術をしたことがないペーパー医学者の集まりです」

 大臣は、屈託のない笑みを浮かべた。

 冬真紀三郎。

 年齢は、六〇歳ほどだろうか。いや、政治家は実際よりも若く見えるものだ。六〇後半から七〇なのだろう。

「あいかわらず手厳しいね、美里君は」

 歳の離れた女性に対し、冬真は一目置くような素振りだ。

 冬真は長きに渡り、法務省を裏から牛耳っていた。大臣の座も、幾度かつとめてきた。そのなかでも、後期──最後の数年間に彼女と職をともにした。

 大臣とキャリア官僚の確執は、よく報道でも取り沙汰されるが、いかに法務のフィクサーといえど、我の強い冬真も例外ではなかった。必然的に、足を引っ張り合う人間関係が、まわりには形成される。

 そんな世界において、美里は、最も信頼できる人物となった。

 もしかしたら、同じ与党の政治家や、自分の秘書よりも、その念は強いかもしれない。

「夕介は、うまくやってるかね?」

「ええ、順調です」

 彼女は、法務省の保護局に属していた。罪を犯した者たちの更生保護に関する部署。

 ある特命のために動いてもらったのだ。

 その特命とは……。

 法務大臣にとって一番重い仕事とは、どんな神経の図太い人間であろうと、死刑執行書に判を押すことだ。

 冬真は法務大臣時代、自らの信念に従い、執行書に判を押すことはしなかった。

 唯一、処刑を許可した死刑囚がいる。

 それが、希代のカリスマ殺人者──結城廉太郎……。

 その死刑執行の裏で動いていたのが、彼女ということになる。内容は明かせない。それほどの重い判断を彼女に託したのだ。

「まあ、あいつなら大丈夫だろうな」

 結城廉太郎には、二人の子供がいた。

 長女は、何度も大きな自殺未遂をおこし、幾度も生死の境をさまよった。現在は、どこか田舎の教会でシスターをしているということだ。

 息子のほうは、未遂はあったものの、小さなリストカットだけですんでいた。自分が処刑した男の息子……その行く末に、憐憫の気持ちが芽生えたのは、自然の流れだった。

 姉のことは救えそうになかった。

 だが、弟のほうは……。

 結城という姓を捨て、母がたの姓をいまでは名乗っている。

 高校まで施設で育った彼は、施設を出たあと、人生の目的をみいだせずにさまよっていた。そんな彼に、大学へ行けるよう、冬真は援助をはじめた。

 そのときから関係は続き、厚生労働大臣となってからは、美里の協力もあって、新セクションの調査員として動いてもらっている。

「しかし大臣、いまはあの男の心配をしている場合ではありませんよ」

「ふふふ、君らしくもないな。こわっぱ役人の奸計なんぞ、これまでの修羅場にくらべれば、かわいいものだ」

「ですが、東京地検もかなり乗り気のようです」

「ならば、地検特捜部と潰し合いをするまでだ」

 昨日、突如として冬真紀三郎の贈収賄疑惑が世間を騒がせた。

 リーク源は察しがつく。

 福祉制度、年金問題、介護・医療に関することでなにかと対立している、この省に巣くう毒虫どもだ。

 事務次官以下、幹部クラスは、こぞって敵となる。

 大臣の椅子は、針のむしろの上に君臨しているのだ。

「この狂った世界を修正できる者が、はたしているのだろうか」

 唐突に、冬真がつぶやいた。

 いまでは伝説となった犯罪者が、それに挑んで、挫折した。

 いや、ヤツは次の世代に託したのかもしれない。

「夕介……南波夕介。あの男ならば、あるいは──」

 美里の答えを聞き、冬真は満足げにうなずいた。


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