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27. 同日午後五時
どこへ向かったのだろう。
大槻美也子の姿は見当たらない。雪耶は、あてもなく捜し回ることしかできなかった。
気がつけば、よく知っている道だった。
もうすぐ進めば、自宅に行き着く。
(四人目が、先生……)
あの様子では、死に場所を求めて、さまよっていることはあきらかだ。
成望中学校でおこった連続自殺。
一人目は、マンションからの飛び降り。
二人目は、柔道着の帯で首を吊った。
三人目は、硫化水素。
では、四人目の大槻先生は?
(なにか……)
なにか手掛かりは……。
「雪耶じゃない、どうしたの?」
「お姉ちゃん!」
帰宅途中だったのだろうか、雪耶の姉は、きょとんとした眼をしている。
「明日は、朝イチから大事なプレゼンがあるからさ、とっととあがってきちゃった」
「ね、ねえ、お姉ちゃんよりも、ちょっと年上ぐらいの女の人みかけなかった!?」
「それって、二八歳ぐらいってこと?」
そんな冗談につきあっている時間はなかった。
「こ、こわい顔しないでよ」
「お姉ちゃん!」
「見てないわよ……どうしたのよ、いったい?」
そのとき、携帯が音をたてた。
「もしもし!?」
『ヒントをあげる』
さやかの声は、楽しげに、それでいて冷酷にそう告げた。
『一匹のレミングの前には、飛べない鳥が一羽いた』
「なに!? なんのこと!?」
『二匹のレミングの前には、死神の一つ前』
意味不明な言葉は続く。
『三匹のレミングの前には、ヘビースモーカーが一人』
「ふざけないで!」
『では、四匹のレミングの前には、なにがあるでしょう?』
そこで、裁断されたように通話は切れた。
「二宮さん! 二宮さん!?」
「ど、どうしたの、雪耶!? だれからの電話?」
「お姉ちゃん、レミングってなに!?」
「レミング?」
姉は、少し考え込んでから答えた。
「ネズミ……の一種だと思うんだけど? それがなに? どうかしたの?」
「どういう意味があると思う!?」
「意味? ネズミに意味なんてあるの? わからないわよ」
「もう!」
理不尽な怒りを姉にぶつけると、雪耶はさやかの携帯にかけてみた。出てくれない。
ならばと、べつの人物を呼び出した。
「あ、柏木!? レミングで連想することはなに!?」
突然の質問にも、柏木は淡々と応答してくれた。
『ネズミです』
「それはわかってる!」
『自殺をするネズミです』
言い直したその言葉が、重く響いた。
「自殺する!?」
『でもそれは、人間の誤解です。スカンジナビア半島では周期的にレミングが大量発生します。大群となった彼らが、ある日、いっせいに崖から海に飛び込んだそうです。海面に広がる溺れたレミングの群れを見て、当時の人々はそう勘違いしたんでしょう。実際には増えすぎたために餌が枯渇して、生き残るため海を渡ろうとしただけです』
後半の説明は、耳に届いていなかった。
「じゃあ、飛べない鳥は!?」
『ニワトリ、ペンギン、そんなところです』
「死神の一つ前」
『それはわかりません』
「ヘビースモーカーは!?」
『いっぱいタバコを吸う人』
鳥と、いまのくだりは、雪耶でも連想できることだった。
「レミングの前にその三つがあらわれた。なんのことだと思う!?」
『……ムリです。情報が少なすぎます』
わざと、わからないようにヒントを出しているとしか考えられなかった。
そもそも「二匹」のところが、文章として成立していない。
二匹のレミングの前に、死神の一つ前──「死神の一つ前」をつきとめなければ、答えまで行き着けない。
『あ』
なにかに気づいたような声。
「わかったの!?」
『一二です。タロットカードで、死神は一三ですから』
「意味は?」
『吊るされた男』
「そうか……」
一匹、二匹、三匹……。それは、一匹目、二匹目、三匹目──つまり、一人目、二人目、三人目。
「わかった。飛べない鳥は、ビルから落ちた……吊るされた男は、首吊り……ヘビースモーカーは、煙をいっぱい吸ったのよ」
三人の自殺者をさしている。
では、四人目の先生は?
「ダメ、結局わからない」
『前なんですよ』
柏木の言葉も、意味不明に感じた。
『「前」に、あったんですよ』
「なにがあったの」
『レミングが自殺する前に、同じ死に方があったんですよ』
「どういうこと!?」
『ですから、「前」にビルから飛び降りた。首を吊った。煙を吸い込んだ人がいるんです。これ、北川さんの中学校での自殺騒動ですよね? 二つ目まではわかりませんけど、三人目のときは、同じ日に高田馬場でもありました』
そう言ってから、息継ぎもせずに訂正が入る。
『ちがう。それでは「同じ」だ。たしかその前日にも、どこかであったような気がします……そうです、駒込で硫化水素自殺がありました』
「前……」
柏木の推理が正しければ……。
「昨日、どこかで自殺がなかった!?」
『いま調べてみます』
「昨日なら……」
それまで唖然と眺めていただけの雪耶の姉が声を出した。しばらく出せなかったからか、少しかすれていた。
「どこらへんかは忘れたけど、埼京線が人身事故で止まってたって……。歩道橋から線路に飛び降り──」
最後まで聞かずに、雪耶は走り出していた。
「あ、雪耶!?」
姉の呼びかけを背中にうけながら、さきを急ぐ。礼も言わずに携帯を切ってしまったが、柏木ならあとで謝れば大丈夫だろう。
「歩道橋……」
どこにある!?
道路ではなく、線路に架かっていなければならない。
とにかく、上野駅に向かった。
あるとすれば、線路が地面を通っているJRの日暮里方面になるだろう。上野から御徒町方面へは、ずっと高架が続くことになる。
たしか線路上に架かった道路ならば、駅からでも見える場所にあったはずだが、歩道橋となると……。
鶯谷から向こうに行けば、あるかもしれない。
明確な目的地がないままに、足を進めた。
JRの線路沿いの道を行く。
何十分、経っただろう。
一時間以上だろうか。
すでに陽も暮れていた。
ラブホテル街を抜け、人通りの途絶えた路地裏を進んでいく。
「あった……」
もうすぐ行けば、日暮里駅になる場所だった。大むかしからここにあったような歩道橋が架かっていた。数十メートルさきには、平行するように京成線の高架が通っている場所だ。
雪耶は休むことなく、階段を上がっていく。ここが都内だということが信じられないぐらい、ひっそりと静まり返っていた。
暗い。
歩道橋を照らす光源は、一切ない。
上がりおえたが、そこから進むことに恐怖をおぼえた。
手摺り自体は標準的な高さだが、その上に設置された金網が高くそびえている。
三メートルはあろう。
転落防止──もっと言えば、自殺防止のためだと思われるが、ここの環境を考えれば納得できる。
「はあ、はあ……」
自分の荒い息づかいだけが、耳に届く。
橋の中央付近めがけて足を踏み込んだ。
最初、そこにだれかが立っていることに気づかなかった。
雪耶の存在を察知しているはずなのに、男は振り返らなかった。
「なんで、止めないの!?」
息を切らしながらも、雪耶は言い放った。
男の前方、歩道橋の中央には、大槻の姿があった。
呆然と虚空を眺めていた。正気に戻ったとは思えない。
その背後には、不気味に広がるいくつもの墓石が、うっすらと見えた。そういえば線路の向こう側には、巨大な墓地があるということを思い出した。徳川家の墓などがある谷中霊園。小学生のときに学校行事で来たことがある。
なんと不吉な光景だろう。
「先生……」
遠くから、列車の響きが届いてくる。
大槻の行動は、予想どおりだった。なにかに憑かれたように、金網のフェンスをよじ登りはじめた。
「どいて!」
男の背中を押し退けて、雪耶は大槻のもとを目指そうとした。
だが、男の身体に触れようとする直前、さきに男の足が動いていた。
「楽に……」
「え?」
男のつぶやき声が、かろうじて聞こえた。
金網を乗り越えようとする大槻美也子に向かい、男が突進する。
すでに彼女はフェンスを登りきり、上半身が中空に浮いていた。
そのまま引力に逆らわず頭から落下すれば、すべては終わる。
「楽になる……なんて」
電車のライト。
激しい騒音。
「楽になるなんて、許せねえ──ッ!」
次の刹那、雪耶の見たものは──自らも身を乗り出し、右腕一本で大槻の足をつかんでいる南波の姿だった。
南波が手を放せば、真っ逆様に落ちてしまう。
南波……南波夕介!?
ちがう。
それは南波であって、南波ではなかった。
べつのだれかの仕業だ。
「お、お願い! 死なせてよ──ッ!」
「ふざけるな!」
「もう生きていたくないの! わかってたのよ、あの人はわたしを捨てたのよっ! もう死にたいの! 楽にさせて!!」
「いいか……人間ってのはなぁ」
片腕だけで引き上げようというのか。
鬼のような形相。
残酷なまでの声。
「犯した罪を償うために生きてんだよ! 罪を贖うために、生かされてんだよ! 罰をうけなきゃ死ねないんだ!!」
その叫びは、大槻の心に響くのか。
「それを……自分一人だけ楽になろうなんて、絶対に許せねえ──ッ!!」
大槻の身体が持ち上がっていく。
片手だけで、五〇キロ近い重さを上げていることになる。普段の南波からは、到底、信じられない力だ。
それまでただ圧倒されるように眺めていただけの雪耶だったが、なんとかわれを取り戻した。救助に加勢しようとしたのだが、しかし雪耶の力など必要なかった。
南波の腕力だけで、大槻は橋上に戻ってきた。
泣いているためか、逆さづりで鬱血したためか、大槻の顔は腫れぼったくなっていた。
立ち上がることもできずに脱力している。
学校にいるときの凛々しさとは、対極に位置する姿形だ。
「わたしが……なにをしたというの……」
弱々しく、そう言った。
「どんな罪を犯したというの……?」
「この世に生をうけたこと自体が、人間の罪なんだよ」
「何度でも、死んでやるわ……」
「だったら、何度でも止めるまでだ」
涙があふれだした。
「わたしは、どうすれば……」
「苦しみながら、生きろ」
「イヤよ! もうなんの希望もない……」
「はじめから、この世に希望なんてない」
「希望のない世界なら、生きてたってしょうがないじゃない!」
「だから、罰なんだ。必死になって生きつづけたら、いつか許されるときもくるだろう」
「それは……いつなの!?」
「さあな。生きてりゃわかる……そのうちな」
まるで南波自身が、そのときを強く待ち望んでいるかのようだった。
「はは……ははははっ」
とても悲しそうな声で、大槻美也子は笑った。
* * *
中学校を出てから、近くの公園を通りかかった。園内には、二人の少女がいた。そのうちの一人が『女子高生』こと、北川雪耶だった。
しばらくすると、二人は学校へ向かっていった。
尾行を開始した。
忍び込むように二人は校内へ入っていく。
片瀬は一瞬ためらったが、自らもなかに入ることを選んだ。庭園にあるベンチで、北川雪耶は座っていた。
一〇分ほど経っただろうか。
彼女は立ち上がり、校舎内に行こうとしたようだ。だが、一人の教師と玄関前で口論となった。さきほど対面した、とても苦手なタイプの大槻という女教師だ。
片瀬は、ずっと見守っていた。
そして気がついた。自分と同じように、その光景をうかがっている人物がいることを。
あの南波という男だ。
こちらが気づいているのだから、もしかしたら、むこうも自分の存在を感知しているかもしれない。油断のできない相手だから、そういう計算をしておいたほうがいいだろう。
その後、口論は、もう一人の登場人物によって混乱に変わった。
公園ではおとなしそうだったのに、まるで別人格があらわれたように、その女生徒は大槻教諭を狂わせた。
あきらかに正気を失った大槻教諭は、その場から逃げ出してしまった。
南波も、あとを追いかけていく。
自分は、どうすべきか?
いや、頭で結論を出すまえに、片瀬も続いていた。
大槻教諭というよりも、それを追う南波のあとをつけていた。
そしてたどりついたのが、この歩道橋だ。
大槻教諭と南波は階段を上がっているが、片瀬は下から状況をうかがっていた。
この上で大槻教諭がなにをしようというのか、一連の流れからすると、推理するまでもない。
本来なら、警察官である自分が止めなければならない立場だ。
だが、いまは南波という男の出方を見届けたかった。
すると、もう一人が歩道橋にやって来たではないか。
北川雪耶だ。
彼女も追いかけてきたのか。
しかし、自分の背後から尾行する気配はなかった。だとすれば、すぐに追いかけてきたのではなく、しばらく経ってから、勘を頼りにここまで来たのだろう。
とりあえず、片瀬は身を潜めた。
北川雪耶も、橋上へ登っていく。
彼女が上がってすぐに、大槻教諭が高いフェンスをよじ登りはじめた。
慌てて、片瀬も駆け上がった。
なんということだろう。
落下していくはずの大槻教諭を、南波が片腕一本だけで持ち上げようとしている。
している、ではなく、持ち上げた。信じられない腕力だった。
これで、一つ確定したことがある。
この男の目的は、自殺を止めること。
それ以外にない。
と同時に、南波の、女教師に説いた言葉から、あるものが連想できた。
宗教観。
彼の言う「許し」とは、だれに対してのものか?
神。
とくに、人間の存在自体を「悪」としているところが、キリスト教の原罪観とかさなっているような気がする。
さらに、彼の行動理念はなんであろうかと考えたときに、ある一つの言葉が浮かんだ。
贖罪。
「GOD BLESS YOU」
わざと大きめに声を出した。
南波と北川雪耶は、こちらを振り向いた。大槻教諭だけは、座り込んだまま呆然と笑っていた。
「神のご加護がありますように」
もう一度、聞こえるように言った。
二人からの反応はなかった。
いや、南波の眼光が、一瞬、鋭くなったような……。