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24. 同日午後三時半
本日最後の授業が終わり、大槻美也子は憤りを胸に職員室へと戻った。自分が担任をつとめるクラスの生徒が、無断欠席をしていたのだ。二宮さやかという女生徒だった。お昼休みに彼女の自宅に電話をしたところ、母親は「朝、ちゃんと家を出ていったのですが……」と語った。
受験をひかえているというのに、学校をさぼるなんて。公立や低レベルの私立ではどうかわからないが、ここでは三年生に上がるのと同時に、受験の本気モードに切り替えていなければならない。
二宮さやかは携帯電話を持っているそうなので、母親から番号を聞いてかけてみたが、出てはくれなかった。
こんなことをする子ではない。だれか悪い人間の影響をうけているのだ。
大槻の脳裏には、北川雪耶の姿が浮かんでいた。
なにかと問題の多い子供だった。
二宮さやかも、北川雪耶と同じ因子をもっている。
彼女は一年生の後半に、ここへ転校してきたという経緯がある。私立の進学校であるこの成望中学校への転校は、公立中学のように手続だけすればいいというわけではない。当然、ここの生徒は高い倍率の受験に合格したエリートだ。二宮さやかが転校してくるにしても、それ相応の学力を有していなければならない。
しかし彼女は、ここよりもランクの劣る学校から移ってきた。しかも転入試験は免除されている。その移籍が実現した事情は、学校内でもタブーとされていた。
二宮さやかは、親友の同級生とともに自殺をはかったという。
いっしょに建物の屋上から飛び降りたらしい。
さやかは完遂できなかったが、友人のほうは帰らぬ人となった。
自殺の理由は、二宮さやかのほうには、とくになかった。死んでしまった親友のほうが問題を抱えていたそうだ。家庭環境に恵まれていなかったと伝え聞いている。
さやかの両親は、そのことを憂慮した。
同じ学校のままだったら居づらいのはもちろんのこと、学力の高い中学に転校したほうが、まわりの生徒の環境もいいのではないかと考えたのだ。
二宮家は、全国的にビジネスを展開する訪問販売の会社を経営している。資産は、相当なものがあるらしい。多額の寄付をすることを条件に、ここへの転校を校長に打診したようだ。校長もデリケートな問題なので、特例として認めたという。できれば、金の力に動かされたわけではないことを信じたかった。
(自殺……)
彼女のほうに理由はない。いわば二宮さやかは、死んだ友人に感化されてしまったのだ。あの南波という得体の知れない男ならば、自殺が伝染した、と言うだろう。
そういえば、あの男……。
大槻は今日にでも、渡された名刺に載っていた連絡先に確かめるつもりだった。しかし不思議なことに、どの教員も南波の名刺を持ってはいなかった。職員室内も、くまなく探したが、みつからない。
もしかしたら、と思う。
あの男、名刺を渡していなかったのではないだろうか?
たしかに渡すところを大槻も見ている。だが渡したあとで、すぐにそれを回収したのではないか。
普通、渡されたほうも、その名刺をあまり重要なものだとは考えない。
渡されはしたが、その渡された名刺をその場に忘れてしまうことなど、よくあるではないか。
とくに教員という職種は、あまり名刺交換をする機会がない。ビジネスマンならば、名刺を大事なものとして、すぐにしまう癖もついていようが、われわれにそれはない。
あの南波という男は、それを利用して、何食わぬ顔で自らの手に戻したのだ。
どうして、そういうことをするのか?
きまっている。やましいことをしているからだ。
あの男の肩書は、嘘ではないだろうか。
会社の名前は忘れたが、厚生労働省、という名を出していたのはよく覚えている。
もし、またあの男が現れたら、厚労省に問い合わせるしかない。そう決めていた。
「あの、すみません」
声に振り向くと、職員室の入り口に、見知らぬ男が立っていた。スーツ姿の真面目そうな男性だ。公務員か一般的なサラリーマンに見えた。
「どちらさまでしょうか?」
一番近くにいた教員が声をかけた。
大槻も、男に近寄っていく。こんなに堂々と入ってきているのでまさかとは思うが、マスコミの人間では、と心配になる。
「校門にいた先生には了解を得たんですが、事前に電話連絡をすればよかったですね。すみません、お忙しいところ」
大槻の訝しむ表情を察してか、男が穏やかに頭をさげた。
「ぼくは、こういうものです」
「わたし」ではなく「ぼく」と言ったところに、どこか社会人としてのズレのようなものを感じた。きちっとした身なりだからこそ、違和感があった。
「警察の方?」
男の差し出した身分証を見て、大槻が応じた。
「そうです。片瀬といいます」
「どういったご用件で……?」
大槻は隙をみせまいと、男の挙動をなめるように観察していた。ハッキリ言って、刑事には見えなかった。
それに刑事は普通、二人で捜査活動をするものだという話を聞いたことがあった。
身分を偽っているのかもしれない。
あの南波という男の二の舞を踏むわけにはいかない。
「生徒たちの自殺についてでしたら、わたしもふくめて、何人かの教員がすでに事情を聞かれておりますが……」
「は、はあ……」
警察を名乗った男は、言いよどんだ。
「そのとき担当した刑事さんたちのなかには、いなかったですよね?」
「そ、それはですね……」
* * *
怖かった。
彼女のようなタイプは、苦手だ。
眼の前の女教師が、なぜだか雛形警視とダブって見えた。
あきらかに、自分は疑われていた。警察手帳を提示すれば、たいがいは信じてくれるものだが、こういった疑り深い人もなかにはいる。
「ぼくは、自殺の件ではなく……」
「大槻先生、どうしたんですか?」
そのとき、一人のベテラン教師がやって来た。もちろん、年齢はその教師よりずっと若いのだが、先輩刑事・緒方を思い浮かべた。
「村田先生、この人が」
「ぼ、ぼくは警視庁の片瀬という者です」
村田と呼ばれたベテラン先生のほうが、くみしやすいとふんだ。
片瀬は、身体をベテラン先生に向けた。
「そうですか。ご用件は、生徒たちの自殺についてですか?」
「いいえ、ちがいます」
やはり村田のほうが、大槻という怖い女先生よりもやりやすかった。
片瀬は、デジタルカメラを取り出した。
つい、さきほど撮影した画像を見せた。
「彼女についておうかがいしたいのです」
「え? 北川ですか?」
「北川……さんというのですか?」
「ええ、そうです」
ここの卒業生という片瀬の読みは当たったようだ。
「どちらの高校なのかわかりますか?」
「茅場町にある私立高校です」
「お住まいを、教えてもらえますか?」
「あ、はい」
言おうとした村田を、大槻がさえぎった。
「待ってください、そんな簡単に教えてしまっていいんですか!?」
「刑事さんになら、かまわんだろう」
「本当の刑事なら、かまいませんけど」
大槻がストレートに疑惑をぶつけてきた。
「ご心配なら、警視庁に問い合わせてみてください」
休暇中という身分ではあまり好ましくないことだが、入口でつまずいていては捜査どころではない。
「捜査一課の片瀬仁と伝えてもらえれば、わかると思います。殺人犯捜査係です」
彼女の不信感を晴らすために放った一言が、職員室内に波紋を呼んだ。
「捜査一課……ですか?」
「そうです。そこの片瀬仁と──」
言葉の途中でやめた。どうやら刑事かどうかの真偽ではなく、べつのところに引っかかりをおぼえてしまったようだ。
「警視庁の……」
「え、ええ」
だから、そう言っているのに……。
(ああ、そうか)
片瀬は、思い至った。
「警視庁本部です。霞が関の」
と、言い直した。
言葉の選び方がまずかったかもしれない、と反省した。
厳密にいえば、東京都内にある警察署の警官は、みな『警視庁』の人間になる。警官同士では『本庁の』、もしくは隠語的に『本店の』と紹介をするものだが、一般市民相手には『警視庁』のほうがわかりやすいと気をきかせたつもりだった。それが逆に混乱を招いたようだ。
「ですから、霞が関の警視庁に問い合わせてください」
「警視庁の捜査一課って、殺人などの凶悪犯罪しか捜査しないんですよね!?」
「え、ええ……そういうことになりますね。ぼくの係は、殺人犯担当ですし」
「殺人犯係……ですか」
「は、はい。むかしは、強行犯捜査係と呼ばれてたんですが、いまは名称を変更して──」
一生懸命、嫌疑を晴らそうと説明をかさねていたが、そこでやっと、教師たちが、なにについて驚いているのかを理解した。
なぜ、殺人事件を捜査するはずの本庁刑事部の人間が、ここにいるのかを疑問に思っているのだ。
おそらくこれまで事情を聞きにきたのは、所轄の捜査員だろう。本庁の人間で一連の自殺に関わったのは、三件目の現場に立ち会った自分だけのはずだ。自殺と断定されている案件に、本庁が出てくることはない。
本庁捜査一課のイメージは、自分たちが思っている以上に重いらしい。課をあかしたのは、失敗だったかもしれない。いらぬ心配をあたえしまったようだ。
「北川が、なにか事件に関係しているんですか!?」
「あ、ちがいます、ちがいます」
必死に片瀬は否定した。
「ちょっと確認したいことがありましたので」
「そうですか……」
不安が強く残ったままなのは、村田の表情からあきらかだった。
そんな村田から、なんとか彼女のフルネームと、住所を聞き出した。
「北川雪耶さんは、どんなお子さんだったのですか?」
「問題の多い子でしたわ」
言ったのは、大槻教諭だった。
「どういう問題ですか? 非行にはしっていたとか?」
さらに大槻が続けようとした発言を、村田が制した。
「そういうことではありません。ま、成績はあまりよくありませんでしたが……」
「この学校には、優秀な生徒さんたちが集まるんですよね?」
「そうですが、そのなかでも学力の優劣は当然あります。刑事さんでも、そうでしょう? 優秀な警察官の集まりである刑事にも、より優れている人と、そうでない人と──」
片瀬は、軽く笑みを浮かべた。
優秀な警察官が選抜されて刑事になるものと勘違いしているらしい。そもそも『刑事』という職種があるわけではない。
一般には私服警官、もしくは刑事部(所轄警察署では刑事課)のことをそう呼んでいるのだろうが、事務職や交通部でも私服で勤務している警察職員はいるし、生活安全部なども、あつかうものがちがうだけで、捜査手法は刑事部と同じだ。
ならば、刑事部や生活安全部のような捜査活動をする私服警官を『刑事』と定義をした場合、私服の鉄道警察官も『刑事』ということになる。
「いえ……ぼくのように優秀でない刑事もいますよ」
あえて、村田教諭の話に合わせた。
ここで『刑事論』について意見を交わしても時間の無駄になる。ここでは一般的な『刑事』になりきることにした。
「もちろん、まわりにいる同僚たちは、みな優秀ですけど」
と、念のためつけ加えた。
市民にたいして、不安を抱かせる発言ばかりではいけない。
「ははは」
本気とも、愛想笑いともとれる笑い声だった。村田が、やわらかい頭の持ち主でよかった。
彼の言う『刑事』のイメージは、たしかにそのとおりなのかもしれない。捜査一課だけに話を限定すれば、配属されたことを誇りに思っている捜査員も多い。自分は優秀だと、特別意識が芽生えるのも事実だ。だが、片瀬のようにイヤイヤなった人間もいる。結局は適性だ。内勤で優れている人間もいれば、刑事には向いていないがなんとかやっている人間もいる。優秀かそうでないかは、配属先で決まるのではない。
「では、落ちこぼれだったということですか?」
片瀬は、話を戻した。
「いいえ。たしかに進学した高校は、あまり偏差値のいいところではありませんが、彼女なら学歴を武器にしなくても生きてゆける本当の『賢さ』があります」
その表現で、村田の北川雪耶にたいする信頼と情を感じ取った。
「問題とは、そういうことではありません。生い立ちに問題があるだけですよ。その影響で、心に傷がある」
「詳しく聞かせてもらえますか?」
「すみません……そのことは絶対に口外しないよう、彼女の両親から言われているのですよ。たとえ、警察関係者にも……」
憂いをたたえた顔で、村田は答えた。
なぜだか、それ以上は踏み越えてはいけないと思った。
「そうですか、わかりました」
この場を去るまえに、もう一つだけたずねたいことがあった。
「それと……こういう男性をみかけたことはありませんか?」
今度はデジタルカメラの画像ではなく、プリントした写真を村田たち教師に見せた。
教師たちの顔色が変わった。
「知っているのですか?」
「は、はい。昨夜、ここへ来ましたよ」
「どんな用事で!? 名刺を受け取りませんでしたか!?」
片瀬は、質問を矢継ぎ早にぶつけた。
村田たちは、その変貌に唖然となったようだ。
「南波さんが、どうかしたんですか?」
「南波というのですか!?」
「そうです。ただ、名刺のほうは無くしてしまったみたいで……」
「いいえ、村田先生。無くしたのではなく、あの男は最初から名刺を渡していなかったんですわ。渡したようにみせかけたのよ!」
大槻教諭が、激しく声をあげた。
その内容は、菊地和彦の母親が、受け取ったばかりのはずの名刺を持っていなかったことに、つながるような気がした。
「あの男には、なんの容疑があるんですか!? どうせ、やましいことをしているにきまっているわ」
「あ、いえ……そういうわけでは……」
「厚生労働省の名前を出していましたけど、それもどうせ嘘よ!」
「厚生労働省?」
「自殺の感染を防ぐ──というようなことを言っていたわ」
その話は菊地和彦の母親から聞いていたが、厚生労働省のことは、収穫だ。
まだ言いたりなさそうな大槻をなんとかあしらうようにして、片瀬は教師たちに礼を述べた。
「ありがとうございました」
ここで得た情報は大きかった。
男の名前──『南波』という姓と、厚生労働省についての証言。女子高生──北川雪耶のことも、いくばくかわかった。
これだけの情報を仕入れれば、充分だ。
雛形警視たちに、ここまでのことを報告すれば、捜査の延長を認めてもらえるかもしれない。
しかし、順調すぎるところに不安もおぼえた。自分の人生で、こんなにすんなりと物事がはこんだことはない。もしかしたら、なにもわからなかったほうが幸せだったかもしれない……そんな、ネガティブな思考が芽生えはじめていた。