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2. 同日午後
噂は、不謹慎に街をめぐる。
ここの道で事故があった。あそこの家が放火で燃えた。そこのビルから、だれかが飛び降りた……。
噂をたどれば、不幸にいきつく。幸福な話など、感動を売りにしたバラエティ番組のなかにしか存在しない。
真実の世界=不幸。
そういう意味において、最高にリアルな世界とは、インターネットのなかに存在するのかもしれない。
掲示板やスレッドを覗けば、幸せについてふれている書き込みはほとんどみられない。あるのは、誹謗中傷、知識のひけらかし、偏った批評、そして一番多いのが、おもしろおかしく誇張された他人の不幸──。
「……あるかな」
北川雪耶は“西新井駅 飛び込み自殺”というキーワードで検索をはじめた。
高校の図書室。書籍の冊数はさほどでもないが、一五台ほどのパソコンを導入してあるので、調べ物をするには、それなりに使い勝手がいい。いまだにガラ携だから、本格的な検索にはパソコンが必要なのだ。
すでに放課後となっている。三時限目からの遅刻だったが、学校での時間はいつものように静かにすぎた。
中央区日本橋箱崎町にある私立高校だ。
都心だけに校庭は小さく、緑もまわりにない。だが、雪耶はそういう無機質なところが逆に気に入っている。きっと、この図書室のように、他人との関わりを感じさせない空間が好きなのだろう。
「これか……」
すぐに、それだと思われる書き込みがみつかった。
今朝の出来事なのに、とは驚かなかった。
『死にぞこなってワロタ。気の毒。だれか解釈してやってくれ。電車遅れて、迷惑。安らかに逝くことを猪野る』
死にきれなかったから、これは「不幸」の部類に入る。だから迅速に、ネット世界をかけめぐっているのだ。
これが自殺未遂ではなく、あやまってホームに転落した人を助けた美談となると、こんなにはやく書き込む者はいない。夕方のニュースで報じられるほうが、さきだろう。
雪耶は一通り眼をとおしたが、読むだけ無駄だったと落胆した。
ただただ、不快な文章だった。
でたらめな漢字変換。わざと使うことが、彼らのステータスになっているのだろうか。あきらかに一般人ではない。
まるで、自分の眼で見たように語っているが、それすらもあやしい。そもそも、昼間からこんな書き込みしている人間が、普通に外出しているわけがない。
無線マニアのひきこもり。おそらく、消防無線か列車無線を傍受していたのではないだろうか。電車が遅れて迷惑、のくだりは想像で書いたにちがいない。
雪耶の知りたい情報はどこにもなかった。
知らず、指が勝手に動いていた。
気づいたときには、《赤いイルカ》の書き込みを、もう一度確認していた。とある自殺サイトだ。
学校のパソコンには、当然ながらフィルタリングがほどこされている。猥褻な画像、死体や殺人を肯定するような猟奇的サイト、爆弾や毒物などの知ってはいけない知識──これらの載っているページは閲覧できなくなっている。
しかし、どんなにシステムで防御をしようとも、利用者がその上をいけば、無用の長物にしかならない。ある人物にとっては、幼稚なパズルを解くようなものだ。
左手。
違和感。
疼き──。
思春期の子供にとって、もっとも悪影響なものが自殺サイトだ。
子供は感化されやすい。
まったく死ぬ気のなかった子供でも、興味本位でサイトを覗いてしまっただけで、自殺衝動をうえつけてしまう可能性がある。
そこには、死にたい願望ばかりが書かれている。
人生への絶望で埋めつくされている。
無気力、虚無感。
自分の価値がみいだせない。
生きていたって……。
鬱になりそうな文字しかない。
無論、自殺の方法も、イヤというほど載っている。
ビルなど高所からの飛び降りは、想像とはちがい、痛みはまるでない。むしろ、落ちるときの胸が浮くような感覚が、じつに気持ちよく、地面に激突する瞬間には意識を失っている──。
そんな文面を子供が見れば、死への恐怖はかなり軽減されるだろう。
実際のところは、だれにもわからない。
そういう情報は、生き残った者による証言からきているのだろうが、死と生のあいだには、大きな隔たりがある。
生存者がそう言ったからといって、本当に苦痛がないとはいえない。なぜなら、そういう人は、結局、死ねない程度の傷しか負っていないからだ。
それに、生存した未遂者が真実を口にしているともかぎらない。故意に嘘をつかなくとも、人間は自らの精神を守るために、偽りの記憶を創り出せる動物だ。もしかしたら、地獄のような痛みを思い出したくないだけなのかもしれない。
とはいえ、自殺サイトの存在が、完全なる悪というわけではない。現に、自殺サイトの掲示板に死の予告を書き込んだ者が、書き込んだそのことで悩みを他人に打ち明けた気持ちになり、自殺を思い止まった例もある。
自殺の実行を否定している『自殺サイト』も多数存在している。
だが、心をコントロールする能力を確立できていない未成年には、やはり負の要素のほうが遙かに多い。
雪耶は、自身の左手首が疼くことを感じていた。経験者という烙印は、どんなに立ち直っても消えることはない。
大きな未遂は、二度にわたる。
自傷行為は、頻繁だった。
病気だということは、自分でもわかっていた。死にたいというよりも、死のうとすることで「生」を実感していた。いわば、生きるために死のうとしているのだ。
大きな矛盾との闘いが、雪耶の日常となっていた。
自分は、このさき、やはり死を選んでしまうかもしれない。しかし、それではなんのために生まれてきたのかわからない。
せめて、なにかを残したかった。
自分が死を選ぶまえに、百人を助けよう……そう決心したのは、もう半年以上前のことだ。深まりゆく秋のころ。
これまでに、三人の自殺を止めていた。
一人がビルからの飛び降りで、二人が鉄道を使った自殺を考えていた。
時間と場所まで予告してあった自殺サイトの書き込みを信じた。三度とも、予告どおりあらわれた。
阻むのは、驚くほど簡単だった。
雪耶のやったことは、現場近辺で挙動不審だった人間に声をかけただけだ。なんとなく、そういう人たちはわかるものだ。三人とも成人した男性だったが、全員が眼に涙をためながら悩みを打ち明けてくれた。喫茶店やファーストフード店で一時間ばかり話を聞いたら、みな「自殺はやめます」と約束してくれた。
今日が四人目になるはずだった。
『わたしは、逝く。明日の午前九時、西新井駅でわたしは逝く。必ず逝く。絶対に逝く。逝くことこそが、わたしの存在する証明なのだ。だから、逝く。だれも止めないでください』
昨日、《赤いイルカ》という名前で、そう書き込まれていた。
止めないでください──という場合、本当は止めてもらいたいものなのだと、以前、心理学の本で読んだことがあった。実際、過去に止めた三人は、それを待っていた。
この人は、だれかに「やめろ」と言ってほしかったはずだ。この書き込みのあとには、べつのだれかが『うらやましいです。死ぬ覚悟ができたのですね』と自殺を肯定する見当違いのことを書いていた。自殺サイトなのだから、それも当然か。
だったら、自分が止めるしかない。
「どっち……?」
雪耶には、わからないことがあった。
《赤いイルカ》とは、どちらの男だったのだろう。
最初に飛び込もうとした──雪耶が腕をつかんだ男だったのか、そのあとのサラリーマン風の男性だったのか。
あの男は、逃げるようにホームから去っていった。
雪耶は、衝動的に追いかけようとしたが、駅員に支えられたサラリーマンがあげた声で、それをやめた。
「おまえが、《ウェルテル》か──っ!?」
意味不明な叫び。
だれにむかって言ったのだろう?
彼を助けた、去っていった男……に?
では、あの男の名は《ウェルテル》ということになる。本名のわけはない。あだ名なのか、ハンドルネームなのか?
その名前で思い当たることは、一つしかない。
『若きウェルテルの悩み』
物語を読んだことはない。
それでも、主人公が自殺する話だということは知っている。そして《ウェルテル》という名が、自殺を象徴するものだということも……。
「え?」
雪耶は、眼を見張った。
《赤いイルカ》の書き込みの少しあとに、こういう文面が……。
『ウェルテルには気をつけろ』
名無しで記されたものだ。
「ウェルテル……」
疼きのやまない左手に、まだ感触が残っていた。
あの男の腕をつかんだときの肌ざわり。
彫像のように重かった。
あの男、何者……?
数十分後──。
図書室を出たところで、明るい声に呼び止められた。
「チョットいーすか」
「ん?」
振り向くと、そこには下級生とおぼしき女の子二人組が立っていた。
「北川さん、チョーあこがれだったんすよ」
そのうちの一人がいった。化粧は厚いし、今時のギャル風だ。
(あ、ダメだ……)
雪耶は、耳が遠のくのを感じた。
「ラインを×○△□──」
言語機能が失われた。
いつものことだ。
友人関係を築くのが苦手なために、自然と一人でいることのほうが多い。よって、まわりの子たちが使う言葉に免疫がない、というわけだ。自分で自分のことを『生きた化石』と呼ぶことがある。
ここ最近は、コテコテのギャル語を耳にすることは少なくなったが、それでも、まだ根強くしゃべる子は多いし、普通の若者言葉でも症状があらわれてしまう。
たまに、関西弁でも同様の現象がおこってしまうが、どういうわけかは解明されていない。
「×○△□──」
「△×□○──」
これではどうすることもできないので、とりあえず雪耶は図書室へ戻ることにした。
「あ、ごめん、ちょっとだけ待ってて!」
この時間なら、あいつもいるはずだ。
パソコンのブースを一つ一つ覗き込んでいく。
「あ、柏木、通訳お願い!」
一人の男子生徒を確認すると、雪耶は軽い調子でそう言った。
男子生徒は、無表情のままムクッと立ち上がる。
「いいですよ、ヒマですから」
この学校で、唯一、雪耶が頼りにしている人間だ。コンピューター関連のことや、雑学的な知識は、すべて彼から調達しているといってもいい。フィルタリングの裏工作も、彼によるものだ。
ちなみに、雪耶が「本を読んだ」という場合、実際に読んでいるのは彼で、雪耶は、要約してくれた内容を彼から教えてもらっているにすぎない。
柏木。下の名前までは知らない。興味もない。
自他ともに認める秀才だが、なぜその秀才が、中途半端な偏差値のここに入学してきたのかは、不明だ。
ちょっとオタクっぽいが、普通の会話もできるし、とても融通がきく。どんな些細なことでも、このように協力してくれるのだ。
一見、オタクとギャルの組み合わせは、水と油のようにも感じる。派手な女子に恐れをなし、近寄ることすら拒否反応をしめすオタク男子も多いと思うが、柏木には臆するとこがない。
それがどうしてなのかを知って、雪耶は思いっきり吹き出してしまったことがある。
同じクラスのギャルっぽい子に片思いをして、免疫をつくろうと努力しているのだという。
「あ、ええーと、なんだっけ?」
柏木を連れ、雪耶は二人のもとへ行った。
「アタシ、マジ×△□○×△□○」
『わたし、本気で憧れているんです、北川さんのことが』
「チョー△×○□×キュン死△○□××○○」
『とっても、かっこいいです。大人びて見えます。もう胸がキュンとして死にそうなぐらい恋い焦がれています。本当の友だちになってください』
「なんすか、コイツ?」
『なんなんでしょう、この人は?』
ギャルたちは、柏木のことを睨む。
「オニウゼー△×△□○!」
『とってもとっても邪魔な存在なんですけれど』
「あ、柏木のことは無視していいよ」
雪耶にそう言われて、気を取り直したようだ。
「××○○ライン△△□□──」
『というわけで、ラインやりましょうよ』
「あ、ごめん、わたしスマホじゃないんだよねー」
「えー、チョーショックっす!」
『とってもとっても残念です』
「じゃー、今度××△○□○△にオケって×□○△ー。約束××」
『それでは、今度いっしょにカラオケに行ってください。約束ですよ』
「え? は、はい……」
仕方なく、そう返事をするしかなかった。
「キャー、チョーハピー×○□×△! キタガワッチが△□○×△□○×」
『とっても幸せです。北川っちが、なにを歌のか、いまから楽しみにしています』
憧れているというギャルは、付き添いの友人とはしゃいでから、雪耶たちの前から去っていった。
「はあ……」
雪耶は、ため息をついた。
自分が、まわりのみんなから浮いていることはわかっている。逆に、それが向こうからは興味の対象となってしまうようだ。
男から告白されたことはないが、女子から好意をもたれることはたびたびだった。
そのとき、電話のベルの音が鳴った。雪耶自身、実際には見たこともない大むかしの黒電話のものだった。どういうわけか、初期設定がそうなっていたから、面倒なのでそのまま使いつづけている。
「あ、もしもし、お姉ちゃん?」
雪耶は、携帯を取り出して、しゃべりはじめた。
柏木の存在は意識の外にはじき出されてしまったかのように、自分の姉と通話をはじめてしまった。
「それじゃ、帰ってからね──」
たっぷり話し込んでから、ようやく切った。柏木の視線に気づいて、雪耶はそそくさと携帯をしまった。
「あ、ごめん。あんたのこと忘れてた」
「べつにいいけど」
「あ、意中の彼女とはどうなったの? 告白できた? まあ、どうせまだなんだろうけどね。ウジウジして、ホントにみっともないよね」
雪耶は、勝手にズケズケと決めつけていた。
「……」
図星だったのか、柏木から反論はない。
「当たって砕けなよ。女の子は、いつでも伝説の勇者様を待ってるんだから」
柏木がゲーム好きだろうと根拠もなく予測して、そうアドバイスを飛ばす。
「ま、砕けちゃうだろうけどね」
「くっ……」
悔しそうに声がもれたが、耐え抜いたようだ。
「じゃ、またよろしく」