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年間の自殺者が三万人を超えつづけていることを憂慮して、二〇〇六年に『自殺対策基本法』が施行された。
それを受けて誕生したのが『自殺総合対策会議』である。内閣官房長官を会長とし、委員を国務大臣がつとめるこの内閣府の下部組織が、日本における自殺問題の最高機関となっている。
機能しているのかという疑問は、設立当初からつきまとっている。過去には、委員の一人である大臣が自殺してしまったこともある。会長の「お涙ちょうだい」発言で世間を騒がせたこともあった。
自殺者の数は、いまだ減らない。最新のデータでは三万人を割ったようだが、それでも多すぎる。しかも、三万人という数字は、自殺だと断定できているものだけだ。日本での変死者は、一年間に一五万人いるという。そのうちの大多数が自殺者ではないかと主張する専門家もいるのだ。もしそうだとするならば、年間の自殺者は一〇万人を超えてしまうことになる。
厚生労働省所管の施設では『国立精神・神経医療研究センター自殺予防総合対策センター』というところが、自殺対策をおこなっている。
それでも、なお減らない。
NPO法人やボランティアとして活動している団体も、数多くある。
そもそも人々は、なぜ死を選ぶ?
同日昼
午前十一時三〇分を回ったところで、机上の電話が音をたてた。
南波は、迷わずに受話器を耳にあてる。
『予備調査の報告を』
出るなり、女の声が一方的に用件を告げてきた。
社交辞令的な挨拶もする気はないらしい。
「かぎりなく『CS』と認められる」
南波も、相手のペースに合わせた。
『では早速、本調査および群発自殺の防止にとりかかって。必要なら、こちらから学校のほうへ話を通しておいてもいいわ』
女の声は、そう言ってみたものの、すぐに考えをあらためたようだ。
『まって。学校へだったら、そちらの所長さんのほうが顔がきくわね』
「無事、ここまでたどりつけたら……の話になるが」
そう対応すると、南波は、チラっと所長のデスクに眼をやった。
まだ徘徊しているようだ。
『ポックリいかないように、祈っててちょうだい』
その冗談には、のらなかった。
『あ、そうそうウェルテル』
「その名は、使うな」
南波は、声に怒りをこめた。
「あの書き込みは、おまえか?」
『バカなこと言わないで。あなたを妨害するようなことして、なんになるの?』
《赤いイルカ》の書き込みのあとには、『ウェルテルには気をつけろ』という忠告がされていることがある。最初は、それが自分のことだと南波も思わなかった。
この事務所が設立されたのが、一年半前。そして実際に南波が活動をはじめたのが、一年ほど前になる。伝染性を調べるために、自殺サイトの掲示板を利用したことで、《赤いイルカ》の存在に気がついた。
あのときの彼女が源流なのかは、さだかでない。
南波の知るかぎり、最初の一人。
予告どおりに、彼女は帰らぬ人となった。
有名なモデルだったらしい。
しかし《赤いイルカ》は、死んでいなかった。
またべつのだれかが《赤いイルカ》に……そして、またべつの──。
継がれていた。
《赤いイルカ》という名が。
まるで歌舞伎役者や落語家の襲名のようだった。
そして、いつのころからか『ウェルテル』の名も、ネット世界をさまようようになっていた。
《赤いイルカ》にたいして、気をつけろ、と注意を放っているのだとしたら、南波の邪魔をしようとしていることになる。
いったいだれが、なんのために?
『だれだっていいじゃない。あなたは、自分の仕事に徹しなさい』
女は、どこか楽しげな声音で言った。
厚生労働省の役人だということはわかっている。まだ三〇歳そこそこの若さだというのに、この『自殺防疫研究所』を開設する際に中心となった人物だ。
姓名は知らない。
何度か会っているが、名刺をもらったこともなければ、彼女の口から自らの名が出たこともない。
故意に隠しているとしか思えなかった。
『いい? 群発自殺を止めるのが、あなたの任務。余計なことに頭は使わないで。すぐに対策を。手段は自由──あらゆる手をつくしなさい』
「おまえのことは、なんと呼べばいい?」
南波の問いは、部屋だけに響いた。
切るときも、やはり一方的だった。
「南波ちゃん、こわい顔してるわよ」
受話器を置き、立ち上がった南波に、西崎涼香が声をかけた。
「外に出てきます」
「くれぐれも、無茶はしないようにね~」
爪の手入れをしながらの言葉だった。
とても心がこもっていない。
『あなたを妨害するようなことして、なんになるの?』
電話の声が、脳裏に残っている。彼女の言うとおりなのだが、どこかで信用しきっていない自分がいた。
彼女のことは、とても世話になった、ある人物に紹介されたのだが、名前すら隠している女を信頼できるほど、南波はお人好しではなかった。
「どうしたの、南波ちゃん?」
扉の前で立ち尽くした南波の背に、ゾクリと声が襲いかかった。
「行くんじゃなかったの?」
もし厚生労働省の女役人が、味方でなかったら……。
まちがいなく、西崎涼香も敵になる。
隠し持っているであろう拳銃。
狙いをつけている?
妄想……妄想なのか!?
本当に銃口を向けられているのなら、《ヤツ》が黙っていないだろう。
そうだ、妄想だ。
「南波ちゃん?」
「いえ、なんでもありません」
そう応じると、南波は扉の外に出た。
一時間後──。
やって来たのは、文京区の湯島だった。
硫化水素で自殺をした菊地という生徒の自宅に向かっていた。
中学校での自殺連鎖とはちがう観点から、今回の群発自殺を考える意図があった。ここ一ヵ月のあいだに、硫化水素を使った自殺が続いていた。都内だけで、未遂もふくめると十数件におよんでいる。
この数年を通して流行していることはまちがいないが、それにしても集中しすぎている。
自殺の感染には、自殺する、という行為そのものの感染のほかに、自殺方法、自殺場所も伝染するとされている。
自殺場所に関しては『自殺の名所』と呼ばれるスポットが各地に点在していることでもわかるだろう。この要素は、今回の連鎖にはいまのところ無関係のようだ。
菊地という生徒は、同学年生の自殺に影響をうけただけでなく、頻発していた硫化水素自殺という『方法』での感染もしていたと推測できる。
自殺した三人の中学生は、それぞれちがう死に方を選んでいる。
南波には、そこが少し引っかかっていた。
できれば、菊地和彦の自宅にあるパソコンを調べてみたかった。報道などによると、パソコンで硫化水素の検索をしたとされている。
しかし、南波に捜査権はない。このまま家をたずねても、はたして遺族は南波をなかに入れてくれるだろうか。
門前払いも覚悟していたが、実際に訪れると、南波の危惧は拍子抜けするほどに裏切られた。
応対に出た母親は、とても親切に接してくれた。こちらの話も、すぐに理解してくれたし、協力してくれるとも言ってくれた。
だがどちらにしろ、目的は達せられなかったのだが……。
問題のパソコンは、警察の手に渡っていた。
押収ということではないが、任意で提出を求められたという。完全に自殺と断定された案件だが、騒ぎが大きくなってしまったために、警察としても入念に調査をするつもりらしい。
南波は、母親に感謝の意と、突然の訪問にたいする非礼を詫びて、菊地家をあとにした。
いや、あとにするつもりだった。
「あの!」
母親が、追いかけてきた。
「もう一台あるんですけど……」
「え?」
「ですから、刑事さんにお渡ししたパソコン以外にも、息子が使っていたパソコンが、もう一台あるのですが……」
詳しく話を聞くと、警察が持っていったパソコンは、和彦の自室にあったデスクトップ型のパソコンだそうだ。しかし彼は、携帯電話を使わないかわりに、小型のモバイルPCを常時所持していたという。
「みせていただけますか?」
「どうぞ、お持ちになっていってください」
さすがに、南波は驚いた。
「いいんですか?」
「これ以上、自殺が続いてほしくはありません。少しでもお役にたてるのなら……」
「では、お借りします」
「あの……もし、息子が死を選んだ理由に近づけたなら……」
母親は、そこで声をつまらせた。
「わかりました。必ず、お伝えします」
南波はモバイルPCを受け取ると、今度こそ家をあとにした。
その帰り道。
住宅街の狭い通りを、三〇メートルほど進んだあたりだろうか。
〈いいかげん、気づけ〉
声が囁いた。
〈またつけられてるぞ〉
思わず、振り返りそうになった。
〈見るな! イヤな予感がする〉
(どんな人間だ?)
〈さあな〉
思い当たるのは、このあいだの刑事(らしき男)だ。
いや……。
南波の脳裏には、なぜか北川雪耶の顔が浮かんだ。
〈それは、おまえが会いたがっているからだ〉
その声は無視した。
南波は、足を速めた。
〈ついてくる……ん?〉
(どうした!?)
「ちょっと、どうして逃げるのよ!?」
知っている声だった。振り返るまでもない。
北川雪耶だ。
〈おまえの勘が当たったか……〉
どこか腑に落ちないようだったが、ヤツは言った。
「ねえ、いま菊地って子の家から出てきたでしょ」
「オレをはってたのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。たまたまよ、たまたま。わたしの家がこの近くだって知ってるでしょ?」
近いといえば近いが、それは東京都内という広い範囲のなかにおいては、というレベルの話だ。ここが近いのなら、台東区、文京区あたりはどこでも近所になってしまうだろう。すくなくても、偶然に会えるほどの近距離ではない。
まあ、同じ中学校へ通っていたわけだから、彼女の生活圏が重なっていたことは否定できないが……。
話によれば成望中学校は、私立といっても寮があるわけでもないし、自然に近いところの生徒が集まってくる傾向にあるようだ。
学校側としても、推薦などでは、近隣の生徒を優先的に取るようにしているらしい。
「それはなに?」
めざとく、ソフトケースに入ったモバイルPCをみつけた。
「へえ、いまどきの中学生は、そんなの使ってるんだ。ハイテクねぇ」
「オレのだとは思わないのか?」
「それはちがうでしょ。いままでそんなの持ってたことなかったもん」
もっともな推理だ。
返す言葉もなかった。
「そのなかに、自殺の原因とか真相とかが書いてあるわけね?」
「調べてみないとわからない」
「いまから調べるんでしょ?」
雪耶は、眼を輝かせていた。
「ダメだ」
「いいじゃん、それぐらい」
その後、しばらく押し問答をくりひろげたが、結局、押し切られた。どこかで、いっしょに調べることになった。
* * *
みつけた。
片瀬仁は、昂る気持ちをなんとか抑えていた。
やはり、あの男は自殺した菊地和彦の自宅に姿を現した。そこから、男の素性をさぐるために尾行しようとしたのだが、彼女があの男に近寄っていった。
昨夜のニュースではモザイクがかかっていたが、まちがいなく彼女だろう。なるほど、勘違いなどではなく、たしかに高校生だ。証言のほうが当たっていた。
では、なぜ中学校から?
すぐに答えがわいた。
卒業生。
新調したデジカメで、女子高生の顔も撮影した。南砂町で老婆が口にした特徴とも一致する。長袖のシャツ。長い黒髪、前髪もそろえられている。なによりも、美しかった。年甲斐もなく、未成年に眼を奪われた。
あの中学校に問い合わせれば、素性も判明できるだろう。仮に学校とは無関係だったとしても、制服の特徴──冬服よりは難しいだろうが、スカートのデザインなどから調べられるはずだ。
さて、これから尾行を続けるか、彼女の身元を調べるか……。
単独捜査において、一度の機会をふいにすることが、どれだけ大きいことかは、すでに実感している。
残っているのは、今日一日だ。
そのわずかな時間のなかで、眼に見える成果を出さなくてはならない。
慎重に、かつ迅速に決断をくだすのだ。
男一人ならば、このまま自宅か職場に戻るかもしれないが、彼女と二人ならば、どうなるかわからない。
尾行は、得策でないのかもしれない。
思い切って、接触してみるか?
いや、男の正体が判明しないかぎり、それは危険だ。すでに一度会っている。むこうも警戒しているだろう。
そうか。
もしかしたら、菊地和彦の母親に、名刺を渡すか、素性を名乗っているかもしれない。もし名刺が手に入れば、指紋も採取できる。前科者だとしたら、身元が割れる。
まずは、母親をあたろう。そのあとは、女子高生の線からさぐってみることにする。